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美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

人間に代わる世界

2014年05月29日 | 瓶詰の古本

   土くれを集めて造り上げた人形に魂を吹き込むには、人に倍する苦悩を背負っていなければならない。魂とは苦悩であると誰が教えたのだろうか。神が示したのか、救世主が語ったのか。瞬く間の生の途上であれ、それを知り、かつ、人に倍する苦悩を背負い切る者はほとんどいない。そして、ことの行き着く果てに、狂気と混じり合う苦悩を背負い込んでしまう者であれば、たとえ乾いた砂ぼこりのような人形にであれ魂を分かち与えることができるのかも知れない。
   絶望にはきりがない。苦悩にはやすみがない。途絶えることのない苦悩の連続のなかで、人形をこしらえ、一足なりと歩み出させようと願う心魂は、やがて人間の貌を写し取った人形の表情をおおって顕れるものである。魂の抜けた人間の貌から未来を読み取ろうとする時代は終り、人形の表情に人間の理想善を仮託する古代は還らない。今や、小心から生まれた悪念、邪気の力ばかりが未来を切り拓くのだ。かろうじて生き延びるのは、無数の苦悩の余滴から生まれ落ちる悪念の表情と魂を持った土くれの人形だけとなる。時代錯誤として葬り去られた絶望とか苦悩とかが、見えないからくりの働きによって人々に得体の知れない不安を孕ませながら生きるに値するこの世を形造って来たことを知らない世界はいずれ滅びなければならない。苦悩の果てにやむなく魂を吹き込まれた土人形が生き残るのとひきかえにして。

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食通の奥義(太宰治)

2014年05月27日 | 瓶詰の古本

   食通といふのは、大食ひの事をいふのだと聞いてゐる。私は、いまはさうでも無いけれども、かつて、非常な大食ひであつた。その時期には、私は自分を非常な食通だとばかり思つてゐた。友人の檀一雄などに、食通といふのは、大食ひの事をいふのだと真面目な顔をして教へて、おでんや等で、豆腐、がんもどき、大根、また豆腐といふやうな順序で際限も無く食べて見せると、檀君は眼を丸くして、君は余程の食通だねえ、と言つて感服したものであつた。伊馬鵜平君にも、私はその食通の定義を教へたのであるが、伊馬君は、みるみる喜色を満面に湛へ、ことによると、僕も食通かも知れぬと言つた。伊馬君とそれから五、六回、一緒に飲食したが、果して、まぎれもない大食通であつた。
   安くておいしいものを、たくさん食べられたら、これに越した事はないぢやないか。当り前の話だ。すなはち食通の奥義である。
   いつか新橋のおでんやで、若い男が、海老の鬼がら焼きを、箸で器用に剥いて、おかみに褒められ、てれるどころかいよいよ澄まして、またもや一つ、つるりと剥いたが、実にみつともなかつた。非常に馬鹿に見えた。手で剥いたつて、いいぢやないか。ロシヤでは、ライスカレーでも、手で食べるさうだ。

(『食通』 太宰治)

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2014年05月25日 | 瓶詰の古本

   白っぽい道を群集に混じって歩いて行くと、右手に洞穴のように口を開けたトンネルが見える。トンネルの入口には煙めいた闇黒が漂っていて中が全く見えないのだが、一歩足を踏み入れてみると、まばゆいオレンジ色の明かりで縦横が満たされている。トンネル内部の道は柔らかな苔土になっていて驚くほど歩き易い。道はしばらく緩やかに起伏が繰り返し続くと思っていたら、突然、真っ逆さまに逆落しかと見まごう急な下り坂が現われる。そこを転がり落ちるも同然に楽しく一気に降りて行くと、今まで広々としていたトンネルが少しずつ狭くなってきた。周りには結構な人々が連れ立ちさんざめいている気配なのだが、声は一切聞こえない。
   ふと横に目をやると、そこに温泉への扉がある。小さい頃に祖父さんに連れられて行ったとき見たと同じ湯治場特有のきしんだ引き戸を開けてみると、すぐ脱衣所になっている。人が大勢犇めいて裸体同士がわんわんと反響し合っている狭苦しい脱衣所だ。蹌踉として着衣を脱いで浴場の戸を開くと、思いのほか広大にでき上がっていて、高い天井の下に浴槽が二つある。やはり人が大勢湯につかっているのだが、いざ入ると到底足が着かない位に深い湯船になっている。立ち泳ぎをしながら湯を愉しむといった風情、というか湯に入るためにはうまく立ち泳ぎができなければならない。
   ひとしきり温まってから再び脱衣所へ戻る。脱衣所のどこからか甲高い号令が聞こえて来て、なにやらえらい貴人が入浴する騒ぎになっているらしい。下々の者は身近の壁に張り付いたまま立ち列んでいないと取っ捕まってえらい目に遭うという。早くに湯に入ってしまって良かったと喜んだ。騒ぎは大分遠くの方で起こっているので、どさくさにまぎれて素早く浴場を後にした。
   相変わらずトンネルの内側はオレンジ色に明るく染め上げられた通路が続いていて、圧迫感とか閉塞された感じとかはまるで起きない。先の方へさらに歩いて行くと、いつの間にか赤レンガ造りの建物が軒を並べる街路に出た。固い舗石をみっしりと敷き詰めた街路の上にバスが1台停まっている。これからこのバスに乗って、あそこに見える峠を越えるのだ。峠の上の高いところに鳥居らしきものが建っていてその前には長い階段も設えられてある。バスが鳥居の下をきっとくぐらなければ峠は越えられないのだ。

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大雅堂(和田垣謙三)

2014年05月24日 | 瓶詰の古本

   丈二丈の大幟に、今しも正の一字を書き終りたる大雅堂は、氏子共を顧み、「時に潤筆料の儀は?」東山の麓に稲荷の祠がある。其の社前に立つべき大幟の執筆を大雅堂に依頼した氏子一同は、無欲を以て聞えたる大雅堂には似合はぬ語だとは思ながら、「如何程でも先生のお望み次第。」「然らば百金頂戴致さう。」法外の潤筆料とは思ひながら、氏子共「宜しう厶います。」大雅堂は書き終り、百両を懐にして、早々其の場を去つた。「無欲と思ひの外あんな欲深い奴はない。しかも既に書始めて置いてから百金よこせとは無礼千万、あんな汚らはしい奴の書いたものは、神前へは恐多い。ずたずたに裂き捨てよう。」斯く衆議一決し、あはや幟を引裂かうとする所へ、大雅堂はのつそりやつて来た。曩に受取つたる百金をザラリと投出し、さて云へるやう、「昨日三條通りの或る骨董店で一の茶釜を見た。欲しくて耐らぬが、値百両、手が出せぬ。其処へ幸ひ揮毫の依頼。百金頂戴と申出した次第。然るに今駈けつけ見れば、茶釜は既に売れたとのこと、さればこの金我身にとつて今は用なし、返しに来た。」曩に散々大雅堂を罵つた氏子共は意外なる挙動に深く心に慚ぢて、流石は大雅堂先生なるかなと感嘆せざるはなかつた。

(「意外録」 和田垣謙三)

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テーブルクロスがないから

2014年05月21日 | 瓶詰の古本

   テーブルクロスがないから卓の上の料理は食べられない、ということはない。仮にそんな気分が起こるとしたら、既に何ものかに脳が支配されかかっているのではと疑ってみたほうがよい。疑うだけの分別のかけらがどこかにまだ残っていればのはなしだが。

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詩神の世界(北村透谷)

2014年05月20日 | 瓶詰の古本

   長足の進歩をなせる近世の理学は詩歌の想像を殺したりといふものあれど、バイロンのマンフレツド、ギヨーテのフオウストなどは実に理学の外に超絶したるものにあらずや、毒鬼を假来り自由自在にネグイシヨンの毒薬を働かせ、風雷の如き自然力を縦にする鬼神を使役して、アルプス山に玄妙なる想像を構へたるもの、何ぞ理学の盛ならざりし時代の詩人に異ならむ。その異なるところを尋ぬれば古代鬼神と近世鬼神との別あるのみ、詩の世界は人間界の実象のみの占領すべきものにあらず、昼を前にし夜を後にし、天を上にし地を下にする無辺無量無方の娑婆は即ち詩の世界なり、その中に遍満するものを日月星辰の見るべきものゝみにあらずとするは自然の憶度なり、生死は人の疑ふところ、霊魂は人の惑ふところ、この疑惑を以て三千世界に対する憶度に加ふれば、自からにして他界を観念せずんばあらず、地獄を説き天堂を談ずるは小乗的宗教家の痴夢とのみ思ふなかれ、詩想の上に於て地獄と天堂に対する観念ほど緊要なるものはあらざるなり。

(『他界に対する観念』 北村透谷)

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夢魔となって苦悶を課す何ものか

2014年05月18日 | 瓶詰の古本

   夢の中で振り払っても振り払っても執念くまとわりついて来る強迫的な夢魔は、意識する意思によって消し去ることができない。ほんのそよとも統御することはかなわず、言いなり放題に責め立てられ、八幡の藪知らずの堂々巡りに全霊をささげ尽くさなくてはならない。魘されていることを明瞭無比に了知していながら、解けないほつれを(実はおのれ一人の中で絶ち切ることもままならず)思考の渦に回され続け、自問自答の循環を強いられる。
   鞭打たれる痩せ馬が息をつくひまなく駆け狂わされるように、息絶えるほかに救われようのないものと観念しながら、なお、息絶えることなく同じ軌跡をなぞり続ける思念の暴走を止めることができない。それは変身したシジフォスの石となって響き、匂い、風になり、幾度でも繰り返し立ち現れる。仄暗い回廊の先へ先へと方図なく辿る思念の裏で、奇怪な節回し、妖魅な踊りの振り付けを施して見え隠れするものがある。それは、思念そのものなのか、あるいは思念を創造した何ものなのか。時に夢魔の衣をまとって現れ、思念を炎熱に駆り立てて血走らせ、無限の高楼から魂を突き落としていつまでも地上に届かぬ永劫の墜落を与えるのは何ものなのか。

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思考実験(プランク)

2014年05月15日 | 瓶詰の古本

   思考実験は測定によつて実証せられ得る限りに於てのみ意義を有する、といふ主張ほど本末顛倒せるはない。若しこの主張にして正しいとするならば、正確な幾何学的証明の如きものも存し得ぬことになるであらう。我々が紙上に引く線は、実際には幾何学的な線ではなくて、いづれにせよ多少の幅をもつた狭い線條である。また記された点も、実際には多少の大いさをもつ斑点である。それにも拘らず我々は、幾何学的図形のもつ厳密な証明力に聊かも疑を挟まないのである。
   科学者の精神は、思考実験によつて測定器具の世界を超出する。確かに測定器具は、学者を助けて仮説を作り問題を明確にするに役立つものである。またこれらの問題を現実の実験によつて吟味すると、新らしい法則的聯関のみならず直接の測定によつては不可能であるやうな聯関も解明せられる。然し思考実験は、精密度の限界などに頓著しない。思考は原子や電子よりも精緻であり、また思考には、測定器械による測定の過程に現はれる因果的影響の危険も存しない。思考実験が効果を挙げるための唯一の條件は、考察せられた諸過程間には矛盾のない法則的関係が成立せねばならぬといふことを前提とするだけである。我々が元来存在せぬと前提するところのものは、これを見出すことを望みもしないからである。
   思考実験は、確かに一の抽象である、然しこの抽象が、理論物理学者のみならず実験物理学者にとつても研究に欠くことができないのは、実在する外界といふ抽象が必須であるのとまつたく異るところがない。つまり我々が自然に於て観測する一切の過程について、我々から独立に経過する或るものを前提せざるを得ないやうに、我々はまた他方に於て、我々の感官及び測定方法の欠陥に煩はされずに、いはば一層高い観測所から全過程を仔細に通観せねばならない。この両種の抽象は、或る意味では相対立してゐる。即ち客観としての実在的外界に、主観としてこれを考察する理想的精神が対立する。然しこの両者は、いづれもそれ以上のものから論理的に演繹せられ得ざるものである。従つてまたこれを否定する人達に、その不合理を指摘して論駁することも不可能である。とはいへ両者が物理学の発展にそれぞれ決定的な寄与を致したことは、動かすべからざる事実であつて、物理学史は随処にこのことを証示してゐる。物理学の偉大な学者や開拓者――即ちケプレル、ニュートン、ライプニッツ、ファラデー等は、いづれも一方に於ては外界の実在を信ずると同時に、他方自己の裡なる若くは自己の上なる一層高き理性の支配を信じて、研究に専念したのである。

(「物理学と世界観」 マクス・プランク 新井慶訳)

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由緒正しい熟語と綺語まがい

2014年05月13日 | 瓶詰の古本

   和田垣謙三の「新英和辭典」の序文を転記した際、十行余の短文に昌熾、考覈、滲漏など今まで見たことも聞いたこともない熟語のいくつかがちりばめられていて、まさに渾身の発露とはこのように秘怪の文字を要するものかという思いにとらわれた。しかして、それらがことごとく漢和辞典「字源」において見出し語として由緒正しく立てられている熟字であることを知り、あまりに底の浅い泥縄式の辞書頼みとしてはただがく然とするしかなかった。
   半可通の思い込みで熟語まがいの漢字を無闇得意に振り回している有り様は、色形の合わない欠片を野放図に取り合わせて珍しがる幼稚な積み木遊びと変わりがない。ごく幼少時から漢籍や和洋書によって培かわれた高峻揺るぎない学殖に、出たとこ勝負の浮薄な綺語好みが憧れを寄せることすら、階層の懸隔を含め烏滸がましくも許されることではない。かつての古人士大夫の自在な重厚さに感服するにつけ、どう逆立ちしたところで擬似偽装の域にも達し得ない綺語まがいの滑稽さを夜毎に噛みしめるばかりである。仮に文字(言葉)によって自分自身が現われるのだとしたら、なおさらだ。

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人相も顔も音声も心に従って変ず(野村瑞城)

2014年05月11日 | 瓶詰の古本

   小林氏の『自然の名醫』の中に或老人の話として、以下の事実が引用されてある『私の家に永年出入してゐた観相家があつた。或日、玄関で当時大阪の文楽に勤めてゐた玉井某といふ有名な人形遣と出逢つた。いつもの通り観相家は私の居間へ通つたが、其日に限つて何も云はず頻りに手を拱いて考へてゐる。そこそこにして帰つてしまつた。其後二ヶ月ばかり経つて其人と文楽へ見物に行つた。幕間に例の玉井某は挨拶に来た。処が観相家はこの男の顔を一見するなりあゝと云つて、お前は今の幕でどの人形を遣はれましたかと尋ねた。玉井某は由良之助をぶつ通しで使つてゐますと答へた。観相家はしげしげと其男の顔を視守りながら、又尋ねた。ではこの前此老人の玄関でお見受けしましたが、あの頃は何役を使つて居られました。左様でございます。あの頃は先代萩で、私は例の原田甲斐を使つてゐましたと答へて、やがて玉井某は立去つた。跡で観相家は、実は過日お宅の玄関であの人に出逢ひ、世には悪相の男もあるもの哉、必ず貴家に仇をなす獰悪な人物故、注意申さうかと思つたが、いやいや我は天下の易者である。万一誤つた観相をしてはならぬ。殊に御主人と云ひ奥様と云ひ心易げに見受けたので篤と研究の上と心にきめてその日は帰つた。然し爾後二ヶ月の今日まで、彼男の人相を思ひ浮べると、考へれば考ふる程、奸佞邪智、而も一家を破滅さす相がありありと備つて居るので、いつか云ひ出さうと思つてゐる中に今日となつた。ところが計らずも只今の相を一瞥するや、以前のそれに引き換へ実に見違へるが如き忠臣義烈の相が現はれてゐる。それと同時に根本の真理、即ち相は心を追ふて変るの名言、照々として一点の誤りなきを証し計らずも感激したことである。』

(「霊の活用と治病」 野村瑞城)

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均一台雑魚漁り

2014年05月08日 | 瓶詰の古本

   「人生探求者ドストエフスキー」(竹村清 昭和12年)
   「趣味常識俚諺と世相」(伏見韶望 昭和15年)
   「袖珍漢文重要語辭典」(塚本哲三 昭和22年)
   「裁かれる日まで」(中所豊 昭和23年)
   「現代史(上)、(下)」(林茂編 昭和32年)
   「ジョゼフ・フーシェ」(シュテファン・ツヴァイク 山下肇訳 昭和45年)
   「昭和研究会」(酒井三郎 昭和60年)
   「韓国の呪い」(小室直樹 昭和61年)
   「世界の果てまで連れてって」(サンドラール 生田耕作訳 昭和63年)
   「昭和天皇の悲劇」(小室直樹 平成元年)
   「敗亡の戦略」(森本忠夫 平成3年)
   「二階級特進の周辺」(須崎勝彌 平成18年)
   「ああ硫黄島」(安藤富治 平成19年)

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隠れたる内部的空気(ジェームズ)

2014年05月06日 | 瓶詰の古本

ヴイエンナの有名なる一神経学者は、近頃潜在生活即ち人間の内部に埋伏して居る生活と言ふ事に付きて論じたことがある。彼の言ふ所によれば、人には潜在生活がある。意識と其内容の秘密とを包囲する所の、隠れたる内部的空気がある。若し医師にして此の内部的生命の何たるやに付きて或る感触を手にせざる以上は、彼は神経病患者に対して真に利益ある関係を保ち得ぬのである。此の内部の人格的心調なるものは、明白に語り伝へたり、記述したりすることの到底出来ざるものである。併し言はゞ此の内的生命の魂魄とも言ふ様なるものは、吾人の最も特質ある本質として感ぜらるゝ所のものである。不健康なる精神の人にありては、往事に対する悔恨や、羞恥の念によりて圧制せられたる好名心、憶病の為めに妨害されたる欲望等の外に、一種の身体的不快感があつて、其の内部的生命をなして居る。此の不快感は身体の何の処にあるとも解らないものであるが、其働きは甚しき
もので、一般的自信欠乏、及び何となく世界事物が自分に親まぬ様なる感じを養ふものである。世界に於ける嗜酒家の半数は、酒精なるものが健康なる人間に取つてあり得べからざる此等病的感情の一時的鎮静剤として働くから、之を飲用するのである。之に反して、健康なる精神の人にありては、恐怖も羞恥も無いのである。彼等にありては、有機活動から来る感覚は、何事に対しても確実堅固の一般的活動感情を膨張せしむるばかりである。

(「教育心理學講義」 ウイリヤム、ゼームス 福来友吉訳)

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意味ある偶然というものの

2014年05月04日 | 瓶詰の古本

   古本屋、古書展に行くときどきに、求める古本として胸中にとぐろを巻いていた数多の本は沸々と沸き返る。だから、そこへ趨く道すがら、あああの本があったら、この本にめぐり逢えたらと願ったほかならぬ当該の古本のうちの一冊、二冊に出くわすのは、いつだって大きに蓋然性の高いことである。それをしも、ことさら意味ある偶然、宿命の邂逅などとのぼせ上がる必要はさらにない。おそらく意味ある偶然とは、自分こそはそうあるべく選ばれていると思いたい心に浮かぶ蜃気楼の為すいたずらなのだ。

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蕪村と芝居(加藤紫舟)

2014年05月01日 | 瓶詰の古本

「それでは蕪村と芝居との関係には、なかなか微妙なものが御座いましたでせうね。」
主人「大いにあります。例へば、芝居の噂、役者の噂などを聞くとじつとしては居られないので、遂手紙などにも書いてしまふのです。又芝居を見せて貰つた場合などには、何と御礼を申上げてよいかわからないと、感謝のこゝろをあらはしてゐます。そんなわけですから、役者の名前は勿論のこと、役者の当り芸までもちやんと心得たものであります。併しそれだけでは満足の出来る蕪村ではありませんで、感じ入つた芸に至つては、帰宅してから人知れず真似をしてみないと、どうも承知出来なかつたらしい様子であります。」
「好きの程度を遥かに超えて、まるで気狂じみてゐるとしか思はれませんが。そのくらゐだつたら、初から役者になつた方が適して居つたらうに、などとも考へられます。」
主人「気狂じみたところを、一つ御覧に入れませう。田能村竹田の『屠赤瑣々録』に記されてゐる一節に

蕪村の画の門人に、田原慶作と云ふ者あり、一夜初更後に蕪村を訪ひしに、戸をかたくさしたり、慶作の意に、これは例よりは格別に早く寝につかれたりと思ひ、伺ひ居たるに内にては、はたはたと物音して何やら叫ぶ声しければ、此れは怪しき事の有りけるよと思ひ、先生の事なればとくと聞かんとて、戸をほとほとと叩きければ、先生の声にて、いらへして戸を開きたり、入りて見れば、家内に一人も見えず、奥の間に箒木ごみ打のたぐひをちらしたり、先生いかにと問へば、蕪村云ふ、今宵は妻は娘及びを具して、親里に行きたりと対ふ、扨今のはたはたと音せしはいかにと問へば、此内芝居を見しに芝耕といへる役者の芸、いかにも感心せしゆへ、今宵は幸に一人ゆへ、門をさして其のまねするなり、され共何分にも似ざるゆへに、幾度も試みたりと答ふ、かゝる洒落の人物なりしと也、月峰上人の話なり

とあります。これにて御承知のやうに、妻が娘や婢を連れて親里へ行つた留守中、蕪村は淋しさを感ずるどころか、この時とばかりに喜んで、好きな芝居の真似事に一生懸命である。身には褞袍なんかを着込み、手には箒や塵取を持ち、部屋の中をどたんばたんと飛び廻りつゝ悦に入る姿、われわれが今想像してみるとき、軽剽な蕪村の顔容ちが髣髴として、眼前に展開するではありませんか。」

(「蕪村の心にふれて」 加藤紫舟)

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