美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

明治四十一年の文士連(田中貢太郎)

2012年04月28日 | 瓶詰の古本

   明治四十一年六月、第一次西園寺内閣の総辞職するすこし前、公は駿河台の邸へ文士を招待したことがあつた。
   それは当時読売新聞の主筆をしてゐた三叉が肝入したものであつた。三條公の絵巻伝を尾崎紅葉に依嘱したのはその前年であつた。
   公はただ広く文壇人と交つて、一夕閑談をしたいと云ふのであつたが、新聞紙は首相が文士を招待すると云ふので、すばらしいニュースとして取りあつかつた。
   そこで人選になつて、三叉はそれを近松秋江に托した。秋江はすぐ人選をして三叉に渡したが、人選をした関係上、己の名を入れることもできないので、そのままにしてあつたところで招待にもれた。その時江見水蔭も招待にもれたので、大町桂月先生が気のどくがつてゐたことを著者も知つてゐる。この時招待を受けて辞退したのは、坪内逍遥、長谷川二葉亭、夏目漱石の三人であつたが、漱石は、
          ほととぎす厠で聞いて出かねたり
   と云ふ俳句を辞退の辞にかへた。それは梅雨のつづいてゐた時であつた。文士は十七日十八日十九日の三晩にわけて招待せられた。十七日には、川上眉山、廣津柳浪、田山花袋、小栗風葉、柳川春葉の五人、十八日には、森鷗外、巌谷小波、後藤宙外、小杉天外、泉鏡花、徳田秋聲の六人、最後の十九日には、幸田露伴、塚原澁柿園、内田魯庵、島崎藤村、國木田独歩、大町桂月の六人であつた。

(「西園寺公望」 田中貢太郎)

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幻影夢(十二)

2012年04月25日 | 幻影夢

   「じゃ、どうすればいいって言うんだよ。おれはもう、先生の世話をするには十分に疲れ果ててるんだからな。あなたがすればいいじゃないか。」
   「そんなことで、この問題から逃れられると本気で思っているんじゃないよね。許せないわ。自分だけ災厄から身をかわそうったって、天が許すもんですか。」
   「おいおい、急に天なんていう言葉が出てくるのは、どうした風の吹き回しなのだ。豁然として宗教心に目覚めたってことではないだろうな。ほかでもない、神様仏様めいた存在を、あれだけ忌まわし気にもくさし続けてきたあなたのような人が。」 
   本当を言うと、そのとき少なからず気味が悪くなってきたのであった。相手の顔つきがまるで狐憑きか巫女のように、目から鼻から何からおしなべて顔の造作が平たい紙のような感じに変わっているのだ。目はつり上がってくる、口は妙に大きく広がってくる。単に気の迷いなら良いんだが。何ものかが憑りうつるのは、心気充溢して宙に舞わんばかりのときともいうが、まさに今このときがそれなのではなかろうか。

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無謬の王

2012年04月23日 | 瓶詰の古本

   無謬の王を僭称する者は、人間は必ずしくじり、けっつまづくものであるという操觚者の佞説に蔑みの唾を吐く。ためらいの色を帯びた盾を易々突き抜くと信じる無双の矛を高く掲げながら、人々の歓呼を独り占めにする。風に舞う桜の花びらさえ、その頭上に散ることを遠慮する。
   ここにおいて見える無謬の王を戴く崇拝者らの、如何に安逸無責任な挺身であることか。無謬の王に帰されるべき責任という観念の、如何に奇っ怪至極な不条理であることか。

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霊魂の高きに憧れ(柳田國男・田山花袋)

2012年04月21日 | 瓶詰の古本

序言
霊といひ魂といひ神といふ、皆これ神秘を奉ずる者の主体にして、わが小自然の上にかの大宇宙を視、わが現世相の上にかの未来相を現ずるものゝ謂なり。現実に執し、科学に執するものは、徒に花の蕊を数ふるを知りて、その神に冥合する所以を知らず、星の所在を究むるを知りて、その人の身に関するところあるを知らず。況んや人の生の秘籥をひらきて、かの真理の髣髴に接するに於てをや。
嗚呼寂寞なるかなこの自然、爾は言はず語らずして、爰に幾千万年の月日を経たり。人の世の悲哀、人の世の歓楽、幾度か爾の上に起りて、幾度か爾の上に消えぬ。しかも爾はその悲哀歓楽の上に超然として、今猶凛乎としてわれに迫れり。ああ悲しき哉、爾の死を司り、恋愛を司り、運命を司どるや、恰も怒涛の一度碎けてまた完からざるがごとく、無窮に放たれたる矢の再び還り来らざるがごとく、寂然として、遂に些子の反響をも伝へず。
されどこの平凡なる人の世に、猶その反響なきところに反響をもとめ、寂寞極れるところに意味を求むるもの無しとせんや。聞く、二十世紀の今日に当りて、泰西またモダン、ミスチシズムの大幟を掲げて、大にその無声の声、無調の調を聞かんとするものありと。吾人極東の一孤客といへども、曾て寂寞の郷に成長し、霊魂の高きに憧れ、運命の深きに感じたるの身、いかでかその驥尾に附して、わが心池をして、鏡の如く明かならしむるを願はざらんや。近世奇談全集一巻、これ吾人が其素志を致せしもの、敢て神秘の深奥に触れしもの多しといふにあらざれど、亦わが国近世に於ける他界の思潮を尽したるものなるを信して疑はず。

  明治卅六年二月     編者識

(「校訂近世竒談全集」 編者 柳田國男・田山花袋)

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偽書物の話(三)

2012年04月18日 | 偽書物の話

   ご推察通り、偽書物は本屋の本棚にはない。古書を集めた展覧会に出品されるはずもない。ただ、めぐりめぐって直接本人と行き逢うとしかほかに言いようがない。
   偽書物は複製可能ではない。一つ一つの偽書物は、それぞれが唯一個のものとしてある。つまり、偽書物は生き続けているのである。ただ、この世ならぬものを求める人は、それを手にして時を経ずに、この世から消えてしまうのである。この世から姿を消していった人は、偽書物とともに、身ぐるみ、骨ぐるみ、この世ではないところへ出向いたきり、二度と還らない。思いもよらぬときに身をさらした偽書物を、再び手に入れようなどと目論むのは、いったん地上から消えた人間をこの世に引き戻す邪力を持とうと望むに等しい目論見でもあろうか。しかも、それはこの世にある力ではなかろう。

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中江兆民(篤介)陰嚢を以て酒盃に代ふ

2012年04月16日 | 瓶詰の古本

   中江兆民は土佐の士 資豪放小節に拘せず夙に奇行を以て鳴る 一日数輩と某楼に飲む 酒酣なるに及んで諧謔百出満楼沸くが如し 兆民起て双手己の陰嚢を拡げ之を杯状となし 盛るに温酒を以てし妓を呼で之を飲しむ 妓も亦さるもの 恭しく之を一飲し了り謹んで返杯せんことを乞ふ 兆民微笑嚢を張る固の如し 妓乃ち楼婢を呼びて熱燗を取り之を嚢杯に盛る 流石の居士も熱さに堪へず大声喚叫するもの之を久うす

(「幕末明治英雄裏面史」 鈴木光次郎)

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男子なにの徳かある(道元)

2012年04月15日 | 瓶詰の古本

   また唐国にも愚癡僧ありて願志を立するにいはく、生生世世ながく女人をみることなからん。この願なにの法にかよる、世法によるか、仏法によるか、外道の法によるか、天魔の法によるか。女人なにのとがかある。男子なにの徳かある。悪人は男子も悪人なるあり、善人は女人も善人なるあり。聞法をねがひ、出離をもとむること、かならず男子女人によらず。もし未断惑のときは、男子女人おなじく未断惑なり。断惑證理のときは、男子女人、簡別さらにあらず。またながく女人をみじと願せば、衆生無辺誓願度のときも、女人をばすつべきか。すてては菩薩にあらず、仏慈悲といはんや。ただこれ聲聞の酒にゑふことふかきによりて、酔狂の言語なり、人天これをまことと信ずべからず。

(「正法眼蔵」 道元)

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虚妄のなかの希望

2012年04月11日 | 瓶詰の古本

   古来、絶望のなかで虚妄を説くよりも、虚妄のなかで希望を説く者に人は魅せられるのだろうか。絶望という言葉のなかに、負性の響きしか聴き取れない人たちにとって、むしろ虚妄のなかで語られる言葉ほど、快よく響くものはないに違いない。希望という前向きに進む列車のなかで、快よい風を受けていられるのであれば、たとえそれが幻燈に映る虚妄の列車であろうとも、なんのかまうところがあるというのだろうか。
   実は、世界は決して虚妄に満ちているものではないのに。絶望の真っ只中にあってこそ誠心を見い出せるものであるのに。

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偽書物の話(二)

2012年04月08日 | 偽書物の話

   無論、偽書物に出会うのは容易なことではなく、ほとんど出会う必要もないのだろう。偽書物などというものがあることを知らぬ人は、書物を書物としか見ないのだから、一生涯偽書物にめぐり合わなくともよい。偽書物を探し求める人がもし、万が一あったとしても、やはり一生涯探しあぐねたまま終わってしまうだろう。まだこの世の空気を吸って生きて行くつもりである限り、偽書物を見出す訳にはいかないし、第一、探して探し当たるものではないもののようだから。
   この世のはかりごとを踏み外してしまった人が、さらに根底的にこの世から浮遊離脱しそうになったときに、こつ然として眼前に姿を晒すらしいのである。まるで、日暮れて逢魔が時が訪れた街角を、この世ならぬ気分で歩いていると、突然こうもりが目の端をよぎる。はっと我に還ると、周りにはすっぽり闇が落ちているといった具合である。
  

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偽書物の話(一)

2012年04月03日 | 偽書物の話

   かつて、この世に偽書物と呼ばれ、この世の持つ大きな圧伏力に耐えて生き続けている書物の群れがある。人はそこに、歴史も科学も、政体も詩語も見出すことができない。あたかも、名のみ聞いて実体に相まみえることのない幻のごとく、見過ごして来てしまったものである。いわば、文字があって文字がない。もしくは、図像がありながら図像がないという現象が、霧の状貌さながらに存在しているのである。
   この世に中枢となるべき神経体などあるはずがなく、人は、いや生命体は、別個自在に生きていると思われもするが、しかし、この世がこの世であるかぎりの約束や由縁とかが遍く行き渡っていて、それは目に見えない。目に見えないながら、絡み合う約束や由縁は命の綱である。この世ならぬものからの砦であり、この世ならぬものへと向かう心に対する最大の圧伏力である。
   地図をひろげ、そこに全くの空白を見るくせのついた目や、天空を眺めて懐かしい白銀の鐘の音を聴きとる耳は、この世の果てに至っても住まうべき本当の家居はないと知る。自分の内側に北方の海があり、海鳴りを巻き込んで内へ内へとますます侵攻して行く偏執の波があると知っている心は、たまさかの錯覚によってこの世を忘れることがある。そして、この世の方では、金輪際この心を忘れはせず、そのあごを取る力を弛めはしない。
   だからこそ、この世の縦横な糸の間をぬって、偽書物は生き続けて来た。
  

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