宗教的咒術行為の多くは、現代人の目には、いかにも原始的で野蛮なものに見えるかも知れないが、しかしこれが宗教に及ぼす反作用を決して軽視してはならない。咒術が信仰される場合には、かかる反作用は必ず現はれなければならないものであるから、咒術を行ふ多数の咒医(メヂシンマン)や咒師(シヤアマン)を故意に人を欺く詐欺師だと考へるが如きは、大きな間違であらう。殊に咒術は通常外部の状況や暗示作用(とりわけ病気を癒すときには)によつて、効果をあげることの多いものであるから、彼等の術が時には効を奏さないことがあつても、彼等自身は勿論、民衆もこれを以て、咒術の無力であることの証拠とは考へないのである。しかし人びとが咒術の力を信ずるならば、咒術者の自信は必ずや力強く昂まるに違ひない。また咒術者が自己を神の代理者とか、神と同一であるとかと感ずるとき、彼はその感情を以て、彼自身が宗教的上界に関与してゐることの証拠と信ずるのである。そればかりか信心深い民衆もまた、かの魔力をもつ咒師――しかしその人を通して神々は業(わざ)をなし給ふのであるが――を、人間と上界の神々とを結びつける仲介者と考へるのである。だから理論的に云ふと、咒術は大抵の宗教に於て、架空的な実在に過ぎないが、しかしその効果から見るならば、重要なる宗教的意義をもつ現実的原動力である。恰も奇蹟が理論的には想像的なものと見られながらも、幼稚な基督信者に対して、イエスの神性を証明するのに奇蹟によるのが、もつとも簡明であるといふ事実を考へ合せるならば、如上のことは容易に理解されるであらう。だから迷信にとらはれない進歩的な思想をもつ人が、たとへ宗教的咒術をどんなに嘲笑しようとも、宗教的咒術は、しつかりとした心理的根拠をもつてゐるもつとも重要な原動力であつて、単に活動的宗教心のうちに存するばかりでなく、解脱的宗教心のなかにも働いてゐることを、忘れてはならないのである。
(「宗教の心理」 M・フライエンフェルス著 安河内泰譯)