今では、匣(はこ)のことが気になつて、どうかすると、夜も眠れないことがあつた。夜半に、ふと目をさまして、夫に向つて、かういつた。
『あの匣の中には、一体、なにがはひつてゐるのでせうね?』
『それは分らない。あけて見たら、分るだらうが、あけてはならないといはれたのだから、仕方がない。まあ、いゝから、ねようよ。ねむくつてたまらない。』
かういつて、男はまたぐうぐうと眠つてしまふのであつた。
けれどもパンドラは、もう、夜も、昼も、匣のことばかり気になつて、じつとしてはゐられないくらゐであつた。
『あけて見て、わるいくらゐなら、なぜあんな匣を下すつたのだらう。下すつたからには、ちよいとぐらゐ、あけて見てもよささうなものだ。』
かう思ふと、パンドラは、もう、どうしても、がまんが出来なくなつた。
彼女はふるへる手先で、そつと蓋をあけた。すると匣の中からは、なにかつきあげるやうな手ごたへがして、匣の蓋をぱつとおしあけたと思ふと、沢山の羽虫のやうなものが、飛び出した。それは匣の中に封じられてゐた、心配や、悲しみや、疾病や、貧苦や、怒りや、嫉みや、憎しみや、いつはりや、恨みなぞの、醜い、恐ろしいものが、一度にぱつと、飛び立つたのであつた。
パンドラはあわてゝ蓋をしめたが、もう間に合はなかつた。醜い羽虫らは、彼女の髪へとまつたり、耳のそばで、ぶんぶんいつたり、部屋中一ぱいになつて、しばらく飛びまはつてゐたが、そのうちに、窓から飛び出して、世界中へ散ばつて行つた。
パンドラはまつ青になつて、ふるへながら、しつかりと匣をおさへつけてゐた。その時、匣の中から、かすかに、泣くやうな声で、
『出して下さい。出して下さい。』
といつて、しきりに蓋をたゝく音が聞えた。
パンドラはそつと蓋をあけて、もう一度、匣の中をのぞいて見た。その時、匣の中からは、かはゆらしい、小さな羽虫が、たゞ一つ、飛び出して来た。
『パンドラさん。わたしは「希望」といふものです。これから先、いつまでも、あなたのそばにゐて、あなたのお友だちになりませう。あなたはこの匣を開いたので、人間の上に、悲しみは絶えないことになりましたが、せめては、心ばかりのなぐさめを与へて、どんな苦しみにも、ふみこたへてゆくだけの力をつけるのが、わたしの役目です。』
この言葉をきいた時に、パンドラの頬には、かすかに血の色がのぼつて来た。そして胸のうちに、新らしい勇気が芽を出した。どんな苦しみの中にゐても、希望だけは、自分のそばをはなれないことが分つたからであつた。
(「ギリシヤ・ローマ 神話と伝説」 中島孤島編)