美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

岩波文庫その他(戸坂潤)

2016年10月30日 | 瓶詰の古本

   岩波文庫が大体に於いて信頼すべき権威ある翻訳を中核としてゐるといふ事情は、もう一つこの文庫に長所を与へてゐる。それはこの文庫が云はゞ「岩波的観念」に大して支配されてゐないといふことだ。他の岩波出版物は、少くともその選定に於て、今日では決して高級出版物を全面的に代表してゐるとは、考へられない。そこには著しく岩波臭い好みがある。文化が好みに堕す時、もはや対社会的な指導力を失ふ時だ。有態に云つて、最近幾年かの岩波出版物は文化指導的なものだと云ひ切つてしまふことは出来ないのではないかと思ふ。「講座」や「全書」はなる程、日本文化の最高水準を示し指導力の絶大なものだが、併しアカデミックな技術水準だけで、文化水準を測ることは、アカデミシャンの迷信である。私は岩波出版物に於いて、その内容の高さに拘らず、一種低い階級性の感触を有つものだが、古典的な外国文献の翻訳は云はゞ文化の材料のやうなものだから、さういふ欠陥が目だたない。岩波文庫が日本の文化に貢献すること大である所以だ。

 (「読書法」 戸坂潤) 

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偽書物の話(六十)

2016年10月26日 | 偽書物の話

   「有り体に白状してしまえば、つまり何ですよ、自分で自分の置かれた足場の実在を証明できないで無闇に藻掻いている例えば私みたいな者にとっては、書物(この中には一枚の紙片、二、三頁の薄っぺらな冊子も含めていいでしょう。)が生まれ出るとき、文字によって呼び起こされ書物の中から私へ伝えられる声は、およそ仮象、仮説という名札をことごとく取っ払った真物の出来事を語りかけるものとしかほかに受けとめようがない。また、そう受けとめたくてならない。先ほど来、私が述べている現世界の出来形からすれば、書物で語られることが何であれ、また語られ様がどんなであれ、それを偽りや幻であると排斥する筋合いはこれっぱかりもない。
   とまあ、私は底の方では、斯様に未練たらしい本心を後生大事に持ち続けて来たのです。」
   水鶏氏はここで言葉を止めると、一息つく代わりだろうか、岩塊からようやく指を離し机の上にあった電気スタンドのスイッチを押した。電球ランプに灯が入り、水鶏氏の顔を下から照らし出した。水鶏氏の顔にそれまでなかった陰影が現われ、隆起と陥没の凸凹が白黒の模様となって山水にも見える表情が浮かび上がった。

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この夢ばかりぞ後の頼み(蓮田善明)

2016年10月23日 | 瓶詰の古本

   彼女のこの自叙の回想記は、「物語」と「夢」(後述)とに満ちた、非常な特色のあるものである。その冒頭は、――東路(ぢ)の道の涯(はて)よりもなほ奥の方に生長した人が、いかばかり田舎びたものであつたらうに、如何思ひ始めた事か、世の中に物語といふもののあるのを、何とぞして見たいと念じつつ、暇な昼間や宵居(よひゐ)などに姉や継母たちがその物語かの物語或は光(ひかる)源氏のことなどを所々語るのを聞くに、思ひは一層まさるけれど、自分の思ふやうにどうして宙に暗記してくれてゐよう、もどかしいあまりに、等身(とうじん)に薬師仏を造つて、手洗ひなどして、人の留守の時をうかがつてはそつと仏間に入つて『京に疾(と)く上げ給うて、物語の沢山ありますのを、ある限りお見せ下さい』と身を捨て額をついて祈り申すほどに、十三になる年いよいよ上洛することになつた――と書き出してゐる。それから後に記されてゐる回想は、実に清麗な、このひとの心を通し目を通せばこの世は斯くもめづらかな世界につくられてゐるかと思はれるばかりである。この人がその手のあとを紙に捺して離した、その跡は神の手のあとであつたといふやうな日記である、現(うつつ)に見れば或は平凡な一生かもしれない。しかしその平凡な一女性の生涯の記が何としても文学となり高まつてゐる。
   作者は実に数多い「夢」を見てそれをこの日記に大事に記してゐる。そしてその夢を気にし、同様に夢見がちな自分をかへりみて、現実にふりかへつては悔い侘びることもある。しかし、なほつひに「この夢ばかりぞ後(のち)の頼み」としてゐる。終末に近く、夫の亡後、それまで同居してゐた甥たちとも別居し、独り住みしてゐる、その誰も来ることの「難うある」所へ大層暗い夜に甥の六郎が訪ねてきたとき、珍しく覚えて詠じた彼女の思ひは、   
     月も出でで闇にくれたる姨捨(うばすて)に何とて今宵尋ね来つらむ
といふのであつた。この歌は、これを返して作者自身がその人生に於て尋ね辿つてきた回想そのものとしても読まれるやうな気がする。暗澹たる中に作者は更科の「月」を想ひ描いて止まぬ。現実には見えないかもしれない。しかし彼女は歌枕となつた月を一念の中におもうてやまない。悔いと自嘲とのほかに、高く彼女の心にさやかに月がさし照つてゐる。

(「花のひもとき」 蓮田善明) 

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偽書物の話(五十九)

2016年10月19日 | 偽書物の話

   終の踏ん切りというか決意に基づいて現世界に対峙しているのが我々の我々たる所以だとすれば、その上でなお、わざわざ現世界に文字を書き残すなんという衝動を抑え切れないのは何故でしょうか。世界を外にある客体として認識したり、それと対話を交わしたりするにとどまらず、自我意識が最期的に消えてしまった後あるかどうか定かでない世界に、自分の書いた文字を残そうとするのはどんな論法に導かれてのことですかね。」
   水鶏氏が私へ問いかけているのでないことは明らかである。書斎に閉じこもり書物や器物に囲まれて充足している人は、きっと他との交際や交流など全然必要としないのだろう。水鶏氏にとって、氏の面前で立ちつくす今の私は鏡に映った水鶏氏自身という訳だ。阿呆面して口を開けていようが、あわてて頓珍漢な相槌を打とうが、いずれ水鶏氏の独り言を反芻する鏡像であることに変わりない。それは構わないのだが、私が送った黒表紙の書物の方はどうなっているのだろうか。なんだかどんどん話が遠ざかって行くようで、あからさまに不審の表情を浮かべはしないまでも、さすがに途方に暮れるしかなかった。

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事柄の馬鹿らしくて見苦しき様を飾らんとする者(福澤諭吉)

2016年10月16日 | 瓶詰の古本

   難かしき文字を使ふな

                 福澤諭吉

   むやみに難かしき文字を用ひる人は文章の上手なるにあらず、内実は下手なる故、殊更にむづかしき文字を用ひ、人の目をくらまして、その下手を飾らんとするか、又は、文章を飾るのみならず、事柄の馬鹿らしくて見苦しき様を飾らんとする者なり。(文の教へ)

(「古今名家書翰文大集成」 ヤシマ書房編輯部編) 

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偽書物の話(五十八)

2016年10月12日 | 偽書物の話

   「私は手記に記された文字ことごとくを瘋癲病者の幻覚、戯けた白昼夢の残骸であるなどと無下に捨て去る気はありません。強いて奇矯な言い方を許していただくなら、私本来の心情からすれば、いっそこの手記は私が書いたのだと言ってしまいたいくらいのものです。
   私からすれば、思いがけず岩塊を囲繞する閉ざされた非現実の時空へ放り出され、海上に屹立する島山の世界を生きた体験と、今あなたが立脚している世界を現に生きている体感と、どっちが実であり、どっちが虚であるかなんて問いかけ自体が、非常なナンセンスと言わざるを得ないのです。
   自分では一瞬の洩れなく見聞きし感取し尽くしていると思われる現世界が、本当は総体のうちのほんの一かけらでしかないという仮定、若しくは、絶妙なつじつま合わせによって操作されたまるっきり別物の世界の幻像でしかないという仮定を呈されたとしましょう。その場合、当該の仮定が真であることは数理的、論理的にあり得ないと明晰に証明できる人はいるでしょうか。数式や記号を書き連ねた末に、(偽であることの)『証明終わり』と黒板に勝利のチョークを叩きつけられる人がいると思われますか。
   実際には、内心に奮い立たせた決意のみを拠りどころにして、この世界を唯一実在のものとして生きているに過ぎないのではありませんか。あなたや私、ほかの全ての人達は取りあえず、『我々』の一員として生きているのではありませんか。

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夏目漱石さんの談話の妙(内田魯庵)

2016年10月09日 | 瓶詰の古本

   作から見れば、夏目さんはさぞかし西洋趣味の人だつたらう、と想像する人もあるやうだが、私の観たところでは、全く支那趣味の人だつた。夏目さんの座右の物は、殆ど凡て支那趣味であつた。
   硝子のインキスタンドが大嫌ひで、先生はわざわざ自身で考案して、橋口に作らせたことがある。ところがその出来上つたインキスタンドは、実に嫌な格好の物で、夏目さん自身も嫌で仕様がない、とこぼして居られたことを記憶してゐる。
   左様、原稿紙も支那風のもので……。特に夏目漱石さんの嫌ひなものはブリウブラツクのインキだつた。万年筆は絶えず愛用せられたが、インキは何時もセピアのドローイングインキだつたから、万年筆がよくいたんだ。私が一度、いい万年筆を選んで、自分で使ひ慣らしてから、インキを一瓶つけて持たせてやつたことがあるが、そのインキがブリウブラツクだつたので、気に入らなかつたさうである。夏目漱石さんは、凡ゆる方面の感覚にデリケートだつたのは事実だらうが、別けても色に対する感覚は特にさうだつたと思ふ。
『ブリウブラツクを使へば帳面を附けてゐるやうな気がする』と好く言はれた。
   その割に原稿は極めてきたなかつた、句読の切り方などは目茶だつた。尤も晩年のことは知らない。そのくせ書にかけては、恐らく我が文壇の人では第一の達人だつたらう。
   修善寺時代以後の夏目さんは、余り往訪外出はされなかつたやうである。その当時、私の家に来られたことがあるが、『一ヶ月ぶりで他家を訪ねた』と言はれた。その頃は多分痔を療治してゐられたかと想ふ。生れて初めて外科の手術を受けたとのことで、『実に聊かな手術なのに……』と苦笑して、そして手術の時のことを話された。
   軽い手術だから医者は局部注射の必要もないと言つたが、夏目さんは強ひてコカヱン注射をして貰つた上で、いざ手術に取りかかると、実に痛がる様子を見せたので、看護婦どもが笑つたさうである。そんなことを話してから夏目さんは『近頃、主人公の威厳を損じた……』と言つて笑はれた。

 (「魯庵随筆集」 内田魯庵)

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偽書物の話(五十七)

2016年10月05日 | 偽書物の話

   土台、我々の現世界での生きた痕跡と言ったって、仮想される意識なるものが乱雑にかき集め、ぼろぼろこぼし回り、それでやっと掌にこびりついて残った思い出でしかありません。おそらく、正気を離れた喪神中の我々の魂は、別状の世界にあって全く別状の働きをしているのでしょうが、それはもう、岩塊の世界を現世界とは別にある異世界であると考える立場とどれほどの距たりがあるのかないのか、私ごとき者に筋道立った説明を編み出すことが到底できっこないのはあなたにも十分察せられますよね。」
   水鶏氏は手記について実際は、非難がましい気持ちを持ち合わせていないのではないか。かえって、石塊がもたらした島山の世界にまつわる手記が真正の体験談でない(という私には至極当然と思える)ことをあきらめきれないといった気配さえ窺える。だからなおのこと口惜しい気持ちが逆流して来て、否定の言葉が大きく渦を巻くことになるのだろう。そして相変わらず、石の塊は水鶏氏の頑丈そうな指でもって隅々まで守護されているのだ。

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老人有識者の無定見(内田魯庵)

2016年10月02日 | 瓶詰の古本

   日本は老人国である。未成熟の若返り法が蓬莱仙島の秘法である如く迎へられて九大教授をして産を作らしめたは畢竟するに老衰を自覚する老人が多いからだ。日本では『亀の甲より年の功』が神聖不可侵の鉄札となつて才能学術よりも老齢が重んぜられる。政界に元老があるばかりぢや無い。実業界にも学問界にも芸術界にも教育界にも見渡す限り門松を潜つた度数を誇る外には何の長所も無い老人が幅を利かせしてをる。
   日本では老人の不得要領な瓢箪鯰が円転滑脱と称され、老人の無定見な優柔不断が慎重熟慮と目され、老人の触らぬ神に祟なし主義が冷静自重と見做され、老人の事無かれ主義が穏健着実と喜ばれてをる。元気の消磨した沈勇や知覚の鈍麻した寛大や、老人の退嬰、無気力、引込思案、アキラメ、成行まかせ等が総て美徳として渇仰されてゐる。随つて無知でも無能でも無定見でも不決断でも『亀の甲より年の功』で老人が難有がられ祭り上げられる。西洋の諺に白い髯は無能のハンデイカップであるといふが、日本では白い髯が老功叡智のシンボルとして崇められ、白い髯で無ければ押しが利かない。年長者として老人が上座に据ゑられるのは宴席ばかりぢや無い。官庁でも会社でも学校でも白髯大明神がソコラ中で光つてる。

(「気紛れ日記」 内田魯庵)

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