美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

暗黒な洞窟を裏面に控えつつ、表へ廻ると常に明るい歓ばしい顔つきをしているものの情調は美しい(谷崎潤一郎)

2024年02月28日 | 瓶詰の古本

 若しもあなたが、浅草の公園に似て居ると云ふ説明を聞いて、其処に何等の美しさをも懐しさをも感ぜず、寧ろ不愉快な汚穢な土地を連想するやうなら、其れはあなたの「美」に対する考へ方が、私とまるきり違つて居る結果なのです。私は勿論、十二階の塔の下の方に棲んで居る”venal nymph”の一群をさして、美しいと云ふのではありません。私の云ふのは、あの公園全体の空気の事です。暗黒な洞窟を裏面に控へつつ、表へ廻ると常に明るい歓ばしい顔つきをして、好奇な大膽な眼を輝かし、夜な夜な毒毒しい化粧を誇つて居る公園全体の情調を云ふのです。善も悪も、美も醜も、笑ひも涙も、凡ての物を溶解して、ますます巧眩な光を放ち、炳絢な色を湛へて居る偉大な公園の、海のやうな壮観を云ふのです。さうして、私が今語らうとする或る国の或る公園は、偉大と混濁との点に於いて、六區よりも更に一層六區式な、怪異な殺伐な土地であつたと記憶して居ます。
 浅草の公園を、鼻持ちのならない俗悪な場所だと感ずる人に、あの国の公園を見せたなら、果して何と云ふであらう。其処には俗悪以上の野蛮と不潔と潰敗とが、溝の下水の澱(よど)んだやうに堆積して、昼は熱帯の白日の下に、夜は煌煌たる燈下の光に、恥づる色なく発き曝され、絶えず蒸し蒸しと悪臭を醗酵させて居るのでした。けれども、支那料理の皮蛋(ぴいたん)の旨さを解する人は、暗緑色に腐り壊れた鵞の卵の、胸をむかむかさせるやうな異様な臭ひを掘り返しつつ、中に含まれた芳鬱な渥味に舌を鳴らすと云ふ事です。私が初めてあの公園へ這入つた時にも、ちやうど其れと同じやうな、薄気味の悪い面白さに襲はれました。

(『魔術師』 谷崎潤一郎)

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数々の作家と作品を嘆賞して世に広く紹介することに努め、なにより怪夢から抜け出る悪鬼悪霊を登場人物として日本文学に招き入れた新次元創造者(江戸川乱歩)

2024年02月24日 | 瓶詰の古本

 私が初めてエドガー・アラン・ポーを読んだのは、大学にはいってからであった。文学青年ではなかったのでポーの文学史上の地位を知らず、ふと「黄金虫」を読んだのが病みつきとなり、乏しい語学力で難儀をしながら、ポーの諸短篇を読んだものである。同じころシャーロック・ホームズも愛読したが、ポーの方が段ちがいに好きであった。
 ポーを初読してから、私が探偵小説を書くまでには七、八年の間があった。処女作を「新青年」の森下さんに送るときに、はじめて江戸川乱歩という語呂合わせを考えた。当初は作家になるつもりはなく、ホビイとして書いていたのだから、始祖の名を僣することも気軽にやってのけたのである。作家になってからは、大いに気が引けたけれども、ついこの筆名を捨てかねて今日に至っている。戦後、私の筆名の由来がニューヨーク・タイムズ書評誌その他にのったが、アメリカ人はこのことを別にけしからんとは考えず、好意的に見てくれたようである。

(『始祖の名を僣す 鏡浦書房版ポー選集の発刊にそえて――』 江戸川乱歩)

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自分がペシャンコになる言葉でもランボーなら許せる、俗気溢れる古本病者の真骨頂(ルイ・ピエルカン)

2024年02月21日 | 瓶詰の古本

 ランボウは、漂泊の生活の初期、即ち一八七三年から一八七九年の間に、シャルルヴィルに幾度となく姿を現はした。大旅行をした後では、必ず、郷里の閾を踏みに帰つた。でも、彼の友人達との交際は絶たれてしまつてゐた。彼にしてみれば、友人達は、文学を、過去を代表してゐるものであつた。彼の決定的な出発までの彼の長い沈黙と離脱とが、はつとわたしの胸に来た。「ある日サハラの真ん中で、ひよつくりランボウに逢へるやうな場面が想像されるんだ――とミイヨは云ふのだつた――数年間逢はずに居た後でね。僕達二人きりなんだよ、そして、あべこべの方向へ僕達は歩いてゐる、一寸の間彼はたち停る。やあ、機嫌はどうだい?――元気なもんさ、ぢやあ失敬――そして彼は勝手な道を続ける、少しも胸中を明さない、それ以上に一言も云はないのだ」
 一八七九年夏のとある日、エルネスト・ミイヨは、後になつて、ヴェルレエヌがアルデンヌにやつて来た時、いつも彼と会合する行きつけの場所となつてゐたデユカアル広場の小さなカフエへ、その晩わたしに行くやうにと誘つた。「ランボウが――とミイヨが云つた。――先ほど服を一着買つてね、勘定書(フアクテユル)は母の方へ送つてくれつて仕立屋へ頼んでゐたぜ。これでは、彼(あれ)も間もなく発つんだらう」
(結局、旅に出る前日となると、彼は、誰にも意中を打ち開けずに、何時も同じ方法が必要だつたのだ)。ランボウは八時頃やつて来た。彼は可成りむつゝりとしてゐた、そして、ルメエル書林で発行した書物の幾冊かをわたしが手に入れたのに対して、ミイヨが悦を述べてゐると、彼は、いきなり今迄の沈黙を破つて、私に喰つてかつた。「古本を買ふなんて、わけてもそんなものを買うなんて、愚の骨頂だよ。君の肩にや頭を一つ有つてゐるんだぜ、そいつで以て、あらゆる本の代りをさせなくちやあ。本棚に列べたてた書物なんて、ふる壁のしみをかくすだけで結構だよ」
 その夜、さうした後の彼はすぐと、何時になくはしやいでゐた。そして、十一時にわたしたちと別れた。それが永久の別れであつたのだ。彼がやつと十二年後シャルルヴィルへ帰つて来た時には柩の中であつた。

(『ルイ・ピエルカンの回想記』 祖川孝譯)

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我々はあらかた半可通だから理路整然たる流説浮説を重んずる一方、結論に中々行き着かない慎重な論議にはなんの効用も感じない(中谷宇吉郎)

2024年02月17日 | 瓶詰の古本

 寺田先生はよく「優れた学者の名著を読むと、なんだ結局何も本当のところは分つてゐないぢやないかといふ気がする。ところがくだらぬ先生の本を読むとすつかり現象の説明がついてゐるのだから面白い」と言つてをられた。其の時不思議なことだくらゐに思つてゐたのであるが、其の後だんだんその意味が分つて来たやうな気がする。その良い例を電気花火に関する著書で見たのであるが、J・J・トムソンが二十年かけて作つた気体内電気現象の本を読むと、まだまだ此の方面は分らぬことだらけだといふ気がするのに、タウンゼントの同種の本の見ると、火花の成因などがまるで手にとる如く分つてしまふのである。従つてタウンゼントの火花の理論の方が通りが良くて、特に電気工学の方面などでは、それですつかり用が弁ぜられてゐた。もつとも実際に器械を作る方に役立つよりも、学位論文などを作る方の用を弁じてゐたのである。ところが此の四五年来その理論をすつかりぶちこはす現象が見付かつて来て、それでおしまひになつてしまつたが、トムソンの本の方は此のところ二十年や三十年で寿命がつきることはなささうである。

(『『夏目漱石』と實驗物理 -科學と文學との方法-』 中谷宇吉郎)

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まさかのアシカかアザラシを人魚に擬して大いに騒いでも、それが算盤ずくのことでなければ罪のない笑い話として喜ばれるのだが(高島春雄)

2024年02月14日 | 瓶詰の古本

 去る昭和四年九月新聞紙上に斯ういふ記事を見つけた。「人魚捕獲 頭は犬、顔は人間、尾は魚」と云ふ標題で「高知電話 去る六月以来高知県宿毛港外の漁場を荒し廻る怪物あり、大島漁業組合その他で県に捕獲願を出しこれを捕らへんとあせつたが怪物は全く神出鬼没で天気のよい日などは海中の岩の上に腰をかけ人を愚弄するなど滑稽味を見せてゐたが、あだかも魔の如く近寄れば海中に姿を没し手に追へなかつたが、十九日午前十一時半頃宿毛町大島漁業組合員が今日こそ捕らへんものと大島へ乗り出し鹿岬附近で怪物を発見し網を張り廻し漸くこれを捕獲し歓声をあげた。怪物は頭は犬に似て顔は人間、尾は魚で廿貫以上もあり人々は人魚と称してゐる」とある。動物学を齧つた人なら此の怪物が海獣の仲間でそれもアシカかアザラシあたりではないかと大体見当がつくのである。「尾は魚」といふ点が心配になるがアザラシなら後肢は魚尾状に見えるので尾と間違へたのかも知れない、アザラシ計りではない、アシカやオットセイが後肢の蹠を見せて之を扇の様に動かすのを尾と見誤る人が多いに相違無く、小学校の國語読本(海豹島のオットセイの條)にさへ尾となつて居るのはどうかと思ふ。何とかして此の正体を知り度いと念つて居る内烏兎匇々昭和八年になつたが、同年四月三十日靖國神社の臨時大祭に参拝して境内狭しと立ち並ぶドンチャンに注意してみると、昭和四年高知県宿毛港で捕れた「海の怪物」を供覧して居るのがあり、看板には荒模様の海中から大海坊主が顔を顯し、幾多の漁船は之を囲んで捕獲に努めんとする振天動地の活劇場面が描かれてゐる。昭和四年に高知県なら永らく関心を失はなかつた上の記事と符合するから、すつかり悦んで入場してみるとおやおや中には海豹(あざらし)が一頭居た。之が実に高知県下の人魚の正体であつた。仕込まれたものと見え両前肢を交互に使つて横腹をペタペタ叩いて見せるのが御愛嬌である。見世物にしては元気のいい海豹だと其の時感じた。更に歳月は流れて昨年四月三十日靖國神社大祭の折、再び右の絵看板を目当てに入場して嘗ての海豹氏の健在を確かめようとしたら、いつの間にか先代は死んだと見え二代目を相続して居たのは驚いたことにアシカであつた。何処で捕れたアシカか知らぬが後から斯んな目覚ましい経歴を背負はされてアシカらずなどと恐縮して居るかも知れない。

(「動物 脊椎動物」 高島春雄)

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二重に読まれるべく活字を仕組んで題した「善藏を思ふ」、焦点のぼやけた眼で本読む人だけがそこに「薔薇を思ふ」という隠れた文字を見出す(太宰治)

2024年02月10日 | 瓶詰の古本

 私は、その夜、やつとわかつた。私は、出世する型では無いのである。諦めなければならぬ。衣錦還郷のあこがれを、此の際はつきり思ひ切らなければならぬ。人間到るところに青山、と気をゆつたり持つて落ちつかなければならぬ。私は一生、路傍の辻音楽師で終るのかも知れぬ。馬鹿な、頑迷のこの音楽を、聞きたい人だけは聞くがよい。芸術は、命令することが、できぬ。芸術は、権力を得ると同時に、死滅する。
 あくる日、洋画を勉強してゐる一友人が、三鷹の此の草舎に訪れて来て、私は、やがて前夜の大失態に就いて語り、私の覚悟のほども打ち明けた。この友人もまた、瀬戸内海の故郷の島から追放されてゐるのである。
「故郷なんてものは、泣きぼくろみたいなものさ。気にかけてゐたら、きりが無い。手術したつて痕(あと)が残る。」この友人の右の眼の下には、あづき粒くらゐの大きな泣きぼくろが在るのだ。
 私は、そんないい加減の言葉では、なぐさめられ切れず、鬱然として顔を仰向け、煙草ばかり吸つてゐた。
 その時である。友人は、私の庭の八本の薔薇に眼をつけ、意外の事実を知らせてくれた。これは、なかなか優秀の薔薇だ、と言ふのだ。
「ほんたうかね。」
「さうらしい。これは、もう六年くらゐは経つてゐます。ばら新(しん)あたりでは、一本一円以上は取るね。」友人は、薔薇に就いては苦労して来たひとである。大久保の自宅の、狭い庭に、四、五十本の薔薇を植ゑてゐる。
「でも、これを売りに来た女は、贋物だつたんだぜ。」と私は、瞞(だま)された顛末を早速、物語つて聞かせた。
「商人といふものは、不必要な嘘まで吐(つ)くやつさ。どうでも、買つてもらひたかつたんだらう。奥さん、鋏(はさみ)を貸して下さい。」友人は庭へ降りて、薔薇のむだな枝を、熱心にぱちんぱちんと剪(つ)み取つてくれてゐる。
「同郷人だつたのかな? あの女は。」なぜだか、頬が熱くなつた。「まんざら、嘘つきでも無いぢやないか。」
 私は縁側に腰かけ、煙草を吸つて、ひとかたならず満足であつた。神は、在る。きつと在る。人間到るところ青山。見るべし。無抵抗主義の成果を。私は自分を、幸福な男だと思つた。悲しみは、金を出しても買へ、といふ言葉が在る。青空は牢屋の窓から見た時に最も美しい、とか。感謝である。この薔薇の生きて在る限り、私は心の王者だと、一瞬思つた。

(『善藏を思ふ』 太宰治)

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此処にゐる己たちは直きに跡方もなく消えてしまふ影に過ぎないが、本物の方はちやんと宇宙のフイルムの中に生きてゐるんぢやないだらうか(谷崎潤一郎)

2024年02月07日 | 瓶詰の古本

「一体、己の考へでいふと、」と、吉之助は更につづけた。「活動写真といふものはたとへどんなに短い場面でも芸術的に撮つてさへあれば、そこに必ず一つの神秘が感ぜられる筈だと思ふ。僕がお前を写すとする、そは長い芝居でなくても、お前へが庭を歩いてゐるところでもいい、さうしてそれをスクリーンの上へ映写するとする。――ただそれだけを考へて見ても己には何だか不思議な気がする。普通の写真だと物の影だと思へるけれど、活動写真の中の人間はなぜか己には影のやうな気がしないのだ。却てこゝに生きてゐるお前の方が影であつて、映画の中に動いてゐるのがお前の本体ぢやないだらうか? と、そんな風に思へてならない。大袈裟にいふと、全体宇宙といふものが、此の世の中の凡べての現象が、みんなフイルムのやうなもので、刹那々々に変化はして行くが、過去は何処かに巻き収められて残つてゐるんぢやないだらうか? だから此処にゐる己たちは直きに跡方もなく消えてしまふ影に過ぎないが、本物の方はちやんと宇宙のフイルムの中に生きてゐるんぢやないだらうか?己たちの見る夢だとか空想だとかいふものも、つまりそれらの過去のフイルムが頭の中へ光を投げるので、決して単なる幻ではないのだ。矢張り先の世とか、子供の時分とかに、一度何処かで見たことのある物の本体が影を見せるのだ。己には先からさう云ふ考へがあつたんだけれど、活動写真を見てゐると一層そんな感じがする。映画といふものは頭の中で見る代りに、スクリーンの上へ映して見る夢なんだ。そしてその夢の方が実は本物の世界なんだ。」
「ああ、さう云へば私も何だかそんな気がする。」
 と、民子も真顔になつて云つた。

(「肉塊」 谷崎潤一郎)

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モダン語漫画辞典「はしがき」(中山由五郎)

2024年02月03日 | 瓶詰の古本

         は し が き

 時代は奔流の如き超スピードで動いてゐる。同時に我々の思想や感覚も、また嵐のやうな急テンポで変つて行く。そこで新らしい知識やモダンな言葉が、さながら輪転機からでも刷り出すやうに、後から後からと際限なく出て来ようといふ訳である。しかも新らしい知識はモダンな言葉によつて表現され、モダンな言葉は新らしい思想と感覚の産物であるから、これを離れて、新らしい時代と新らしい精神とを理解することは出来ない。今日の場合、モダン語を除外しては一枚の新聞紙すら満足に読破し難く、これを知らざれば忽ち時勢に後れ、人中で恥を掻く位のことはマダしも、果は社会の落伍者となり、日常の用務や生活にさへ差支へる時が来る!
 斯く真剣に自己の前途を省察し来れば、エロのグロのと云ふ浮いた浮かれた沙汰では無く、極めて真面目な意味からも、之を知らんとする切なる欲求が大衆の上に動いてゐることは否み難い事実である。然しながらモダン語と称せらるゝものに限つて普通の辞書には出てゐず、同一語でさへ使ひ方次第ではガラリと意味が変らうと云ふのであるから、時には学者でさへも面喰ふことが多い。加ふるに坊間ありふれたモダン語や新語の字引は、多くは一夜造りの与太出版で信を置き難く、つまらぬ用語はあるが肝心のものが抜けてゐるとか、説明が杜撰で馬鹿短くて分らぬとか、体裁は善いが実用には向かぬとか、一として完全なものとて無く、何れも「暇のない奴は見るな」と云はぬばかりのもので、内容に毫も潤ひなく面白味無く、乾燥無味にして没趣味に過ぎた憾みがあつた。本書の特長は、従来の辞典に通有の「辞書に欠伸は附物」といふが如き欠点を取除き、いはゆる面白くしてタメになるやう能ふ限り解説を興味中心となし、これに漫画を配して読者の理解を助け説明の足らざるを補ひ、いかほど難かしい言葉も面倒な意味も、知らず識らずの裡これを理解し得るやう努めてある。
 また附録として辞典編纂の型を破つて随所に挿入してある『近代色オンパレード』『モダン風景十二ケ月』『尖端人心得帳』等の如き、何れも尖端人として必要なるモダン常識を、平明に通俗に読者に伝へんとする用意と婆心とに外ならない。其他本書の収載語数が、他書の四倍以上に上つてゐる点や、辞書の生命たる索引に周到なる注意を払ひ、あらゆる読み方から引けるやうに編纂してあることなど、数へ立つれば際限もないが、兎に角、従来の辞典が脱し得なかつた旧套を打破し、短所を完全に征服し得たことは、聊か世に誇るべき本書の特長として、深き自信を以て江湖に推奨し得る次第である。
 なほ本書が辞典編纂に新機軸を出し、時代のトツプを切つた新らしい試みたる、読む辞典であると共に眺める辞典であり、新らしい世相がよく分ると共に面白くして重宝な活きた辞典たる真価を、永遠に存続して之を失はざらんとするには、絶えず時勢の進運に伴ふべく留意し、常に内容を刷新して改版の都度、新語又は洩れたる語を附加し、何時の時代にあつてもモダンなフレッシュな辞典として世に見えなければならない。よつて読者諸子に於かれても、「かういふ言葉が洩れてゐる」とか、「かういふ語を入れたら」と御気付になつた節は、奥附記載の著者宛に御一報あらんことを切望して止まない。
    一九三一年十月
                          編 者 識

(「モダン語漫画辞典」改訂版 中山由五郎)

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