美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

「神」が欠けているとチェーホフは言う(昇曙夢)

2014年06月29日 | 瓶詰の古本

   チェーホフは或る手紙の中で、自分と同時代の作家のことを大体次やうに言つた。「我々は形式の方面に於ては極めて巧者である。我々は凡ての事を極めて様式的に描写することが出来る。我々は句、章、其他を如何に構成すべきかを知つてゐる。だが、我々に一つ欠けたものがある。最も主なるものが欠けてゐる。それは神である。換言すれば、我々が信じ得るところの、我々が無制限に献身的に愛し得るところの何物かがない。我々は凡て困厄時代の子だから。」
   私はこの場合驚く程適切な使徒ポーロの言葉を思ひ出す、「たとへ全世界の言葉を話し得るとも、愛なくば喧騒なる銅鼓と選ぶところなし」と。玆に愛といふ語の下に意味されるところのもの、即ち生ける深き感情を多く広く持つだけ、さういふ人は芸術家たることが出来る。たとへその作品の形式は不完全でも、その魂に力強い内容があるならば、さういふ芸術家は永久に測り知られぬ名声を得ることが出来る。反対に若し単なる形式、つまり美しく高らかに響く銅鼓のみであつたら、さういふ芸術家は流行作家に過ぎない。彼は単に一時的名声を博するに止まる。彼の為に文学史は僅に一ページを割愛するかも知れないが、世界文学のパンテオンには斯かる作家は入らない。
   ドストエーフスキイにはチェーホフが言ふところの「神」があつた。彼には、自己の体験を自己の意識の三稜鏡を通して屈折させる、全く独特な作風があつた。彼は、我々に取つて芸術家といふよりも、預言者であり、社会評論家である。それほど自己の「神」に満たされ、自己の思考形式に囚はれてゐた。芸術家と預言者とは彼に於て不可分的に融合してゐる。

(「ドストエーフスキイ研究」 昇曙夢)

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均一台雑魚漁り

2014年06月26日 | 瓶詰の古本

   「政界五十年古島一雄回顧録」(鷲尾義直編 昭和26年)
   「憲兵秘録」(角田忠七郎 昭和31年)
   「最新東京全図」(日本地図株式会社 昭和39年版)
   「昭和史見たまま」(杉森久英 昭和50年)
   「語りつぐ昭和史 1 2」(高橋亀吉他 昭和50年)
   「ニミッツと山本五十六」(生出寿 平成12年)
   「世紀の恋人」(クローディーヌ・セール=モンテーユ 門田眞知子・南知子訳 平成17年)
   「グロテスクな教養」(高田理惠子 平成17年)
   「愛国者は信用できるか」(鈴木邦男 平成18年)
   「あほらし屋の鐘が鳴る」(斎藤美奈子 平成18年)
   「夜と霧 新版」(ヴィクトール・E・フランクル 池田香代子訳 平成24年)
   「政治無知が日本を滅ぼす」(小室直樹 平成24年)

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言葉は風の音と違う(莊子)

2014年06月24日 | 瓶詰の古本

抑も言葉と云ふものは風の音とは違ふ。なぜならば風の音には意味がないが言葉には言葉の意味がある。されば言葉を以て表はさんとする意見がハツキリ定まつて居ない場合には、そこに言葉と云ふものがあるだらうか、決して真の意味の言葉と云ふものは無い。まだ意見が定まつて居ないのに吐かれたる言論は、意味のない雛の鳴き声とは違うと思ふかも知れないが、何んと其の間に区別があるだらうか、それとも何等の区別がないだらうか、勿論かゝる意見未定の言論は雛音と何んの区別もない。滔々たる世の言論は皆然りで、雛の鳴き声と同様である。さて至道にはもとより真偽がないのに、道の本質が何処に隠れて真偽を生じたのか。至言にはもとより是非の弁なし、然るに言の真実が何処に隠れて是非の論を生じたのか。道は宇宙に遍満し、何処へ往つても存しない処はなく、言は何処にあつても本来可でないものはない。然るに道は隠れ、言に可不可を生じたるは何故なるか。乃ち道は小見に隠れ、言は虚栄に隠れて、共に真実性を表はすことが出来なくなり、かくて儒者墨者の是非の論を生じ、各々一方の非とする所を是とし、又一方の是とする所を非と主張するが如きことになつたのである。さて斯かる論争に於て一方の非とする所を是とし、又一方の是とする所を非とせんと欲したならば、是非の対立を超越し、虚無自然の絶対境に立つて批判するに若くはない。さすれば囂々たる物論は自ら止んで、所謂衆竅の虚たるを見るのみである。

(「莊子新釋」 坂井喚三)

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一点の灯り

2014年06月22日 | 瓶詰の古本

   人はほとんど陋劣で情ない心ででき上がっているものだが、ほんの一点の気高さを持っていないこともないので、ときとしてかかる一点の精神がその人柄を他者の記憶に残す面影を形づくることがある。とは言え、どんなに恥ずかしい心根を抱いていようとも、ことごとくがその人の精神から由来するものとは言い切れないのと同じように、一点の気高さのみをもってその人なりの精神をあまねくうかがい知れたとすることは普遍の情理に沿わないような気がする。
   仮にかすかな一点の灯りによって、気高い精神のありようが煌々と照らし出されるときがあるかも知れないけれど、そんなものは見過ごされて外に知られぬまま廃れていくのが凡人にとってふさわしいあるべき姿ではなかろうか。ひとかどの大人になりすますことができたと思い込んでいる裸の小鬼ばかりが群れをなして蠢き、己の性根を映し出す鏡を片っ端から割り尽くして立派な世界を築き上げたつもりになっている偉ものがゴマンと犇めいている地上であればこそ、つかの間またたいて時を待たずに消えて行く一点の灯りが幾許かあることによって、たやすく崩墜しかねない世界はかろうじて保たれているのだ。

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スピノーザのある一つの言葉(横光利一)

2014年06月19日 | 瓶詰の古本

   いつも心にふと思ひ浮かんで来て私に助力を与へてくれるのは、スピノーザのある一つの言葉である。この人はゲーテの師であるかと思ふと、マルクスの師であつたり、ヘーゲルの師であつたり、私のごとき門外漢には端倪すべからざる影響を与へてゐる人格識見竝びなき人のやうであるが、この人の苦悶時代の書『知性改善論』を三四年前に読んだ中に、次のやうな意味のことが書かれてあつたのを私は覚えてゐる。
「自分は常日頃、情慾にとらはれ、富を欲し、名声を希ひ、権力に憧れ、凡人のすべての軽蔑すべき事柄を念頭に充満させてやむことはなく、かかる状態でどうして自身が救はれるべきかの方法さへ見つからず、日夜悶々としつづけたが、あるとき、ふと自分は書きつつあるときだけそれらの一切を忘れてゐるといふ事に気がついた。」
   つまり、これが知性の改善の発端であるのだが、私も書きつつあるときだけはたしかに何ものかに救はれてゐるのを感じるのは、これは私だけのことではないであらう。われわれは他人の書きものを読んでゐるとき、悟りもなくして悟つてゐるやうなことを書いてあつたり、大きなことを書いて稚気の満悦を感じたりしてゐるのを見るときどき、心はにやりとほくそ笑んでうつかりと嘲笑してゐるときがあるが、しかし、それらの攻撃は全く易々たることであるのみならず、その汚い微笑をもらしてゐる場合には、他人の低劣さをそれ以上の自身の低劣さで殺してゐることだといふことに気がついて、突然私はひやりとなることが多くある。殊に口や言葉に出して攻撃して何らの苦痛も感じることなき絶倫な勢力を感じると、われわれを救ふ心はいつたいどこから見つけ出すべきかと、黯然となることが一度や二度ではなかつた。悟つたことを書きつつあるときは、その限りに於てわれわれはたしかに悟つてゐるのだ。全くそれ以外に自身を救ふ道はどこにあらう。

(『覺書』 横光利一)

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買っては捨てる

2014年06月17日 | 瓶詰の古本

   古本を二冊買ったときは今ある古本の一冊を捨てていく。だから、捨てて惜しい値段の本が買えなくなるのは必然だ。均一台に埋もれた古本を買っては読み、読めば順送りに捨てていく。「怪談」は「莊子」に押しのけられ、「光学」が「夢と人生」に取って代わられる。「プラークの大学生」が「黒魔術の娘」に席を譲り、「砂男」は「セラフィータ」を迎え入れるために姿を消していく。
   考えてみれば、新聞も週刊誌も読み了れば捨てるのである。溜めても積んでも詮ない古本は捨てるばかりである。先のことは起こる前に予測できるものではないので、同じ本を何度となく買うはめになる。「吾輩は猫である」や「罪と罰」など、何べん捨てては何度買うはめに陥るのか未だに分らない。あたかも均一台は往時の貸本屋のようなものであるが、突然矢も楯もたまらず読み返したくなる本があるのだから如何ともし難い。
   砂漠に読み捨てられた本が点々と轍状に続く光景は、一代の英雄なればこそ絵になるのであって、矮小なる文庫本風情がぎゅうぎゅう詰め込まれたごみ箱は、無常の果ての荒涼たる吹き溜まり以上の何ものでもない。もちろん、そのたたずまいがそうだというのであって、打ち捨てられた本の裡で文字が表出する悲喜の魂は、人類のうちでも最上等最深奥の精神が顕現しているものであることは心底から認めざるを得ない。

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伝令者を捜し求めていた(ニーチェ)

2014年06月15日 | 瓶詰の古本

   イプセンとニイチェとは共に孤独であつた、彼等がその著作の運命に付いて一向に無頓着ではなかつたのだけれど。ストックマン博士は言ふ、最も孤立したる人間が最も強い人間であると。イプセンかニイチェか、誰が最も孤立してゐたか?イプセンは他人との如何なる同盟からも遠ざかつた。けれども彼の著作を劇場へ行く公衆の集団へ暴露した。ニイチェは思想家としてただ一人立つてゐたけれど、人間として絶えず―― もとよりその甲斐がなかつたけれど―― 心を同じうする者を、また伝令者を捜し求めてゐた。而して彼の著作は彼の意識のはつきりしてゐた間、多数の公衆に読まれずにゐたか、でなければきまつて誤解されてゐた。
   運命のきまぐれから、双方から相棒と見做されたる人間に取つて、彼等のどちらが最も孤立してゐたかを決定するのは容易でない。それよりも困難なのは、彼等のいづれが同時代者の上に最も深い影響を及ぼしたか、またいづれが最も久しくその名声を維持するであらうかを決定することである。しかしながら、これは必ずしも我々に用がない。兎に角ニイチェの教のひろまるところには、彼の偉大にして稀有なる人格の通達されるところには、その吸引力と反発力とは同じやうに力強いものであらう。けれどもそれは如何なる場合にも、個人的人格の開展と形成とに対して貢献するところがあるであらう。

(「ニイチエ超人の哲学」 ゲオルグ・ブランデス 生田長江訳)

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せめてただの人くらいに

2014年06月12日 | 瓶詰の古本

   人の愛し方などというものがあるのかないのか皆目分かりはしないが、過ぎて来たときを振り返れば、ほんのささいな思いやりにも欠けたところ、薄情な仕打ちの目に余るところがあったことが容易に思い浮かぶ。そのときどうしてあのような酷薄な言葉を投げつけることができたのか、と、今頃になって無責任極まりなくも胸を刺す。胸奥にある非情はおそらく死ぬまで消えなかろうが、それにしたって人を好きになるときがある。そのときくらい人並の優しさを心に湧き起こし、湧かし続けていったって罰は当たらないものを、すぐに飽き足りて邪剣にしてしまうのは、思い返せば情ないにも程がある。
   だから、それでも人になりましたとは口が裂けても言えるわけがないのだ。人にもなれず、鬼にもなれず、なれず、なれずのなれの果てに、中途半端な軒先の雫か何かにでもなって垂れ下がっているのだろうか。あたたかい人になれないものは、生きている甲斐はない。
   いつの世の中にも、およそ見苦しいと思われるものの種子を撒き散らす人でなしの出来損ないがあるものらしい。愛し方が分からないのなら分からないなり、せめて心の底からあたたかい人になりたいといっときでも願ったならば、ひょっとしてただの人くらいにまで行き着くことが許されるのだろうか。あたたかい人になろうと日一日とすごしたら、過ぎて来た日のいつからかは、人でなしでない人としての一日がはじまっていたのだろうか。

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文学的自由主義者(戸坂潤)

2014年06月10日 | 瓶詰の古本

   現代のわが国の自由主義者達が、実は政治上の自由主義者ではなくて、云はば文学的自由主義者だといふことは、非常に大事な規定だと思ふ。かつて學藝自由同盟といふものがあつたが(私もその一員だつたといふことを念のために断つておく)、そのメンバーの大多数が文学者や文士や芸術家だつたといふことは、意味があるのである。
   処でわが国のこの文学的自由主義者は、大抵広い意味に於けるヒューマニズムから動機づけられてゐるやうだが、客観性を有つたモーラリティーといふやうな論理はないけれども、いづれもモーラリストとしての資格は具へてゐる、といふことがこの自由主義者の特色だ。処がモーラリストとは結局一種の懐疑論者に他ならないのである。だからここからニヒリスト的な自由主義者も出て来る理由があるわけである。
   文学的自由主義者達は、自分のこの懐疑論的な本質を相当よく自覚してゐるらしく、その証拠には、彼等は意識的無意識的に、一身の利害に関する実際的行為をする段になると、機会主義的な現実主義者となつて立ち現れる。懐疑的な人間は、実際行動に際しては、外の一切の価値評価が消去されてゐるものだから、結局最も俗物的「現実」だけを認めることになるからである。
   で元来日和見主義である自由主義者達・特に文学的自由主義者達は、仮にも実際問題を裁決する必要に逼られる場合には、意識するとしないとに関係なく、積極的にオッポチュニストとなるといふ法則を持つてゐる。このオッポチュニズムの論理から、自由主義の流行風俗とその無論理とが出て来るのである。――で、この自由主義だつてファッシズムと全く同じいオッポチュニスト的論理に立つてゐるのである。自由主義があんなに流行つて、而も自由主義の哲学が未だに出来ないといふ点から見ても、この種の自由主義がファッシズムとその風俗振り流行振りに於て少しも違はないものだといふことが判る。違ひはただ、自由主義の風俗として流行つてゐる文学的スカートの方が、ファッシズムのものほど不粋でなくて、その好みが多少エロティックかも知れないといふ点だけだ。

(「思想と風俗」 戸坂潤)

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理想の本屋

2014年06月08日 | 瓶詰の古本

   ぼんやりとでしかないが、誰にでも理想とする本屋がないものでない。あるいは、胸躍らせる本屋の光景というものが。遥か幼い頃の記憶にはめ込まれた懐かしい本屋、夢の中で訪れた古色蒼然として神韻に満ち溢れた本屋、映画で観た遠い異国の怪異な博物館じみた本屋。
   人それぞれに空想の雲へ映し出される本屋があり、本棚にはそのときそのときに求める本がきっと列んでいる。その店の形像は、否み難い本の化身として魂に直に触れて来るものだ。現実には決して存在せず、求めてたどり着くことのない店であるからこそ、本という神秘をまもるために、どこかに隠されてあるに違いないと思わずにはいられない理想の本屋。そんな本屋を探しあぐねては安直な均一台へと踏み迷い、いつか部屋中を本で埋め尽くそうとしている、よたよた歩きの魂。

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妖怪も施す術なし(矢野龍渓)

2014年06月05日 | 瓶詰の古本

   余の幼時に、故老より左の物語を聴けり。
   昔し或村より隣村に行く途に、狭き谷間あり、夜、此道を過る者は、往々にして、大なる見越入道に出逢ひ、気絶すること少からず、人皆な怖れ合へり、然るに或夜、隣村の瞽按摩が其村に招かれ夜更けて猶り自村に帰るとて、例の谷道を過しに、不斗大なる声を掛くる者ありて、「汝は今ま途にて此の如き大坊主には逢はざりしや」と怒鳴れり、按摩は何事とも知らず、何を言ふかと容赦なく足踏出せしに、何物かモジャモジャと足に触るゝものあり、引捕ゆれば獣にて、犬には小さし、猫には大きし、手に噛付かむとするを押へつけ、捻伏せて遂に〆殺し、尚ほ探り見れば、普通の犬猫にあらぬ様なれば、其村に提げ帰り、翌日人々に見せたる処、大狸なりしと云ふ、村人皆な言ひけるは、此の大狸奴が昨夜「斯る大坊主に逢はざりしや」と怒鳴りし時に、若し按摩の眼が開きてあらむには、定めて如何なる大入道か其の前に突立ち居たるならむに、何分にも瞽(めしひ)のこと故、見越入道も其効なく、つい無残無残(むざむざ)と、生捕られたるならむ、瞽者と知らざりしこそ、狸の大ぬかりとて、皆な打笑ひたりと。
或人、之を評し笑て申しけるは、若し無意無識の赤子に対しなば妖怪は如何にすべき必然其術を施すに由なからん、然らば気満ち心平かなる大人君子にして赤子の如き、(所謂る赤子の心を失はざる者)に対しては、世に妖怪あらんも、亦た其術を施すに由なかるべしと、戯ながら至言と云ふべし。

(「出たらめの記」 矢野龍渓)

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再来し、再会するとき

2014年06月03日 | 瓶詰の古本

   再来といい、再会といい、未だかつて見覚えのない面貌、風景に接して胸の底から呼び起こされる懐かしさは、一体何なのだろうか。一瞬のうちにその風景の額縁の中に嵌め込まれてしまう忘我の漂いや分身の目撃。およそ幼児の眼は未分明の意識領域に深く精細な映像を遺し、主客未分の経験を縦横に埋め、その上層に後々の意識思考を形づくるとも言われる。しかし、これらに由来するはずのない既視感の中で、点景人物となった自分の形姿を見出したとき湧き起こる不可抗の懐かしさ、母性の肌合いを伝える温い触感は、幼年時代を超えて遡り胎児へ流れ込む神話時代に淵源するもののように思われる。
   胎盤につながれて夢見た物語の一齣、一齣が、生活の折れ目切れ目に顔を覗かせ、蔽い切れない神話の端布が日常の綻びから現れる。謎として放り投げられ、謎として受け止めるにはあまりに直截に心奥と響き合うその感覚は、神秘と持て囃され、幻影と片付けられていることが、実ははるか昔この身体ごとかかえ入れて生起し、騒乱し、消滅して行った出来事の今に遺ったほんの一かけらであるという妄説を裏付けているようでもある。
   人が認識のからくり小屋や暗闇屋敷を経巡り、存在の証しと存在の有り様を陳述しようと試みるとき、思惟と情念にまつわり付く無への誘惑からついに免れることができないのは、ひとつには、知っている過去から来たのではない懐かしさ、謂われない再来や再会の触感に絶えず襲われているからではなかろうか。
   思惟の管路を通過することなく直かに触れるもの、触れられるものがあるということ、仮に魂というものがあるとするならば、この魂が素手でつつみ込まれるという古来暗々裡に伝えられて来た感覚は、しばしば思考が描く精緻な道案内をまったくの空白に塗りつぶしてしまうものだ。しかも、胸を揺り動かすこれら再来の感覚は、人の存在の拠りどころなさを郷愁させることはあっても、拠りどころのないこの存在をたしなめたり、なじったりすることはない。  

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脳中の葛藤は先天の遺物(中江兆民)

2014年06月01日 | 瓶詰の古本

   久く獄中に居たる者は、脚脛萎弱して健歩すること能はず、盆中の小魚、俄に海に入るときは、遠く泳ぐこと能はず、封建専制の治下に生活し来れる者は、自由郷裡に入るも、自由の旨を味ふこと能はず、彼れ脳中幾多の葛藤は、皆其先天の遺物なり、盍ぞ一たび自由の利劔もて、裁断し去らざるや、則ち赤裸々浄灑々なるを得ん。
―― 「警世放言」――

(「中江兆民集」 中江兆民)

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