チェーホフは或る手紙の中で、自分と同時代の作家のことを大体次やうに言つた。「我々は形式の方面に於ては極めて巧者である。我々は凡ての事を極めて様式的に描写することが出来る。我々は句、章、其他を如何に構成すべきかを知つてゐる。だが、我々に一つ欠けたものがある。最も主なるものが欠けてゐる。それは神である。換言すれば、我々が信じ得るところの、我々が無制限に献身的に愛し得るところの何物かがない。我々は凡て困厄時代の子だから。」
私はこの場合驚く程適切な使徒ポーロの言葉を思ひ出す、「たとへ全世界の言葉を話し得るとも、愛なくば喧騒なる銅鼓と選ぶところなし」と。玆に愛といふ語の下に意味されるところのもの、即ち生ける深き感情を多く広く持つだけ、さういふ人は芸術家たることが出来る。たとへその作品の形式は不完全でも、その魂に力強い内容があるならば、さういふ芸術家は永久に測り知られぬ名声を得ることが出来る。反対に若し単なる形式、つまり美しく高らかに響く銅鼓のみであつたら、さういふ芸術家は流行作家に過ぎない。彼は単に一時的名声を博するに止まる。彼の為に文学史は僅に一ページを割愛するかも知れないが、世界文学のパンテオンには斯かる作家は入らない。
ドストエーフスキイにはチェーホフが言ふところの「神」があつた。彼には、自己の体験を自己の意識の三稜鏡を通して屈折させる、全く独特な作風があつた。彼は、我々に取つて芸術家といふよりも、預言者であり、社会評論家である。それほど自己の「神」に満たされ、自己の思考形式に囚はれてゐた。芸術家と預言者とは彼に於て不可分的に融合してゐる。
(「ドストエーフスキイ研究」 昇曙夢)