美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

黙して語らぬ石像

2013年08月29日 | 瓶詰の古本

   黙して語らぬ石像の巨人が人智及ばぬ権能を秘めて、数千年の間人々に崇められて来た。古代人類そのままの狂おしい顔からは石英の汗がたぎり落ち、わずかな息遣いさえない巨人の内奥からの声を一語一語伝えていると言われた。まぶしく仰ぎ見る人々の目に白昼の懊悩の影は消え、父祖から引き継がれた聖なるものへの無心の帰属だけが顕れていた。
   重々しい巌石の台座に立ちつくす巨人の姿は、蒼穹に刻まれた不撓の意志そのものだった。それは遠くからも見ることができた。数里へだてた峰からも望むことができた。ときにゆらめく陽炎の薄紗の向こうに夏の化身のようにして、ときに舞い落ちる雪の簾の合い間から冬の守護者のようにして。

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二葉亭を憶出す(内田魯庵)

2013年08月28日 | 瓶詰の古本

   私が初めて甚深の感動を与へられ、小説に対して敬虔な信念を持つやうになつたのはドストエフスキーの『罪と罰』であつた。此の『罪と罰』を読んだのは明治二十二年の夏、富士の裾野の或る旅宿に逗留してゐた時、行李に携へた此の一冊を再三再四反復して初めて露西亜小説の偉大なるを驚嘆した。
   私は詞藻の才が乏しかつたから、初めから文人になれやうとも又ならうとも思はなかつた。が、小説雑著は兒供の時から好きで可成広く渉猟してゐた。其頃は普通の貸本屋本は大抵読尽して聖堂図書館の八文字屋本を専ら漁つてゐた、西洋の物も少しは読んでゐた。夫故、文章を作らしたらカラ駄目で、迚も硯友社の諸君の靴の紐を結ぶにも足りなかつたが、其磧以後の小説を一と通り漁り尽した私は硯友社諸君の器用な文才には敬服しても造詣の底は見え透いた気がして圓潮の人情噺以上に動かされなかつた。古人の作や一知半解ながらも多少窺つた外国小説(其頃ゾラやドウデも既に読んでゐた)でも全幅を傾倒するほどの感に打たれるものには余り多く出会はなかつたから、私の文学に対する其頃の値踏は余り高くはなかつた。
   然るに『罪と罰』を読んだ時、恰も曠野に落雷に会ふて眼眩めき耳聾ひたる如き、今までに曾て覚えない甚深の感動を与へられた。恁う云ふ厳粛な敬虔な感動は唯だ芸術だけでは決して与へられるものでないから、作者の包蔵する信念が直ちに私の肺腑の琴線を衝いたのであると信じて作者の偉大なる力を深く感得した。其時の私の心持は『罪と罰』を措いて直ちにドストエフスキーの偉大なる霊と相抱擁するやうな感に充たされた。
   夫れ以来、私の小説に対する考は全く一変して了つた。夫までは文学を軽視し、内心、「時間潰し(キルタイム)」に過ぎない遊戯と思ひながら面白半分の応援隊となつてゐたが、夫れ以来此の如き態度は厳粛な文学に対する冒瀆であると思ひ、同時に私のやうな貧しい思想と稀薄な信念のものが遊戯的に文学を語るのを空恐ろしく思つた。
   同時に私は二葉亭を憶出した。巖本撫象が二葉亭は哲学者であると云つたのを奇異な感じを以て聞いてゐたが、ドストエフスキーの如く偉大な作家を産んだ露国の文学に造詣する二葉亭は如何なる人であらうと揣摩せずにはゐられなかつた。

(「おもひ出す人々」 内田魯庵)

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均一本購入控

2013年08月24日 | 瓶詰の古本

  「終戦工作の記録【下】」(栗原健 波多野澄雄編 昭和61年)
   「六機の護衛戦闘機」(高城肇 平成2年)
   「キメラ-満洲国の肖像 増補版」(山室信一 平成16年)

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癒え難い熱病の起源

2013年08月22日 | 瓶詰の古本

   無意識からの声、集合外からの息吹きを予感的にのみ予想する不自由。集合Aは集合Aを元とする集合Bをその元とすることはできるのだろうか。集合を精妙に特性化して、自らを元とする上位の唯一限定的な集合を予想してそこへ跳躍させる(下位集合の特定上位集合への転成)という手順は定義付け可能なことなのだろうか。
   人の意識は自我を自我として対象化し、更に自我を対象化している渦中の自我を対象化する、より上位の自我へと無限の跳躍を続け得るようにも仕組まれている。無論だからといって、跳躍し包摂的な対象化を幾度繰返したところで、自我の対象化を行っている(常に)その次にある自我に終着することは論理的にあり得ない。仮に集合に上位の集合への跳躍の手順が賦与されるとしても、外は内となり、更にその外へ跳躍したところでは新たな内を見出すとともに、予想される次の外へと無謬性の嫌疑はすり抜けて行く。
   この世界が合理的か非合理的かを呟くドストエフスキー的諸人物を現実へ召喚させたいと夢想する癒え難い熱病の起源はどこから発しているものだろうか。

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トルストイとドストエフスキー(中山省三郎)

2013年08月20日 | 瓶詰の古本

   トルストイとドストイェフスキイは生前に一度も会つたことがなかつた。トルストイはドストイェフスキイに敵意はもつてゐなかつた。その理由もなかつた。しかも、自ら進んで会はうとはしなかつた。やがてドストイェフスキイの葬儀ののち、世の人々のこの偉大なる作家の死を哀悼する声が騒々しくなると、彼もまたこれに迎合して、ドストイェフスキイが「最も近しい、最も尊い、欠くべからざる親友」であつたことを述べてゐる。この時、トルストイが「虐げられし人々」を読んで感動したこと、死の悲しみに泣いたことを述べて、彼の芸術に嫉妬を感じてゐるといつたものに対して、メレシュコォフスキイは、最後までドストイェフスキイと近づきになる機会を得なかつたといふ事実はまことに不思議である、泣いたり、感動したりするくらゐならば、なぜ「罪と罰」とか、「白痴」とか、「カラマゾフの兄弟」とかを選ばなかつたのかといひ、トルストイの弔文の虚偽を暴露してゐる。

(「ドストイェフスキイ」 中山省三郎)

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一羽の鳥の羽

2013年08月18日 | 瓶詰の古本

   かたく結ばれる人たちがいる。人が人である以上、幸せを望み望んだままに得られる人がいる。そして、人が人であるために、望んだ幸せがこの世では決して得られぬ人がいる。軽やかに笑い回りながら、胸をはり裂いて泣きまわる人がある。いったんは結ばれ、いったんは心を通い合わせ寄り添いながら、一生を遠くそれぞれのところで会わずに生きて行かねばならないことがある。誰が悪いと見つめ切れず、ことのなりゆき、一瞬の行き交いから、二度と相逢うことのないことが、それは二人だけではなく、三人、五人、十人、二十人の連なりとして相逢うことのできなくなってしまうことがある。
   真正のアナキストが生まれる時、はじめて救われる世界があるのだろうか。救われるような世界はきっとあるまい。ただ、アナキストが最愛の人であったならば、全ての血族、知己を失い、全ての良識の対話を捨ててでも、その世界像を受け容れて暮らして行くしかなかろうに。
   十余年間一つ屋根の下で暮らした後で別れる人は、私に言った。ひとは皆さびしく空を飛ぶ一羽の白い鳥の羽。あんたも、わたしも、あのひとも、みんな一羽の鳥の羽。

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均一本購入控

2013年08月15日 | 瓶詰の古本

   「神風特別攻撃隊「ゼロ号」の男」(大野芳 昭和55年)
   「三島由紀夫と「天皇」」(小室直樹 平成2年)
   「知能指数」(佐藤達哉 平成9年)

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幾百万の細胞から成る実在(モーデル)

2013年08月13日 | 瓶詰の古本

   ハーンは人間を、幾百万の細胞から成る実在、即ち、過去の時代の命令を無意識ながら実行してゐる数多の生命の合成体だと考へた。人間の本能とは、古代の本能の無意識の記憶に外ならない。ホイトマンは此考を彼の『俺自身の歌』の中に有し、仏陀も此考を有つてゐた。ハーンは後者を、『人間に教へられたる最高の真理、』『生命の秘密の合致』と呼んでゐる。ハーンはこの見解を、彼の塵埃に関する眼覚ましい論文の中で十分に述べてゐる。『すべて我々の情緒や思想や意欲やは、然しながら、生涯のうつりかはる時季によつて変化も成長もするものであつて、之等は単に、他人、わけても多くは亡くなつた人々の感情や思想や欲望やの組成や組直しに過ぎない。-私、一個人-一個の魂!否、私は一の団体である-群衆とは考へられないが、幾十億の集合からさへ成つてゐる!私とは幾時代の幾時代、幾世のまた幾世だといへる。』また彼は、『こゝろ』の中の『前世の感念』といふ別論文でも述べてゐるのに、『各個人の頭脳の中には、その祖宗のあらゆる頭脳によつて受けた絶対に認めることの出来ない無数の経験の、継承された記憶が蔵められてゐる』と。

(「戀愛と文學」 アルバート・モーデル 岡康雄訳)

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国語となり得る言葉

2013年08月11日 | 瓶詰の古本

   おそらく最も苦闘を強いられているのは、失われた時代の認識者たちではなかろうか。過去の呻吟は、時空を固く隔てた現在に到ることほとんどなく、そこで費消された人格の全エネルギーは、文字となってさえ今に生き続けることは困難である。かつて何物もなかった荒蕪の地に初めの道を拓こうとして、妄執のさかんな燃え上がりを試みた人々の言葉は、この時代には容れられぬまま、遥か遠く置き去りにされて行くかと思われる。
   熾烈な妄執の炎をかき立ててなお立ち向かうことができない巨大な影法師は時々に風土を覆い、黒々と踏みしだかれた思念の燃え滓はいつしかかき消されて行く。そののちの地に生まれ育つ花は奇体な根と茎を持ち、しかも可憐な花でしかなく、盛んに咲きほこりながら前もって滅びる悲しみを知ってしまっている。そして、傍らでは、如何なる錯綜に陥ろうとも袋小路の不安すら覚えることなく、どこへなりと昇って行けると自負する強脚的脳髄が時を得顔に鼻を高くする。
   現状における認識者を志向する心の動き、心の泳ぎは、軽快な俗見に押し流され、習合的集団内の献身と保身へと解消して行く。常軌を逸するとされる行為の実物を識らぬまま、愚劣なひねりわざを用いて我が身の浅瀬を底の底まで渫い上げてしまう。押し黙るしかない人間の属を認める器量などさらさらなく、急転の難解語と口八丁の比喩とを連射する程度のこけおどしに溺れ、要所に機転の利いた思弁を表白してみせたい皮算用で、だから必然的に、的からはますます外れて行く。
   多く与えられるとひきかえに失った、もっと多くのものに対する感傷はもはや息絶えているとしても、多くが与えられてはならないとする負け犬の遠吠えはなお生き延びさせておくべきものだ。何事か語りたいとおののく舌は、多くをほうばることによってもつれさせ、ちぎれさせてはならない。個々の認識は、個々の言葉によって個々自身に向けて先ず発せられなければならない。そのことは少しも新しい発見ではないが、失われた時代の認識者たちが、滅びるとは知らずに退場してしまった粗忽者として再び登場し、この国の沈黙裡のうめき、つぶやきをもう一度掬い取り発語するときがなければ、表現のための国語となり得る日本語を持つ甲斐がない。それぞれの言語が国語となり得る通有の原質である呪力を備えた言葉を使う甲斐がない。

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誰も書き得ない挿話によって編み上げられた小説

2013年08月08日 | 瓶詰の古本

   「カラマーゾフの兄弟」の中に嵌めこまれてあるいくつかの挿話、大審問官の劇詩、ゾシマの兄マルケルのこと、グルーシェンカの葱の話、アリョーシャが目の当たりにしたガリラヤのカナの婚筵、スメルジャコフの告白、イワンと悪魔との対話、イリューシャを囲むアリョーシャと子供たちの時間、これらの挿話こそが、小説「カラマーゾフの兄弟」の永生を誰にも納得せざるを得なくさせる作家の恐るべき深淵の力、全てを打ちのめさずにはおかないドストエフスキーの意図の悪魔的な布石である。こうした余りにも魅力的で魔酔的な挿話に導かれ、あるいは酩酊させられて、長い小説を最後まで引きずられるようにして読ませられてしまうのである。
   神がかりな語り口で語られる挿話の只中で、魂は地上の軛から解き放たれ、今読む小説が自己の外界にあるものとはどうしても思えなくなってしまう。認識とか感覚とか尋常の径路を逸脱して、一気に魂を撃つ言葉という真の実在を全うするなにものかが挿話となってしかるべき場所場所に置かれ、これら誰も書き得ない挿話の数々によってこの長編小説は編みあげられているのだ。特異で各自独立した物語として吐き出された挿話に邂逅するたびに読者は、ドストエフスキーに取り憑いたなにものかによって現世に降りて来た文字の連なりから目を離すことができなくなってしまうのだ。文学という確固たる魂の領分の上で塔のように立ち昇る文字の声に昏倒せざるを得なくなってしまうのだ。
   ところどころに編み込まれた結び目というか瘤のような挿話、それぞれ独孤の預言や神託にも比肩するような衝迫的な挿話が節となり節とつながって編みあげられた小説、その故にこそ読まずにはおかれない小説となっているということ、これが「罪と罰」や「「白痴」、「悪霊」とは異なる「カラマーゾフの兄弟」の特徴ではないかと思われる。

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均一本購入控

2013年08月06日 | 瓶詰の古本

   「独逸デモクラシーの悲劇」(岡義武 昭和24年)
   「日中外交史-北伐の時代-」(臼井勝美 昭和46年)
   「最後の特攻機」(蝦名賢造 昭和50年)

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一握の砂を手にして(權田保之助)

2013年08月04日 | 瓶詰の古本

   砂文字は芝増上寺の御成門前、馬場の土堤際を本陣として、専らその独特の民衆芸術を発揮した、大道芸人である。砂文字と云つても文字(もんじ)を書くものは十中二三で、大部分は五色の砂を使ひ分けして、巧妙な画を画いたものである。
   数多い大道芸人中、砂文字書きは最も東洋的(オリエンタール)な芸術味の多いものである。砂文字を書く上記の地面は、広さ十坪位の所で常に文字を書き良いやうに地面を均らし、湿りをくれて置くが、彼は毎朝のやうに地面を良く掃除して、水をそヽぎ色づけの砂がシツクリと落付くやうに苦心するのは、恰度画家がカンワ゛スや絵絹を選ぶのと同様である。
   砂文字の芸術家は、色砂の分けたのを布の袋から掴み出して午前中には、大作頼光の鬼神退治を画いたかと思ふと、夕景頃には吉備公が野馬臺詩(やばだいし)を読む図などを頗る雄健に画くのであるが、其他投げ銭の少ない時には、三尺四方位な単色の略図でお茶を濁すを常とする。
   砂文字を書く爺(おやぢ)には、不文律のやうに酒鬼(のんだくれ)が多く、朝の大作にとりかヽる前から既に、附近の居酒屋で升酒を煽つて、酒気紛々たる勢で、口を衝いて出る熱罵冷嘲を見物の群衆へ投げかけながら、雄健な砂を揮ふのである。その前身を洗つてみると、世に容れられぬ不屈な画家などが、斗酒に韜晦して、卓落の気を僅かに砂文字にやると云つた風のものもあつた。
   余程絵心があつて技巧の上手なものでなくては容易に出来る技ではない。一握の砂を手にして五指の間から、細大意のまヽな五線を出し、遠景の山容などは毛筆よりも尚デリケートな筆致を示したものであると云ふ。

(「社会研究 娯樂業者の群」 權田保之助)

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音曲の逆巻く大劇場

2013年08月02日 | 瓶詰の古本

   巨大な塔の中、見上げると周縁は真っ暗な闇に溶け込んでいる。今、白昼の陽光は、刳り抜いた窓の枠に押し込められたままぼうっと闇に浮かんでいる。天堂は目の届かぬ高みにある。床に敷き詰められたぶ厚い絨毯を踏んで突き当たったところに三段の階段がある。正面は大きな鉄の扉が塞いでいる。重い扉を両腕で力いっぱい押し開けてみると、そこはひどいほこりが舞い立ち、濛々と霞んでいる。古本に棲みついた黴や紙魚のにおいが充満している。
   どうやら図書館へ入り込んだらしい。べらぼうに細長く奥まで続く通路の先は視界の及ばぬ遠方にある。極端に幅狭な窮屈極まりない造りになっている。滑らかな路は真っ直ぐに伸びていて、両側からはカウンターが迫っている。カウンターの上やカウンター越の壁の書架に膨大な量の古本が積み上げられ、列べられている。非常に背の高い銀縁眼鏡の痩せこけた中年男が、こちらと本とをかわるがわる、ひっきりなしに頭を上げ下げしながら検分している。頭がつかえそうな低い天井からは裸電球が櫛の歯のように犇めいて吊り下げられ、やけに煌々たる光を放っている。下を向いたまま延々と何キロも歩いて行くなあと思った頃、ようやく小さな扉に突き当たる。ぎゅうぎゅうと背中を屈めて無理やり扉をくぐると、高名な哲学者が住む西洋館の廊下へと出た。いや、廊下ではない。階段の踊り場だ。確かここはカール・ヤスパース氏の屋敷のはずなのだ。
   さて、階段は左手と右手と両方向にある。左手の階段は上へ続いているが、先は見えない。右手の階段の方は、つい数段下に廊下が見える。
   右手を選んで階下に下りてみると、廊下は左へしか行けないようになっている。さらに廊下はすぐ右に折れ、折れたと思うや、黒ビロードのカーテンが目の前を覆ってくる。ビロードのカーテンをくぐり抜けるのには意外と手間がかかる。ふとんを掻き分けて行くみたいな、てっきり胸苦しい死闘を演じるはめになった。藻掻きに藻掻きながらカーテンを抜け切ってみると、そこは、天下に名だたる娯楽の殿堂、大劇場テアトルの楽屋だった。
   楽屋は劇場の最上階にあるのだろう、眼下に数え切れない客席が広がっている。さながら青深い海を見渡しているのと変わらぬ気分だ。そして、ほの暗い客席とはひきかえに、舞台には赤、青、紫、緑、黄など、色とりどりの鮮やかな照明光が行き交い、女の嬌声、足を踏み鳴らす音、きらびやかな音曲の絶える一瞬もない。と同時に、不思議な静けさが辺りを領している。客席にも舞台にも人っ子一人見当たらないのだ。錯綜する光線と音曲が充溢し、しかもシンと静まり返り人影のまるでない大劇場。どこから湧いて出るのか分からない、得体の知れない怖さと愉しさとが綯交ぜになって魂が締め付けられる感情にいつまでも浸り続けていた。

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