美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

ドストエフスキーもラヴクラフトも

2015年04月30日 | 瓶詰の古本

   ドストエフスキーもラヴクラフトも、翻訳本の解説などから推して流麗な名文章家とは言えないようだ。むしろ、饒舌な描写であったり、佶屈な文体であったりして、それでいて、衝迫力に満ち満ちた小説(神話)がのこされて読む者を圧倒し続けている。それ故にこそ、そもそもそんなものはあり得ないのかも知れないが、ドストエフスキー座右の辞書、ラヴクラフト重宝の字引なんぞという代物が仮にあったとしたならば、ぜひとも現物を拝ませてもらいたいと思わずにはいられない。無類の創造力の根源は作家の魂にありとしても、その使い込んだ道具(特に書物)には作家の超絶力のよすがが掌の脂、汗の一滴なりの痕跡とともに生きているのではないかとつい妄想に駆られてしまうのである。

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島原の城化物(老媼茶話)

2015年04月28日 | 瓶詰の古本

松倉長門守島原の城に居玉ひし時。広間の入口の座敷にて。或夜燈の光有り。其夜の広間に番せし士供。燈の光を見て何となく物すさまじく。誰行んといふ人なし。時に士二人行て見るに。大広間の障子を開き。六尺計の大女。髪を乱しゆかたを着し。側に行燈を置庭を詠(ながめ)居たりけるが。人音を聞て。振返りたるつらつき。眼(まなこ)大きく口耳の際迄さけたるが。につこと打笑たる気色を見て。一人即座に死す。一人は気を失ひけり。其隙に件の女行衛なく失けるとなん。

(「老媼茶話」)

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空回りする精神

2015年04月26日 | 瓶詰の古本

  底の方からぐんぐんと突き上げて来る吐き気は、ほかから強いられた不快な吐き気だ。もし、世界にたった一人であるならば、まるで違った吐き気を、そして、もっと清冽な吐き気を覚えただろうに。人と立ち交じり、例えば紛れもなく真摯・高潔な人格の相手を務めなくてはならないはめに陥ったときのこちら側の未熟な狼狽は、体もろともに心を劣敗の谷底へたたき落とす。
  かつてこうした過剰の自省に耐え切れず、ひたすら眠りに逃避したことがある。夕方の八時には灯りを消し、ふとんに潜り込み、翌日の朝八時まで断じて目を覚まそうとしなかった。覚醒した神経は、外界の全事物に敗れ、全事象の圧服にひしがれた。自裁の胆力などもとよりなく、狂疾の機会からは見放され、かろうじて徘徊する恥への軌道ばかりが前途に横たわっていた。
  その際の嗜眠の癖は、思い返せば自壊に対する毛づくろいだったと言えなくもない。ささくれだった精神というものが本来あるのかないのか分らないが、空回りする精神の果てに突き当たる穏やかな顔というものは確かにあるもので、凄んだ外物に対するよりもむしろ、その穏やかで抜けたような顔を鏡の中に見出す方がつらかった。
   そして、昔とは無貸しと音を通じるだけあって、かえりみれば見事に借りだけが残る日々ではあったが、それすら今ではいとおしくも思われるのだ。

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インドで斯く聞いたと語る(チャーチワード)

2015年04月23日 | 瓶詰の古本

   オシリス教とキリスト教とは、不思議にも一致してゐる。言葉も文句も同一の物が多い。然しこれは敢て驚くには当たらぬことで、ムー帝国の神聖書の与へた人間最初の宗教を双方ともに取入れてゐるが故である。オシリスとキリストとは、共に偉大なる天の父に選ばれた所の一種の道具のような物であつて、彼等は、人間の子孫達に永久に幸福なる路を教へる可く地上に送られた者と見ることが出来よう。
   ヘルミス院主が更に物語るには、モーゼが埃及の帝王の面前で、神官共の多くの蛇を自分の蛇に喰はせて勝利を得たと云ふことが伝へられるが、この蛇が他の蛇を喰つたと云ふことは、神秘なことでも何でもなく、古来ムー帝国に伝はる所の科学を実験して見せただけである。所謂今日の催眠術のようなものである。即ちモーゼと神官達とは、共に帝王と他の多くの者達に対して霊波を働かせたのである。然し、モーゼの霊波の方が強い為に勝を占めたのだ。即ち神官達や帝王や群臣達はモーゼの霊波に支配されて、モーゼの蛇が他の蛇を喰つたと見たのである。事実決して蛇が蛇を喰ふことはしなかつたのだ。只見てゐる人々の頭の中に蛇の喰ふ幻影蜃気楼を描いたのである、と云つて、チャーチワードの手に持つてゐるステッキを、院主は見る間に変じ、又木片から火を発してチャーチワードの煙草に火をつけさせ、そして、その木片の火をチャーチワードに握らせて、少しも熱いと感じさせない、と云ふような、所謂今日の人々が神秘又は奇蹟と称する様な事を実験して見せて、キリストが様々なる奇蹟を示したと云ふのも、皆この通りムー帝国から伝はる所の、太古の科学の一端を示したに過ぎぬと説明をしてくれた。

(「南洋諸島の古代文化」 ゼ・チャーチワード 仲木貞一訳)

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夢も併走する

2015年04月21日 | 瓶詰の古本

   夢もまた複層に夢見られている。別々に船出するものの、同時にいくつかの夢が併走していると仮説することができる。そう思いたいだけかも知れないが、ときどきに垣間見る複層の意識は、複層の夢の存在を暗示している。同時に進行する夢の中で、幾つもの役割を同時に果たし、同じ時間に多元の相を遊弋して矛盾を来さない。束のように観念の脈を揺動させながら、時間を編み直し、狭隘な意識の桎梏を解き放つ。複層多元な経験の振る舞いは、夢の中にまで滲み出して印を遺す思惟本然の奔放力によるものである。

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九州島津家と其祖先(藤井尚治)

2015年04月19日 | 瓶詰の古本

   最近、日本に於てもモーゼの日本渡来説をたて、モーゼの十誡を彫つた縞瑪瑙が発見された事を宣伝して居るものがあるが、自分は未だこれを信ずるを得ない。先年同好の士と共に其十誡石を見に往つたのだが、どうも真物と信ずる訳けにはいかなかつた。
   けれども、其際、只一つ面白い説を聞き、かねて考へて居た太古に於ける猶太と日本との交渉を証明する材料でなからうかと気付いた事がある。
   それは、鹿児島県日置郡伊作町に関する伝承である。即ち、伊作町のイサクと云ふのは、太古日本に渡来した猶太人の子孫のイサツクと称するものが、そこに土着して開拓した処であつて、地名は其開拓者の名前をとつたものであると云ふ事と、伊作町の八幡宮御神体を、古来から外国の神様だと称して居る事とであるが、其後に於て、も一つこれについて面白い事を薩摩の郷土研究家から聞いた事がある。
   と云ふのは、今の島津公爵の先祖が、この伊作から出たもので、イサツクの子のシモンズと云ふものが、後年他へ移住して其地方を開拓したので、それをシモンズの庄と称したものである、これが後に漢字を当て篏め島津の庄と改めたもので、島津氏の祖先は猶太からの移住民イサツクであると云ふ説である。これは、どれ程信用してよいものか自分にも分らないが、島津程の名家の先祖が、これまで不明だと云ふことが腑に落ちぬ。支那人だとか、朝鮮人だとか云ふ説もあり、寛政重修譜には、頼朝の落胤だなどと云ふ奇説を出してあるが、これに較べると島津のシモンズ説は却つて合理的である。
   或る西洋史によると、太古地中海沿岸にサス国と云ふ処があり、ヒクサスと云ふ豪傑がこの国に生れ、国内を平定し、後年埃及へ遠征を試み、其目的を達したと云ふ事が書いてあるのだ。日本にも亦ヒクサスと云ふ王子があり、当時到る処を遠征し、其地方を開拓して夫々子孫を各地に残されたと云ふ文献がある。
   この日本のヒクサスは孝霊天皇の第二の皇子となつて居るから、日本の紀元三百七十一年以後で、恰もシリヤ王がトラキアと戦つた頃で、サス国の全盛時代とは少しく年代が合はないが、これも太古に於ける日本と猶太との関係を考証する何かの暗示になると思ふ。因に日本の神典にはこのヒクサス王子を『日子刺』とある。意訳すると『サスの王子』となるのだから、大に研究に値する。

(「國史異論奇説新學説考」 藤井尚治)

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恥の底を認識する

2015年04月16日 | 瓶詰の古本

   恥を知る文化をどこかで見かけたら、金儲けの絶好の機縁に巡り会えたと喜ぶべきなのだろう。黴臭い言葉で言えば、勿怪の幸いと叫びたいところである。人に先んじて恥を捨てる心掛けと、それを着々押し通してみせる踏ん切りがつくならば、そして時々後ろを振り向かるような悪癖に染まっていなければ、きっと成功者の称号を与えられて有卦に入ることができるに違いない。  
   これとは逆に、恥知らずの国へ迷い込んだと悟ったならば、何はさておき、早々に逃げ帰ることだ。恥知らずばかりの国で勝つあてなどないのは分かり切っているのだから。さて、それが自分の住む国だったとしたら、どうだろう。どこへも逃げ場がないと知り、負けることを受け容れるほかあるまい。勝ち負けの競争をしたいと望むのであれば、それくらいの分別は最初からあってもらいたい。人に恥の心あるのを逆手に取って金儲けしようなんぞと思い付くほどの雄略がないのなら、せめては恥の底を認識する眼力くらい備えていてもらいたい。恥を知っていることが世の中をちっとも良くしない、ひょっとしたら逆に悪くしているのかも知れないということは、ほかにもある所謂隠れた美徳が世界へ及ぼす効能と一般である。

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芭蕉翁ニ虫の字に讃す(堀誠之)

2015年04月14日 | 瓶詰の古本

ある好事家に秘蔵の一幅ありニ虫の二字を横に書き列ねたり好事家流石に其意を解し兼ねしがあはれ面白き賛もがなと当時名ある人々に接する毎にこれが賛を求むれども皆な其の解し難きに困じ果て我はと筆を下すものもなし、然るに或る日の事なりける芭蕉翁の不図此家に宿られければ主人此上なく打喜びて急ぎ彼の幅を取り出つゝ、いかで賛をしてよとありければ翁とりあへず
                 風と月裸になりて相撲とる

(「今古雅談」 堀誠之)

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記録するに値するもの

2015年04月12日 | 瓶詰の古本

   醉いの鈍い呑み友達曰く。
   歴史において記録するに値するものはただ、大争闘の中で起きた出来事しかないのではないか。決して絶えることなく、繰り返し繰り返し記録することを欲し求めて地表に生起するもの。生身の記憶が衰微するとともに立ち現れるもの、あるいは、衰微するいとますら与えることなく運命として地表に人を覆い尽くすもの。
   かすれた文字に消えかかる固有の生死と累乗する生死の軌跡によって歴史を刻むもの。

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観念的狂信家たちが切り拓くもの(メレジコフスキー)

2015年04月09日 | 瓶詰の古本

   情熱の中で最も抽象的で、抑へ難く且つ破壊し難いものは、狂信、即ち観念的情熱である。この情熱は、如何なる誘惑からも毒されない偉大な禁欲主義者を作る。この情熱は、霊魂を鍛えて、これに殆ど超自然的な力を与へる。緩慢ではあるが、消すことの出来ない狂信的熱火の前に出ると、他の情熱の瞬間的な火花など、真赤に焼けた金属の前に出た燃ゆる薬と同じである。現実と云ふものは、狂信家に対し一寸の間でも飽満は勿論、一時的満足すら与へることは出来ない。何故かと言へば、狂信家は到達し難い目的を追ひ、理論的理想を実現しようとするからである。狂信家が目的の到達し得べからざることや情熱の満たさるべからざることをより多く意識すればするだけ、それだけ一層情熱も激しくなる。実際、ロベスピヱールやカルヴィンなどのやうな観念的狂信家たちには、殆ど非人間的な戦慄せしめるやうな怖ろしい何ものかがある。彼等は、神のために火刑に処せられても、多くの罪なき人々の自由のために断頭台に上つても、かうして血を川と流しながらも、心の底では自分は人類のために善行をなす者である、偉大なる義人であると思つてゐる。人々の生命や苦悩なんか、彼等にとつて問題ではない。理論と論理的方程式―― これが彼等の全部である。彼等は丁度磨ぎすまされた鋼鉄の刃が、生きた肉体へ食ひ込んでゆくやうな執拗さと無感覚とで人類の中にその血腥い進路を切り拓いて行くのである。

(「文藝論」 メレジコーフスキイ 山内封介訳)

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歴史のあと知恵

2015年04月07日 | 瓶詰の古本

   「歴史のあと知恵」という分別めかした一歩の抑制が恰好にあてはまる出来事は、実のところほとんどないのではないか。その場その場で奔騰する自愛や算盤づくがあり、冷静怜悧を踏み破る火事場泥棒的興奮がありしているので、繊弱・非力な小善の道が選ばれるわけもなく、明々白々然とした悪逆・無道の道を突き進む自己保全・他者破滅の精神が累々と重なり連なっているのは当たり前のことではないだろうか。
   生まれついての選良者、優越者なればこそ、善悪にとらわれず、己の役どころにとって最大の利得、極大の褒賞をもたらす解を選択し続けるに決っている。だから、より賢明な選択があったとしても当該時の情勢下においては万致し方ない選択でしかなかったなどとしたり顔で語る後世の評者の言説は、時勢の条理を確信的に拒絶して最悪の道(己にとってのみ最良の道)を選び取った破滅精神というものの歴史に及ぼす真髄を露わにすることができないのである。
   歴史のあと知恵という観念が煙のようにあてもない迷妄であると知っていながら、巧みな弁疏を使い回しできる博覧強記を誇る評者は、これと必然的に一体化しているガラクタな根性とともに歴史絵図の上を道中双六のように往来しなぞり回して徘徊しているのだ。

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独りともしびの下に(飯田季治)

2015年04月05日 | 瓶詰の古本

   ひとり燈火の下に書を広げて。見ぬ世の人を友とするこそ・こよなう慰むわざなれ。書は文選のあはれなる巻々。白氏文集。老子のことば。南花の篇。此の国の博士どもの書ける物も。古へのはあはれなる事多かり。

   獨、燈下に書籍を繙いて。自分等の生れない以前の世の人。即ち昔の人を友とするのは。此の上なく心の慰むものである。書籍は先づ文選(梁武帝の子の昭明太子の撰で。周末から六朝までの詩文を集めた書)三十巻の中で。殊に趣味の深い巻々。それから唐の白楽天の文集七十一巻。それから老子(周の老耼の著書)夫から南花の篇。即ち荘周の著した荘子。一名南華真経三十三巻などが自分は好である。我が国の博学の人等の書いた書物も。今時の物には六なものは無いが。昔の人の著したのは面白い事が多い。

(「詳譯徒然草」 飯田季治)

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均一台雑魚漁り

2015年04月02日 | 瓶詰の古本

   「自滅の戦ひ」(渡邊銕蔵 昭和22年)
   「ペンは死なず」(前田雄二 昭和37年)
   「幽囚回顧録」(今村均 昭和41年)
   「裁判と悪魔」(正木ひろし 昭和45年)
   「青い焔の記憶」(岡本武徳 昭和46年)
   「雪と桜」(曽我部博士 昭和48年)
   「政経事件発掘」(山根房男 昭和50年)
   「コヒマ」(アーサー・スウィンソン 長尾睦也訳 昭和52年)
   「終戦史録 3」(外務省編 昭和52年)
   「五・一五事件」(保阪正康 平成11年)
   「心霊写真」(小池壮彦 平成12年)
   「東部ニューギニア戦線」(尾川正二 平成14年)
   「死の家の記録」(ドストエフスキー 工藤精一郎訳 平成15年)
   「祖国よ」(小川津根子 平成17年) 
   「アラビアンナイト」(西尾哲夫 平成19年)
   「奇想の江戸挿絵」(辻惟雄 平成20年)
  

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