美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

人間の悲しみの裡にとどまった「希望」

2017年10月29日 | 瓶詰の古本

   今では、匣(はこ)のことが気になつて、どうかすると、夜も眠れないことがあつた。夜半に、ふと目をさまして、夫に向つて、かういつた。
   『あの匣の中には、一体、なにがはひつてゐるのでせうね?』
   『それは分らない。あけて見たら、分るだらうが、あけてはならないといはれたのだから、仕方がない。まあ、いゝから、ねようよ。ねむくつてたまらない。』
   かういつて、男はまたぐうぐうと眠つてしまふのであつた。
   けれどもパンドラは、もう、夜も、昼も、匣のことばかり気になつて、じつとしてはゐられないくらゐであつた。
   『あけて見て、わるいくらゐなら、なぜあんな匣を下すつたのだらう。下すつたからには、ちよいとぐらゐ、あけて見てもよささうなものだ。』
   かう思ふと、パンドラは、もう、どうしても、がまんが出来なくなつた。
   彼女はふるへる手先で、そつと蓋をあけた。すると匣の中からは、なにかつきあげるやうな手ごたへがして、匣の蓋をぱつとおしあけたと思ふと、沢山の羽虫のやうなものが、飛び出した。それは匣の中に封じられてゐた、心配や、悲しみや、疾病や、貧苦や、怒りや、嫉みや、憎しみや、いつはりや、恨みなぞの、醜い、恐ろしいものが、一度にぱつと、飛び立つたのであつた。
   パンドラはあわてゝ蓋をしめたが、もう間に合はなかつた。醜い羽虫らは、彼女の髪へとまつたり、耳のそばで、ぶんぶんいつたり、部屋中一ぱいになつて、しばらく飛びまはつてゐたが、そのうちに、窓から飛び出して、世界中へ散ばつて行つた。
   パンドラはまつ青になつて、ふるへながら、しつかりと匣をおさへつけてゐた。その時、匣の中から、かすかに、泣くやうな声で、
   『出して下さい。出して下さい。』
といつて、しきりに蓋をたゝく音が聞えた。
   パンドラはそつと蓋をあけて、もう一度、匣の中をのぞいて見た。その時、匣の中からは、かはゆらしい、小さな羽虫が、たゞ一つ、飛び出して来た。
   『パンドラさん。わたしは「希望」といふものです。これから先、いつまでも、あなたのそばにゐて、あなたのお友だちになりませう。あなたはこの匣を開いたので、人間の上に、悲しみは絶えないことになりましたが、せめては、心ばかりのなぐさめを与へて、どんな苦しみにも、ふみこたへてゆくだけの力をつけるのが、わたしの役目です。』
   この言葉をきいた時に、パンドラの頬には、かすかに血の色がのぼつて来た。そして胸のうちに、新らしい勇気が芽を出した。どんな苦しみの中にゐても、希望だけは、自分のそばをはなれないことが分つたからであつた。

(「ギリシヤ・ローマ 神話と伝説」 中島孤島編)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

瞼の裏にはいつも均一台が

2017年10月27日 | 瓶詰の古本

   均一台の古本に目をやれば、きっと慄かずにはいられない。セイレーンの妖声、メドゥーサの兇眼を凌駕する古本の魔が、ひ弱この上ない理性をたちどころに押し拉ぐ。家族と交わした温かい約束、損得抜きの浮世の情誼、これらを弊履のごとく放擲させ、魂を底知れぬ古本の深淵へ一気に引きずり込む。
   誰にも告げられない後ろめたさを抱いて均一台の藪茨に踏み迷い、生涯白状できない衝動に急き立てられて、古本の背文字を血眼でねめ回す。幾重にも縺れに縺れる悔恨や疼き止まぬ異様の胸騒ぎを一網打尽に浚い上げた挙句、乾いた泥土となって晒される古本への愛執を吐露するとして、清々しく心に沁み透る言葉は人界には用意されていない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

偽書物の話(百十二)

2017年10月25日 | 偽書物の話

   そうこう考えると、頭の針が振り切れる恐怖に見舞われる。なにがなし気を散らさないと、あるとも知れぬ自心にうなされて、中空に漂う有情の塵埃になりかねない。寸足らずの分別が崩折れるのを間際で食い止めるために、さしむき黒い本のご機嫌を伺ってみることにした。素知らぬ顔で黒い本へ視野を絞ると、水鶏氏が最前運び下ろした位置に端然と納まり返っている。偽書物のくせに微動だにしないのは却って訝しいと、理不尽な嫉妬心がじわじわと鎌首を擡げて来る。邪推に曇った目には、やはり水鶏氏に秋波を送って無言で寄り添う風情が見て取れる。私は偽書物の術中にはまっているとも被害妄想の自家中毒に冒されているとも、どっちつかずでむず痒い、宙ぶらりんの心境へ追いやられて行く。
   自心の実感や神秘への傾倒を、しっかりそれと覚知したことがないのだから、水鶏氏の論究の行く末を慮っている余裕の立場でないのが道理である。書物論の紆余曲折に動じない水鶏氏に親炙して、私一人が観察者たる特権を授けられていると、つゆほども疑いを起こさず悦に入り、その実、偽書物のなすがままに翻弄されているのではないか。早い話が、私は方向をはぐらかして、眼界の片隅に辛うじて偽書物の気先を写し取ろうとも謀ったのだ。気散じがてらのすさびを兼ねて、やらずもがなに黒い本を盗み見したのが仇となり、私は兇眼蛇の一睨みに撃たれ、息も絶え絶えとなって沮喪するほかなくなったのである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

王陽明の酒宴(木村鷹太郎)

2017年10月22日 | 瓶詰の古本

   人物養成に関して、最も有名で、偉大な者は王陽明である。陽明が同志を感化するには、多くは山川の間に登り遊ぶ内にしたもので、彼れが滁州に居た時は、山水の美に乗じて、官が閑(ひま)であつたを利用し、しきりに山川にあそんだものである。月夜の夕の如きは門人等は池を環つて坐するもの数百人で、皆歌を歌うて、其声山谷に振ひ、そして彼等は踊りたちて喜んで居た。或時門人を天泉橋で宴した。時は中秋。月白く雪のやうであつた。席を碧霞池のほとりに設け、門人の来会する者百余人。酒は半ば酣(たけなは)になつて、歌の声は揚り出した。又た暫くすると投壺、聚算等の遊びが始まり、鼓を撃つものあり、舟を浮べるものもある。王陽明は若い人々の興ずるのを見て、退いて詩を作り、
    『鏗然(こうせん)(こと)を舎(お)く春風の裏(うち)
      點(てん)(曾點)や狂と雖我が情を得たり』
の句がある。王陽明の人物教化は此通りである。世間の禁酒党や、小人的教育者流のする所とは全然式が異うて居る。

(「酒の讃美――と其哲学」 木村鷹太郎) 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

偽書物の話(百十一)

2017年10月18日 | 偽書物の話

   「そこに自心の実感がなければ、諸経験が実在する照り返しは虚無に溶け、現世界は複層もろとも一場の夢境へ落ちて行く。自心の実感は、自我の客体化を連綿と包摂し駆け昇る集合世界の、内にあるとも外にあるとも確定し得ない不定域で興起します。絵画を描くようにそれをイメージへ創出するのは、もとより人の脳力の極限を超えることです。七転八倒して頭をひねっても、所詮、人間業で視覚化はできません。いくら藻掻いても人を感銘させる印象を筆に託せないと苦しむよりは、神秘の帳りをおろした裏に世界の根源が寝そべっていて、物憂げに朦影の虹を吐いていると幻想した方が、てきめんに気は楽になるでしょう。目に見えない存在はないと安心の僻論に則って普段を生きる人は、目に見えないが故に絶対とされる存在を切所で祈る人なんです。」
   さては、即物主義者であればこそ、神秘の衣に包んで安心を得ることができるのか。黒い本の狡智と言ったって、よくよく省みれば、狡智の効き目が水鶏氏の範囲に留まっている保証はない。局外に立って偽書物の悪巧みとやらに高みの見物を気取っていたが、他でもない私が見えない蜘蛛の網に囚えられ、操りの踊りを踊っていないとは限らないのだ。毒をもって毒を制すではないが、神秘をもって神秘を説く壺中の道化となっているのではないだろうか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

火星(室生犀星)

2017年10月15日 | 瓶詰の古本

   星の縫ひをあしらつてゐる帯をしめた彼女は、晩方家にかへつて着物を脱ぐと、何やら白いお腹の上にあとがついてゐた。彼女はそれをピンセツトで静かに剥いで見ると、何かの紋章のやうなものが彼女のお腹からほろりと落ちた。彼女はそれを紙につゝんで医者に行つて診て貰ふことにした。
   彼女は医者に行く途中、紙づつみを袂に入れたまゝ、とある鼠色をしてゐる屋根の上に出てゐる美しい星の数々に見惚れた。彼女は星の美しさを愛してゐた。彼女は稲垣足穂の星のことを書いた 千一夜抄を思ひ出した。カフエの煙突から星が天に還つてゆく冬の晩のことが新しく記憶を揺り起した。
   医院につくと先生は彼女のお腹を見てからいふのであつた。
  「帯をきつくお締めになつてはいけません。胃が圧迫されてお苦しいでせう。」
   事実、彼女は帯をきつく締めるので苦しかつた。彼女は胃の薬を袂に入れて帰つたが、肝心の紙づつみのことは何時の間にか忘れてゐた。
   しかし帯からくひ込んだ星のあとは、白いお腹から消えなかつた。彼女は勿論、帯のせゐだとは思はなかつた。

(「犀星随筆」 室生犀星)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

偽書物の話(百十)

2017年10月11日 | 偽書物の話

   「神秘の光と陰影が複層の一部であることを見て見ぬふりしていたら、現世界の複層を延々論じても、真実味のない干からびた空談議に終始するでしょう。それとは裏腹に、世界総体は全的に超自然の力に依存するとして、まばゆい神秘の護符を貼って自心の存在に目隠しを施すや否や、自己矛盾の深淵にはまってしまう。前後不覚の昏睡におりながら現世界に躍動する夢を見ていると言われ、片頬をつねって曖昧に微笑む物語へ逆戻りです。自心を実感することから始まった私の筋書きは、神秘の光炎を無みするものではありませんが、断じて神秘の産衣にくるまれるものでないことは、自心の実感を言表した一刹那に間然なく前提されるのです。」
   私は紛れもなく、即物主義の俗衆と呼ばれる側の人間である。凡人は理解不能事を神秘の衣で覆いたがるなどいう、さっきの私の半可通な発言は水鶏氏があっさり聞き流してくれるものと願っている。客体化の集合世界を通過しての実感に根ざしていないのは遺憾だが、自心実感説への私の信奉は濃密にして堅固である。自心は一つのみにあらずの投石については、偽書物の狡智が遠因と疑われ、水鶏氏に対し低次元で悩まねばならない咎が私にはある。水鶏氏は目立たぬながら、横合いから投げ込まれた石の重みや転がり工合に気を配っている。未知の庫を開ける秘鍵をゆくりなく手に入れる宿運を演出する召命感に、忽々として乗っ取られる心のすきを見せる水鶏氏ではなかった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

訥弁の雄弁(三宅雪嶺)

2017年10月08日 | 瓶詰の古本

   山川健二郎が帝国大学総長時代、雪嶺招かれて大学の講堂で講演をした。丁度世間では普通選挙の問題の八釜敷かつた頃のことである。
『学校で看板を掲げるのは何の為めか、学生のみの為めならば、看板を掲げる必要はない、自分の学校を間違へるやうな学生はあるべきでない、それにも拘らず、大抵の学校で看板を掲げるのは、世間に示す為めである、学校の先生は、学生に教科書を教へて居さへすればそれでいゝといふものではない。殊に大学の先生、而も総長などいふ者は、一世の與論を指導する丈けの見識抱負を有せねばならぬ。普通選挙が、善いか悪るいかといふ問題の起つた場合、そしてそれが国民間の八釜敷い問題となつてゐる場合、大学総長は宜しく自家の意見を公表すべきである。若し政府の執つた態度が良いとするならば、それを援けて世間の攻撃に対抗するがよからう。政府の執つた態度が誤つたとするならば、理非を説いて其態度を改めさすべきである。それは政府の碌を食んで居る官吏として、当然のことだ。世間では、人格がどうのかうのと云ふが、泥棒をしない、法律に触れない、といふ丈けで人格者であるならば、世間に人格者は余る程ある、意見が無ければ無いでいゝ、正直にさう言へばよいのである。其地位に居りながら、言を左右にし、態度を曖昧にして、一時を糊塗せんとするが如きは、断じて真の人格者の為すべきことではない。』
   と、言々風霜を挟んで、頗る峻烈を極めた。場所は大学の講堂であり、被攻撃者は時の総長であるから、聴衆(大部分は大学生)も最初のうちは、流石に遠慮をしたであらう、ひつそりして聴いてゐたが、雪嶺のアノ訥弁に火のやうな熱を加へ来り、右の手を矢鱈に不器用に振廻すやうになると、我を忘れて盛んに喝采を送つた。

(「名人奇人珍談逸話」 好日庵主人)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

偽書物の話(百九)

2017年10月04日 | 偽書物の話

   水鶏氏は、現世界の複層を解くために一つの自心を観照し、自心の実感を以って諸経験の実在の根基とした。そして、書物に定在する自心を観測することで、書物が呈する別世界の実在を算用したのである。こちら側の解釈を大雑把に彌縫すればそうなるが、気を入れて水鶏氏の説述を緻密に遡ろうとしても、私の理解は断片に割れて、氏の論理の外辺へ無秩序に散乱している。このまま手を束ねて放置していると、今まで以上に目も当てられない失態が避けられない。
   「私は不敏にして、先生がおっしゃる世界の妖しさに絡め取られた過去を持ちません。現実に薙ぎ倒された傷痕はたくさん残っていますが、世界の実在性を直向きに問い質したことはありません。冗談半分で、この世のものならぬ霊界を讃仰する本を蒐めた時期もありましたが、すぐに飽きが来て日ならずして心霊の憑き物は落ちました。よろず長続きしない柔弱な人間でして、ままならぬ現実を華麗な夢に閉じ込めて、陰の朽木を極め込んで来ました。ことほど左様に書物神の前に跪く資格もない私ですが、現世界と書物の将来する別世界とは、儚さの濃度が相等しくなければならないと書物論の所与に置かれているのは、虚心に納得できることです。」
   視線を泳がせた人間に言い訳がましく納得されては、落胆混じりの困惑を露わにするのが普通だろうが、水鶏氏はそうした情調をおくびにも出さない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

似て非なる者が厭なのは(孟子)

2017年10月01日 | 瓶詰の古本

孟子「この世に生れて来たからには、世の中の人のする通りにして居れば、それでよい。人から善く言はれゝばそれでよいといつた調子で、たゞもう世に媚びるだけのことしか知らない連中を郷原(きやうげん)といふのだ。」
萬章「一郷の人々からも、あの人は至極真面目な人物と褒められ、行ひも謹直ならざるはないのに拘はらず、孔子が、郷原は徳の賊だと言はれたのは、いかなる理由でありませう。」
孟子「別段これといつて、間違つてゐる点があるわけでなく、格別非難するほどのこともないけれど、至極平凡に俗流に伍し、巧く浮世にばつを合はせて、いかにも真実めいた世の処しかたをし、平素の行ひも廉潔さうに見え、一般の人々からもそれを悦ばれ、自分自身もそれを是なりとしてゐるであらうが、そんな心掛けでは、迚も堯・舜の道に入るなど思ひも寄らぬことであるからして、徳の賊といふのである。孔子は言はれた。似て非なる者は厭だ。莠(はぐさ)が厭なのは稲の苗と紛れ易いからだ。佞人(くちさときひと)が厭なのは、義を乱されるのが怖いからだ。利口(くちたくみ)な人が厭なのは、信を乱されるのが怖いからだ。鄭の音楽が厭なのは、雅楽を乱されるのが怖いからだ。紫色(むらさき)が厭なのは、朱の色を乱されるのが怖いからだ。郷原が厭なのは、徳を乱されるのが怖いからだと、さう孔子は言はれたのだ。君子はたゞ万世不易の常道に立つだけだ。万世不易の常道を正しく行けば、庶民の興起は期して俟つべきであり、庶民興起せば、邪悪の存在する余地はなくなるのだ。」

(「現代語譯 孟子」 小村俊夫)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする