妄念の突風を恣に吹きつのらせるのは、まさしく人格破綻を宣明する愚行だが、舌先へ駆け上がって来る第三の自心という呪言を押し戻すのは、私ごとき意志薄弱者には手に余る難業である。もっとも、幻でなく現前する絵頁に鬼気の眼光を注いだ上で、自心を揺り起こすに足る妖異の芽が兆していると水鶏氏に感得されないのであれば、偽書物の絵図の変容、絵像への面差しの遷り込みを発議しても、氏の穿鑿心を鼓舞することは見込めない。
「先生、先生はこの本の挿画に、同人と思しい男の様態が何枚か写照されているのにお気づきでしょうか。」
「さっきあなたが指摘してくれたことで、成るほど挿し絵があったのを安閑と見過ごしていた気無しのひどさに切歯していますよ、遅ればせではありますが。これは取り繕いになりませんが、あなたが絵図に言及されてからずっと、隠れなく黒い本に綴じられ目に入らざるを得ない絵頁なのに、何故私の意識の網をすり抜けているのか自問していました。おそらくは、最初の挿し絵の頁へ至る前に、早くも例の別世界へ拉し去られたためだろうなどと腹に落ちかねる理詰を探ったり、くどくどしく反芻しているうちに、なんだかこじつけめいた捻じ曲げに四苦八苦してどうなるんだと、思いがけなく朴直な声が囁いたりして、期望しもしない形勢の到来に当惑しています。
私は自分のささやかな家政に思ふ存分の設計をしておいた。主人は家から六ヤードぐらゐのところに、私のため部屋をあつらへるやう言ひつけてゐた。私は壁と床を自ら粘土で塗つて自分で工夫した藺の筵を敷き、そしてあたりに野生する大麻を打つて、一種の被布を作つた。そしてヤフーの毛ではじきをこしらへて鳥を五六羽つかまへ、その羽をこれにつめた。この鳥は立派な食べものにもなつた。自分のナイフで椅子を二つ作りあげたが、栗毛の小馬が大まかで骨の折れる部分は手伝つてくれた。着物を着古してぼろぼろになると、別に兎やヌーノーといふ同じくらゐの綺麗な動物の皮で作りなほした。(このヌーノーの皮は細かい綿毛で蔽はれてゐるのである。)私はまたかなりの靴下もこれで作つた。靴底には木をつけたが、樹木から切り取つて、表革に合はせたのである。これを履きつぶすと、日に乾したヤフーの皮を代用した。また屡々うつろになつた木から蜜をとつて、水とまぜたりパンにつけて食べたりした。「自然の望みは易々として満たさる」と「必要は発明の母」の二つの諺の真であることを、これ以上に立証できるものはあるまい。私は完全に健康な体と平静な精神を楽んでゐた。ここには友の裏切りや軽薄さ、或は内密の敵と公然の敵の危害もない。大官やその腰巾着に取り入るために贈賄したり、阿諛したり、女をとりもつたりする機会もない。詐欺や圧迫の防禦は要らない。ここには私のからだを滅茶苦茶にする医者や、私の財産を蕩尽させる弁護士もゐない。賃金を貰つて、私の言葉と行動を監視したり、私を陥れるために虚偽の訴をする密告者もゐない。ここには嘲るものも、咎めるものも、陰口をきくものも、掏児も、追剝ぎも、強盗も、代言人も、女衒も、道化師も、ばくち打ちも、政治家も、頓智家も、意地悪屋も、長談義屋も、議論屋も、強姦するものも、人殺しも、盗賊も骨董通もゐないし、党派の領袖も手下もゐないし、籠絡したり手本を見せたりして悪に誘ふものもゐないし、牢獄も、首を斬る斧も、笞刑柱も、曝台もない。人をだます商人も職人もゐない。自慢も虚栄も衒ひもない。めかしやも、弱いもの苛めも、飲んだくれも、街の女も、瘡つかきもゐない。馬鹿騒ぎする、不貞で贅沢な女房もゐない。愚鈍で高慢ちきな衒学者もゐない。しつこくて、横柄で、喧嘩好きで、やかましくて、騒がしくて、空つぽで、自惚れが強くて、口汚い連中もゐない。背徳のおかげで成りあがつた悪党も、美徳のおかげで落魄した貴族もゐない。領主も、ヴァイオリン弾きも、裁判官も舞踏教師もゐない。
(「ガリヴァー旅行記」 ジョナサン・スウィフト著 町野靜雄訳)
昨今、読み終わった本、要らなくなった本を古本屋に売りに行くくらいなら、自分でネット上に出品する方がいい、という人が尠くないのではないか。別に高く売れなくても(無償で邪魔モノが片付くならば)、古本屋の下風に立たされて理不尽な気分を味わわないだけマシだし、さほど手間もかからない。そう思う人が増えると、現物市場への流出入は乏しくなり、いつ行っても古本屋の棚には見飽きた本が並んでいることになる。ただでさえ流動性に乏しい古本屋の本棚では、家庭等から買い入れたり市場で補充交換したりしているのかも知れないが、売れない本が売れないが故に我が物顔で居座っている。
なにせ御本尊の古本屋からして、無店舗経営はもとよりネット売上げに相当部分を依存する体質へと雪崩を打って移行していないか。わざわざ古本屋の現地店舗まで足を運んでも、以前と変わらぬお茶ひき本が店晒しになっていては、古本病者のたたずむ店内が索漠たる脱力・落魄の虚無空間になるのは思い半ばに過ぎる。寂寥に打ち拉がれた古本病者の胸中に砂を噛む思いが溢れる一方、古本病者特有の餓狼的風体を窺う古本屋の主人は、今どき本棚に列ぶ古本を物色しに訪れる者といったら、悪い熱に魘され窃取も辞さない偏執狂か、若しくは卑しい衝動に駆られた転売目的のせどり屋に違いないと不審の目を一層光らせる(だろう)。
いかに本性惰弱だからといって、未知なる古本との予期せぬ出逢いの喜びが望むべくもない荒蕪へ、うかうかおびき寄せられる純真な古本病者はそう多くない。
水鶏氏の説によれば、己れの分身と出会ったときの、居たたまらない衝迫の中に現世界の実在する証しがあるとされる。だとすると、偽書物の処々に挿入された絵が徐々に変容して行く状相を観じて湧き上がる私の不快感は、何ものかの実在に起振された感情であるとも考えられる。これまで私に開顕されていない偽書物の自心が、気助かりな平安の情意へ颶風を巻き起こし、私の意識の裾野いっぱいに不快の棘虫を落としている、と滅法界な奇説を立てることができそうである。面倒なのは、登場の自心が水鶏氏に呈された別世界の実在の根基たる偽書物の自心と同じではないことだ。胡散げな奇説に準依するなら、じわりと私の内裡へ滲出して来る不快感は、絵頁の奥で仕舞い込まれている、もう一つ別の世界にその源泉を求めなければならない。しかも、水鶏氏は黒い本を懐いて絵頁を見過ごしていたと言い、切要な絵像へ特段の関心を寄せる節がない。
水鶏氏は黒い本の解読できない文字を眺めるともなく眺めているうちに、別世界を直截に見聞きしたと語っている。それこそが、第二の自心を水鶏氏に発想させた変事である。解読できない文字の伝えるべくして伝わらない自心と、水鶏氏が直截対面した自心、それで二つの自心が偽書物にあるとすれば、絵姿の上へ紛いなく表出しつつある私の容貌は何なのだろうということになる。
時代が文学的でないことを最も痛切に感じてゐるのは文壇人であらう。ブックマンが各方面の人士に百年先の予言を質問したら、それに解答した文士と詩人の言草は皆な悲観的であつた。予言の興味は、その適中するか否かよりも、予言するもの自身の現在の心境を示す点にある。
ポーヰズ(T.F.Powys)は云ふ。――「現代の如き虚偽の教育は真に高貴なるものを全滅して了ふ。あと百年すれば、文学趣味は無くなり、文学は消失する。そして機械に追はれる暴徒の支配する時代になり、人間は喋舌つてばかりゐる。喋舌つて日を暮らす。沈黙もない、閑居もない、田園生活もない。声をはづませて喚き立てる己惚の強い愚人の群集が到る処に発見される。静かな悠々たる日も美しい夜も無くなる。立派な作品は出やうがない。みんな一律で平凡になる。思想も、霊感も死に絶へる」。
又、「百年先になれば、その時分の文学があるから今日の作家は読まれなくなる」と答へたのはヒュー・オルポール(Hugh Walple)であり、クロニン(A.J.Cronin)は、「二千三十三年に世界が何うなるかよりも、私は、まだ世界が存在するだらうかを心配してゐる。人間がもつと単純にならなければ、破滅あるのみだ。併し彼等は単純にならうとも思はず、また、なれもしない」と云ひ、ベレスフオド(J.D.Beresford)だけが、「次の発展は精神的方面に向ふだらう」と予言者然として答へてゐるのみである。
ステフェン・スパイダー(Stephen Spider)が、「私は予言的詩人でないやうであるが、新聞を読むでゐると、百年先になると尠くとも西洋人は居なくなるやうな感がする。しかし、支那の学生が死語の練習として恐らく英語を書くであらうから、英詩は何かの形で残らうとは思ふ」と云ふ。
斯く文壇人は文学に悲観し、新人は出でず、社会情勢は文学的でないが、文壇は去年以上に沈滞してゐるのではない。同じ水準を上下してゐると云ふだけで、相当に興味があると云ふ程度の作品なら実は出てゐないわけではない。
(「中央公論年報 1934年版」)
安っぽい含意で膨らんだ美辞麗句のモザイク片を懸命に掻き集め、恣意的に絵図の表徴を練り上げても、とどの詰まりは方便の脱け殻です。黒い本の中有に浮かぶ蜃市で自心を通い合わせた者からすれば、埒外で佇立している文字形や挿し絵の、あるなし量り難い意脈の節々をかれこれ探問しても、所期の報償を得られるはずがないのは瞭然としている。黒い本にまがりなりにも第一の自心があるとして、それを出し抜いて私等の自心と邂逅を遂げるもう一つの自心があり、現世界を伸暢する異種異端の別世界が生まれ出るならば、それだけで至楽の域に達します。
ことさら二つの自心を天秤にかけて打算の優位へおもねたり、いっかな注意を払わず熟視して来なかった絵柄を書物の自心の象徴へ担ぎ上げたりと、私には円転滑脱の軽業をこなす器用さはないので(あってほしくないので)、異相の別世界が私を包むとなれば、まっしぐらに感嘆し、一散に歓喜するのです。」
回りくどい作為を忌むのが水鶏氏の堅地である。手垢まみれの作為と無縁であるために、別世界に驚き、別世界に包裏される自心を実感することができるのである。それでは、私をひたひたと浸し始める掴みどころのない不快感は、何ものかの存在を実感してのことだろうか。遷移する絵像から投げ込まれた礫が胸臆に描く水紋は、何ものの実在を暗示しているのだろう。
われわれがケームブリッヂ氏の図書室で氏に向つて御辞儀をすますや否や、ヂョンスンはつかつかと部屋の一方に走つて往き、書物の背を夢中になつて眺めはじめた。サー・ヂョシュアは囁いた、「わたしが絵のそばに走るやうに彼は書物の方に走る。しかし、わたしの方が都合が良い。彼が書物を見るより、わたしの方がずつと多くの絵を見ることができるから。」この時ケームブリッヂ氏は鄭重に云つた、「ヂョンスン博士、私はお見受けするところあなたが持つて居られると同じ習慣をもつてゐるので、先生の前ですが、我ながら困つたものだと思つてゐるところです。書物の背中がそんなに眺めたいとは妙な癖もあつたものですね。」議論なら何時でも来いのヂョンスンは忽ち、夢うつゝの状態から醒めてくるりと向き直つて答へた、「理由は極めて簡単ですよ。知識には二種類ある。われわれが自身その問題を知つてゐる場合と、それについての知識が何処を探したら得られるかを知つてゐる場合とです。われわれが何かの問題を調べる時に、第一にしなくてはならぬことは、どの書物がそれを扱つてゐるかを知ることです。だからして、われわれはカタログを見たり図書室の書物の背を眺めたりすることになるわけだ。」サー・ヂョシュアは、ヂョンスンが議論に飛びついていくことが恐ろしく早いことを私に告げた。私は云つた、「さうです。彼は形式的前置きをしません。剣を揮り廻はして見せたりしないのです。あつと思ふ間に相手の肺腑を貫いてしまふのです。」
(「サミュエル・ヂョンスン傅 中」 ボズウェル著 神吉三郎訳)
まったく、なんと得手勝手な人間だろう。おれがこっそり隠し持つ衒学癖を遠慮会釈もなく曝しものにする無神経に、あらためて慄然とせざるを得ない。近頃幻影を見るのだ、なんてうっかり口走った日には、途方もないレッテルを喜々として貼りまくり、はらわたを抉りに抉るのが目に見えている。おれの心の深窓へ盲滅法に突貫し、赤裸々な魂の枯痩を発き出すまで手を緩めないだろう。情けない限りだが、おれ自身、幻影をうまく飼い馴らすことができないでいる。あの幻影は絶対に秘匿しておかなければならない。よそ目には金棒引きで空っ惚けた単細胞に映るこの女は、他人の幻想であろうとおのれの譫妄であろうと見境がない。凡そ人間心理の異状をむさぼり尽したい欲求に取り憑かれているのだ。
気がつくと降りるべきは次の駅である。このまま知らんぷりして電車に乗り続ければ、無用の紛擾にかかずらわずに済むのだが、相手はそんなドジを踏む間抜けではない。早くも腰を浮かせて降り支度の体勢に入ったかと思うと、万力の鉤爪を容赦なくおれの左腕に噛ませてくる。手心を一切加えぬ怪力によって齎される痛みはひたすら痛いばかりであって、倒錯する快感の割り込むすきは毛筋もない。
挿し絵の人物が私の顔つきを模していると見えるのは、私が偽書物の気を引くためにわざとらしい弱音を内心で発していて、それに応答して絵像が密やかに変わって行くのだと、かなりに気恥ずかしい狂想が思わず喉元へ出かかり、あわてて胸の奥へ押し戻す。舌と頭とが仲違いするのを少なからず許して来たが、調子づいた舌のしでかす不始末への積もり積もった辛抱が堰を切り、迷妄を平然と垂れ流す悪疫にとうとう頭の芯まで冒されてしまっていた。ただし、私に覆いかぶさる偽書物の翳は、水鶏氏の営為する思議に端から存在しないものである。
「傲慢の裏返しである恭謙を寸時棚上げさせてもらえば、黒い本が私に示顕した別世界は、書物一般が文字を駆使して私の自心と同調し、現世界に複層の実存を付加するものではなくて、黒い本を手に取って、特異な場所と時刻のきっかけに恵まれた者だけに解かれる秘鑰であると言っても過言でない。本の所有主である、本と入魂の間柄である、というのは格別に恵まれるきっかけとは無関係な、成り行き任せの偶発事です。命数に順じて特に私が選ばれたのではないのだし、あなたにだっていつでも起こり得ると考えるのが正しいのです。ついでながら、描かれた挿し絵に対するあなたの拘りが奈辺にあるのか判然しませんが、私には黒い本の自心が根差しされた絵図とは受け取れませんね。
わが家へ帰ると、彼は心の悲しみを和らげるために新刊の書を取りよせました、そして気ばらしのために、数人の文士を食事に招待しました。ところが、蜜に群る蜂のやうに、招いた倍もやって来ました。寄生虫どもは、争って食べ争って喋りました。彼等は二種類の人々、則ち死んだ人々と彼等自身だけを褒め、現存の人々は、その家の主人以外は決して褒めませんでした。もし誰かその中の一人が名句を吐くと、ほかの者は目を伏せて、自分がそれを云はなかった口惜しさに唇を噛むのでした。彼等はマギたちほど己を伴って空とぼけるといふ所はありませんでした、それは彼等がさほど大きな野望の目的を持ってゐないからでした。彼等はきそって卑しい下男の地位と高い偉人の名誉とを得ようと努めました。彼等はおたがひに面と向って侮辱するやうな事を云ひ、そしてそれを機智のある印だと思ってゐるのでした。彼等はバブークの使命について多少きき知ってゐました。一人は声を低くして、五年前に自分を充分に褒めなかった或る作家を滅ぼしてくれと彼に頼みました。一人は自分の作った喜劇を見て一度も笑ったことのない或る市民をやっつけてくれと頼みました。また別の一人はアカデミイの廃止を要求しましたが、それは彼がどんなにしても入会を許して貰へないからでした。食事がすむと彼等はおのおの独りで帰って行きました。といふのは、この一隊の中に、二人ゐてお互いに我慢し合ふことの出来る者、否、彼等を食事に招いてくれる金持の家以外の所では、お互いに話をすることの出来る者さへ、ゐなかったからです。このやうな毒虫は全般的破壊に逢って死んでも大した害はあるまいと、バブークは判断しました。
(『浮世のすがた バブークの夢(彼自身の手記)』 ヴオルテール 池田薫訳)
水鶏氏の宥めの言葉は、時宜にかなえば心の揺動を鎮めるうってつけの頓服になっただろうが、膝の方から胸元へ締め上げる物慣れない悪寒に悩まされるその時の私には、差し伸べられていた腕先がさっさと退き遠ざかる身の躱しと響くのである。水鶏氏が打ち明ける自心の発掘譚に身を入れて耳傾けず、いつ果てるとも知れぬまどろっこしい繋辞の反復に辟易して、黒い本の柔肌へ逃亡した報いは覿面で、島影一つ見えない冥闇の海へ偽書物の筏もろとも無情に送り出されている。
水鶏氏をして、自心の唯一無二を揺るがさしめたのは、私ではない。私にそんな詐欺師的知能が備わっていないのは、これまでの鈍間な受け答えから歴然だ。では、そのように謀ったのは偽書物であると言い張ったら、これ又無実の罪のなすり付けである。水鶏氏の見聞きした別世界は、文字を介さずして氏の自心と偽書物の自心(一つあるか二つあるかの詮議はさて措き)とが呼び交わし、現われ出た異例のものである。水鶏氏が潜意識で冀い、先触れを察知し予て待ち設けていた別世界ではない。かえって、永く温めて来た持説である別世界の実在、その根基となる自心の実感が侵奪されかねない、濁った混音をも孕んだ世界なのである。現下の水鶏氏には、たかだか偽書物に差し挟まる絵画面である。そこへ浮き出た人物の顔容に私の面差しが乗り移りつつあるのではと縁起でもない禍言を吐いた日には、黒い本にぴったり添い臥しされて頭のネジが逆さ狂いに回り始めたと、真底気味悪がられるに決まっている。