夢野久作は「アラビアンナイト」と「西遊記」を最愛読の二本に挙げていたと朧気ながら記憶しているが、「西遊記」の大団円で悟空は自分自身に出会うとも言っていたような覚えがある。手元の講談本を読むと、確かに西方浄土で三蔵法師や悟空一行は解脱後に自分の抜け殻を見るのだが、それにしても自分の姿を自分が見るというのは、本能的に不気味な気分に襲われるものである。この世の中で、なにが見えないといって、意識するところの自分自身だけは絶対に自分で見ることができないものである。この不可能な体験にもっとも近づくものだから、古来、鏡には神秘的な魔力があると信じられているのだが、そこに見えるのはあくまで虚像であって、自分自身そのものではない。
高熱に冒されて意識混濁と言うか脳髄沸騰というか、正常な精神の限界一杯に至ったとき、自分自身を空中から見下ろすとか、添い寝している自分自身に触るとか聞いたことがあるが、そこまで行くと確かに、正常の限界というよりも正常の閾を越えてしまっているような気がする。
しかも、ドストエフスキーの小説「分身」なんかを読むと、小説家はそのような現象をまことに綿密にというかまざまざとというか、ある意味嬉々として描写して止まず、真に迫るその迫り方からして、本人の実体験を披露していると思わざるを得ないところがある。酒精によってか瘴気によってか、はたまた本然の質によってか、自分自身の正面なり背中なりを見ると言う、平穏尋常の世界ではあり得ぬ奇怪事を体験して、しかも狂気の海に溺れることがないとは、いかなる感官気質をもってこの世に現われたのかと問い質したくもなる。
小説家が分身現象というか自分自身を見る自分という現象を描いているのは、なにも自分自身を見つめるような者こそ小説家としての天稟を付与されているのだということを証ししているのではない。そうした現象を体験している人がそれだけ数多くいるということの方に事実がある。
唐突だが、既視感なる現象がある。これは、ほとんどすべての人が知っている感覚である。吉田兼好も夙に「徒然草」の中で簡潔明澄に語り尽くしている。また、「ツァラトゥストラかく語りき」においてニーチェが永劫回帰の実在、理知に先立つ現実として謳い上げている。でありながら同時に、依然として普遍一般の理性の範囲内では捉え切れない現象として立ち現われることに変わりはない。かつて通り過ぎてきたらしい場面に再び投げ込まれるという、生存時間の塗り直しの感覚を、日中の目眩い世界で理性的に説明し解釈することは誰にもできはしない。たとえそれが、心理学という名の下の仮説として提示されているとしてもである。
同様に、自分自身を見る自分という現象もまた、少なからぬ人にとって身に覚えのある感覚であり、かつ、一個人にとっては合理的な解釈を容れる余地などどこにも見出せないものなのである。添い寝する自分を見る自分を感覚したときの気分は、既視感に比べてはるかに劇烈な畏怖心を感起するものであり、心理・生理学からする分析解釈が間然するところがなかったとしても、例えば創造の魔に仕える小説家にしてみれば、選ばれて与えられた唯一無二の心性財産としてかけがいないものとなってしまっている。既視感と自己現前とふたつの現象は、心理の錯覚という一言で括ってしまうにしては、そこに湧き上がる感情は生々し過ぎるし、かと言って現実と等価に扱うには不可解過ぎる。そうした幻象を、合理に偏らず、非合理に奔らず、誰の心にも届く言葉で紡ぎ出すことのできる小説家というものは、どうしても普通の人ではないと言わざるを得ない。
基本的に、本として読める状態であれば一向かまわないので、文庫本だろうが菊版だろうが本の形にはこだわらない。旧字体で出版されたものは、できれば旧字体であって欲しいが、新字新かなで入手可能なら取得できる方を優先する。ただ、探し尋ねる時間が長くなると、その間に興味が移って行って、自然消滅的に取得欲の対象から消えてしまう古本も多々ある。昔、村上一郎の文章を読むために、『日本評論』のバックナンバーを探した事があるが、費やす時間が長い割りに効率が悪くなり、徐々に興味も逸れて断念したことがある。
どんな古本であろうとも、探しに探せば古本屋か古書展で二度は出会える、という執念の言伝えもあるらしいが、それまで何年待てば良いことやら、知っている人は誰もいない。大概が、出会えぬままに何十年も経ってしまえば、熱が冷めるのは人間世間の成行と同じである。それを手にすることもなく幾星霜を閲してしまえば、なにがなんでも邂逅したいという願望も静かに和らぎ、なにより運命の壁とさえ思えてくる。万一出会いを果たせれば歓喜は大きいだろうが、たとえ叶わなくとも闕如の哀しみは満たされずして自ずと薄れて行くのである。
それでも恥ずかしながら、一応当座の探し物は幾ばくか残しておくことにしている。例えば、日本小説文庫「超人鬚野博士」、冨山房百科文庫「アラビヤンナイト」、銀河選書「明日を生きよ」、「完修徒然草解釈」など、北村透谷の「楚囚之詩」とか杉山萌円の歌集とかを引き合いに出すのさえ愚かしく、これらのささやかな雑本の無名振りはまさに笑止失笑ものであろう。それは重々承知しているのだが、こんな雑本でありながら二十年経っても出会えないものがある一方で、さすがに三十年経っても出会えない古本は、探していること自体忘れてしまうので、霞んだ霧の向こうに順番に退場して行くようである。これはこれで、古本との縁の有り様になっているのだろう。
豊島園の駅近くのアパートに暮らしていたことがある。豊島園の近所には、いくつかお寺さんのかたまった一画があり、その練馬寄りの裏手に建つアパートの二階、六畳一間の部屋である。
豊島園までは遊園地専用の線路が練馬から一区間だけ分岐しているが、平日は池袋からの直通電車はほとんどなく、大抵は練馬で乗り換えて一駅電車に乗るのである。しかし、短い距離でもあり、ときどきは練馬の駅で降り、アパートまで歩いて帰ることもあった。当時は、鉄道も高架ではなく平場を走っており、線路に併行する広い道路をしばらく行くと右折して踏切を渡る。
踏切を渡るとすぐ道の左側に一軒古本屋があった。多分、小さな古本屋だったと思う。単行本を買う余裕は端からないので、店の中に立ち入って、しげしげと本棚に列ぶ古本を吟味していたはずはなく、だから勿論、店内の様子はまるで覚えていない。それこそ均一台があり、『ボーイズライフ』や『ガロ』、『COM』といった漫画雑誌の古い号冊が結構な嵩になって積まれていた、店先の雑然とした様子だけがかすかに記憶にある。
豊島園に引っ越すのと相前後して、『ビッグコミック』が小学館から創刊されたのだが、その超豪華な執筆陣と伊坂芳太良のかっこいい表紙イラストの漫画雑誌の登場は、それなりに驚異的であった。少年漫画雑誌に混じって多少の恥じらいを含みつつ、別領域として読まれていた『ガロ』や『COM』の世界に、大掛かりな商業誌が参入してきて、それらをひっくるめて呑み込んでしまうような事態を予感させた。
と言っても、『COM』の創刊号こそ買ってはみたものの、実は両誌の購読者でもなかったし、いわんや愛読者であったわけではなく、買ってまでして読んだことはなかった。ただ、六畳の部屋に一人居ると、夜はつくねんとしてもの寂しいし、読みたい本もなかったしで、財布にわずか残っているときに限ってだが、古本屋の店先に積み上げられた『ガロ』とか『COM』の一冊を適当に抜き出して小銭を払って帰るのである。漫画雑誌が一冊あれば、心は満たされるものであるとつくづく知った。
読み終わると押入れに投げ込んでいたが、毎度買ってくる訳にはいかないからそれほどは溜まらない。しかし、心はいつも満たされてはいないので、いきおい寂しくなるとごそごそと押入れに頭を突っ込んで、何冊か引っ張り出してきては読み返していた。
そうやって読み返す漫画のなかに、読むたび、なにか孤舟の気分に誘われる漫画があるのに気が付いた。『ガロ』に載っていたその漫画のなかで、一見屈託のなさそうな男が独り、どこか鄙びた温泉場に投宿し、じいさん、ばあさんと孫娘に構われ、猿と温泉につかり、淡々とした時間を過ごす。こんな風に日を過ごすことができたらどんなにか幸せだろうとしみじみさせるような時間を漫画は描き、心はそこにいっとき入り込んで満たされていた。自分にとって無名だったからか、漫画家の名前にはまるで無頓着なまま、漫画の描く温泉場へ繰り返し遊びに行くような日々だった。盆栽の小宇宙に入り込んだような、底の方で虚無に通ずるそこはかとない駘蕩の雰囲気に浸っていたかったのだろうか。
その後しばらくしてから、東京に出てきている高校時代の同級生から、つげ義春という漫画家の名前を聞かされ、しかもその人が既に知る人ぞ知る存在であることを教えられた。なぜ知る人ぞ知る存在だったのか、その理由については審らかにされなかったが、やがて、『ガロ』増刊の特集号などによってようやく、つげ義春という漫画家の名前が頭のなかに定着し、「二岐渓谷」というその漫画も明示的に記憶に留まるようになった。もっとも、つげ義春が貸本漫画家として活躍していたと認識するようになるのは、更にあとになってからのことである。
今にして思えば、その頃親近していたつげ義春の漫画は、それまで見てきた漫画世界のどれにもあてはまらない漫画、はじめて森閑とか孤独とかの佇まいを表現し得た漫画だったのではなかろうか。それまで誰も気が付かなかったのだが、見晴るかす漫画の地平線の向こうにも漫画世界があったので、つげ義春はそこを歩いていたのである。
昔、本のない家に「広辞苑」がやってきたとき、父親はそれこそ下にも置かぬもてなし振りで誰にも手を触れさせず、おもむろに筆を構えて購入日と購入書店を扉に書き入れる儀式まで執り行った。そのときの騒ぎを見ていたので、あれだけ崇め奉る辞書というものは、世の中のことがなんでも載っている、開けばなんでも教えてくれる万能本だと、無意識のうちに子供心に刷り込まれてしまっていたらしい。いつか自分でも一冊手に入れたいものだとずっと思っていた。中学に入ったとき、普段、なにか買ってくれたためしのない親が、そのときだけは奇蹟的に小さな国語の辞書を買うことを許してくれた。
特に物色して選んだ辞書ではない。とにかく「広辞典」という、まさに「広辞苑」に匹敵するような、その名前がすべてだったのである。名前を見た途端、「広辞苑」となにかゆかりがある辞書かも知れないと考えたのである。正式には「新修広辞典:和英併用ペン字草書入」という、いわゆる実用辞書の一冊で、しかも増補改訂版だった。「広辞苑」とはなんの関係もなかったものの、初めて持つ辞書として立派な編集の素晴らしい辞書だった。茶色の小型辞書で、色付き日本全国地図まで折込で装備されていたような気がする。語釈の下には一々見出し語の英訳語がカタカナの振り仮名付きで記載されていて、和英辞典も兼ねる便利極まりない本だった。小型といっても八百二十頁というから、辞書としては丁度手に馴染む大きさと重さである。出版社は集英社、編者は宇野哲人博士で、この辞書は今も版を重ねている。辞書として信頼され、愛用されている証拠である。
買ったばかりの頃は、所有する喜びとでも言うのか、夜になると辞書を開いて適宜の頁から見出し語を拾い読みするのが楽しみだった。知っている言葉、知らない言葉、それらの言葉に簡潔な解釈が与えられて次々に連なって行く。どこからも読めるし、どこででも止められる。ある種の読物として見ても、読んで飽きるということのないのがうれしかった。
これ以降、辞書は絶対に無駄にならない本であるという公理が心に深く刻まれてしまった。辞書は、もっとも人手の掛かった出版物であり、持っていて有益至極の本である。この天来の啓示に導かれて、古本屋に入れば帰り際には必ず辞書の棚を一瞥し、ありきたりの古びた本ではあるが、語釈や版型、時代を異にする国語辞書や漢和辞書の類を手に取って、時々は気まぐれに買ってみたりもした。大正時代から戦前にかけての廉価な古本に絞って買うしかなかったが、そこに残されている見慣れぬ言葉、失われた言葉などを仕舞っておきたい気持ちもあったのである。
しかし、そもそもなんで辞書なの、という根本的で冷ややかな問い掛けに対しては、どうにも明答できないところがある。辞書とは無駄にならない本であるという、かつての公理も、常人には通用しない妄言に過ぎないのではと気持ちは揺らいでくる。かろうじて、「和漢雅俗いろは辞典」や「携帯英和辞典」に現われた語彙選択の明断と熟なれ抜いた語釈に接し、語学の超人達の苦闘の跡を古本に偲んでいるのだと意気がってみせるのが精一杯である。しかも、そんな辞書に限って復刻版が出回っているのだから世話はない。
とりあえずそれはそれとして、昨今は、大正から昭和前期にかけての漢和辞書を探している。ただし、まだ復刻版になっておらず古本でしか手に入らず、しかも一巻物で分厚ければ分厚いほど好ましいのだ。
と、 こうした懲りない消費衝動は一体どこから来るものなのだろうか。
白土三平は貸本界の大スターであり、その「忍者武芸帳」はいつも引っ張りだこで、一向に巡り会えない伝説的な漫画本だった。何人待ちという予約の制度があったかどうかは知らないが、ともかく全巻を制覇しないうちに貸本時代は終わりを告げてしまったような気がする。全巻どころか、わずか数巻しか借りて読んだ記憶がない以上、事実はそうだったのだろう。
ただ、家では『少年』を購読していたおかげで、漫画に事欠くことはなかった。かの「鉄腕アトム」、「鉄人28号」、「どんぐり天狗」、「だるまくん」、「少年ザンバ」などなど、廊下に棚を作って本誌から付録まで、ずらっと列べて何遍も読み返すのである。なにせ本を置いていない家だったから、活字に触れるとしたら『少年』か『平凡』くらいしかない。要するに漫画と芸能記事だけが文字に親しむ唯一の場面だったわけである。
月刊誌だから当たり前だが、一箇月に一回本屋から雑誌が届くと、一日もかからずに全部読み切ってしまう。一息に読み切ってしまうと言った方がいい。だから、親からは毎度必ず「もう読んじまったのか。どうしてそんなに一度に読んでしまうんだ。もっとゆっくり大事に読め。」と叱言を言われていた。漫画を熟読玩味するなんて、そんな抑制心は子供にはない。ウサギを目の前にした餓狼なのである。そして、残りの三十日近くは、廊下の棚に入り乱れている既刊号を無限回遊して過ごすのである。偶に古い号から少量処分して棚の容量の辻褄合わせをするのだが、漫画本がなくなって行くのはとても嫌な心持のするものである。いわば二度と読めなくなるための儀式なので、処分の日は処刑の日のような、大きな喪失感に襲われる、がっかりの日でもあった。
貸本屋には兄に連れて行ってもらったのだが、そこは『少年』で知っている漫画とは一線を画す世界だった。大人向けの小説本や教養本も数を揃えていたのかも知れないが、勿論そんなものは眼中にない。目に入るのは漫画本しかないのだが、貸本屋にある漫画は、家で慣れ親しんだ漫画とは明らかに質感を異にした描線とストーリーでできたものだった。ただ、だからといって違和感があったということは全然なくて、漫画は漫画という感覚で、親から駄賃がもらえたときに借りてきては無分別に読んでいた。 今となってみれば、それが貸本漫画という世界の、劇画というものであったことを知識として知っているが、貸本屋のおじさんとおばさんから親切にされ、新しい漫画を読むのが一日の最大の愉しみだった頃、まだ意識は朦朧、未分化のまま漫画の世界を無境界に生きていたのである。当然、そこにある漫画を借りて読んで返すということ以外に貸本屋で覚える必要のあることはなにもなく、読みふけった貸本漫画の題名も作者も、すべて漫画という一言のなかに消え去ってしまっている。実は、それらの漫画が貸本屋に行かなければ読めない漫画だとすら気が付いていなかったのである。
唯一、それをそれとして兄から教えられたのが、白土三平の「忍者武芸帳」であった。同じ貸本漫画のなかでも抜きん出て面白く、剛線によって死闘が繰り広げられていく。原初的な暴力を画面に叩き付け、毛物めいた臭いを吹き上げてくるキャラクターと出会った驚きは今に忘れない。何巻にも及ぶ長篇大河の歴史動乱のなかで、かろうじて読むことができた巻に登場するくされ、しびれとか蔵六とか、生まれ付いての異能によって危地を脱し敵を倒す忍者たちは、豪傑でない人間の必殺技で胸躍らせてくれるとともに、旧来の漫画にはない異形の力というようなものを初めて感じさせてくれた。しかも、この「忍者武芸帳」たるや、どこに行っても手に入らない、貸本屋にしか姿を現さない、いつ行っても落手できないという隠秘の本に近くなっていて、どんなにか読みたいと切望しても叶えられない、その飢渇感は尋常大抵のものではなかったのである。そしていまや、様々に版を変えて出版され、文庫版などは古本屋の均一台にばらまかれるような時代になってしまった。
大島渚監督の御宅の写真をグラフ雑誌かなにかで見かけたことがある。居間に置かれたサイドボードの内奥に、貸本オリジナル版「忍者武芸帳」の一揃いが、あたかも深海魚のようにひっそりと潜んでいるのを垣間見たときは、じんわりと懐かしい思いが湧いてきた。復刻版でも愛蔵版でも代えられない、身辺にあったこの本でなければならない必然の体験があるからこそ、摺れて傷んで修復の痕そのままの古本は、生きた時代のかけがいない形見の一つとして残ったのだと思いつつ、監督の影丸映画は未見である。
「デミアン」を読む以前に、ヘッセの小説では一冊だけ「漂泊の魂(クヌルプ)」を文庫本で読んでいた。昔、よんどころない旅行に出たことがあり、途中米子に立ち寄ったとき市内の古本屋で買ったものである。それまでヘッセの小説など見向きもしなかったのに、この小説を選んだのは、財布に負担の掛からぬ均一本だったのと、重荷になっていたそのときの境遇から解放されたいという一途な願望があって古い文庫本の題名に惹かれたからだと思う。
まったく堅固な志操を持って生活している者にとっては平明に読み通せる小説であるが、その日その日をなにかに押し拉がれて暮らしている者にとっては、つい感情移入してしまうところのある小説である。まして青空の下、米子城跡の公園で小説を読むなどという所業は、既にして自分を見失っていた証拠と言えるかも知れない。中篇に満たない小柄で穏やかな小説のはずだが、時と場合によっては予想外の化学反応を引き起こし、内部に新しい自分が組成されつつあるのではという予覚めいた陶酔感を生み出す力を持っている。
「クヌルプ」に満ちている豊かな情感は様々な形で深く読者に沁み込むのだろうが、閉塞状況に陥っていると感じながら秋空の広がる城跡でいっとき古本に読みふけっていた心根は、小説の情感とは縁もゆかりもない、“己のみ佳し”とするいい気な思い上がりでしかなかったにちがいない。以来ずっと、そのときの心根と城跡の風景とは、胸の深いところでかすかな余韻として残り、時に慙愧の思いを伴って強く甦るのである。
「デミアン」を読んだのは、これから十年過ぎた後のことである。「クヌルプ」から想像されるヘッセ像が一変したような気がしたのを覚えている。ヘッセという小説家が横溢する衝動を詩的に統御するだけでなく、霊知的な神秘学などに深く通じていることに全く無知だったのである。その後、いずれも古本で「シッダールタ」、「荒野の狼」、「暁の巡礼」、「知と愛」、「ガラス玉遊戯」などの小説を辿って行くが、読み通せずに終わったものも少なくなく、心に届いてそこに座り込まれるような印象を受けたのは、結局、「クヌルプ」と「デミアン」の二作品だった。
そのまえも、そのあとに起こったことも痛いことだらけだったが、歳を重ねて自分自身の奥底に降りて行っても自分の影を映し出す鏡に出会えないでいるのは、情緒に流される田舎芝居に寄せる執心を、懲りずにまだ捨てていないことによるのだろう。
もう十五年くらい前になるか、神保町一誠堂前の文庫本の均一台に、昭和四年改造社発刊の『日本探偵小説全集』が二、三冊列んでいた。値段は百円か二百円だったと思うが、そのうちの一冊に「夢野久作集」があった。それ以前に何度か見かけた記憶があり、当時さほど珍しいものとも思わず、さらに三一書房の「夢野久作全集」も持っていたことから、そのまま打ち捨てて買わずに終わった。しばらくして、その見過ごした本が夢野久作名義として最初の出版本と知り、このときは切歯扼腕の意味を体で思い知らされた。
妙なもので、そのとき以来、改造社全集版「夢野久作集」を単品で見かけたことがない。一度、紐で結わえた『日本探偵小説全集』の一群の中に潜り込んでいるところを発見したことはあるが、一括物としてべら棒な値段が付けられていて、憤怒と悔恨の感情とはこんなものだと再度認識させられただけだった。負け惜しみでなくそれほど希少な古本とも思えないので、どこかでまた遭遇する機会が来る、と努めて気を落ち着かせその場を立ち去るしかなかった。
その点、同名の『日本探偵小説全集』でも春陽堂が発刊した全集の一冊は、戦後の出版のおかげで、というか夢野久作生前の出版ではないのでというべきか、古本屋で普通に入手していた。もっとも、こちらは夢野久作単独の巻でなく山田風太郎との抱き合わせでもあるので、時代的な貫禄の違いを含め、改造社全集版に比べたらずっと格下の久作本ということになるのかも知れない。
古本としての格は、まさにその通りで異存ないが、読者としての個人的かつ末梢的な余禄を吹聴させてもらえば、春陽堂全集版のこの文庫本を読むことにより、山田風太郎の鬼才ぶりを現在から眺め返し、本物の小説家は常人から生まれてくるものではないという古今不易の事実を痛烈に納得させられた。山田風太郎の天国荘ものはいくつか読んでいるはずで、天井裏に砦を構えて、旧制中学の猛者どもが悪巧みを仕組んでは危機一髪の目に合う、探偵小説風味の濃い愉快な小説だったと思うが、実はまるきり忘れている。しかし、それはそれとして、この巻に収録されている『天國荘綺談』を読んでみて、あらためて山田風太郎の超絶絢爛たる文字使いと次々に畳み掛けてくる幻妙魔怪の面白さに驚倒した。
山田風太郎は、谷崎、芥川、佐藤の藝脈につながる文人であると挟み込みの『探偵通信』において乱歩から賞されているが、夢野久作と優に比肩する高峰として屹立する存在となっている現在は、田舎の公立図書館で風太郎忍法帖の掲載雑誌をこっそり読んでいる高校生仲間を横目で見ていた片割れにとっても、望外に喜ばしい未来だったわけである。
ヘッセの「デミアン」を読んだきっかけは、友人が高橋巌という大学の先生の風貌を絶賛していたことから、その先生の「神秘学序説」を装釘にも惹かれて読んでみたところ、「デミアン」の名が出てきたことによる。もっとも、小説を読むきっかけにはなったものの、アブラクサスなりエヴァなりをひっくるめて「デミアン」で示されたできごとを、「神秘学序説」の説くようにユングのグノーシス的文脈のなかで捉えることは難解過ぎる話だった。第一、小説として「デミアン」を読むのが精一杯で、読んでいる最中は読み解くなにかがあるなどということは頭の中からすっかり消えていたのである。
本の扉に、三行のエピグラフがある。『おれは、本当の自分自身から感起してくるものに従って生きてみようと望んだだけなのだ。なぜそれが、あんなにも難しいことだったのか。』と。この言葉は、エミール・ジンクレールの人生の終盤において発せられた言葉なのか。戦争をくぐってきた後の、傷を負った兵士の言葉なのか。多分、あんなにも難かしいことだったのは、小説の末尾の数行から始まる時代においてのことなのだろう。であるならば、エピグラフと末尾の囁きのような言葉の間に挟まれたこの物語は、始まる前の物語と名付けられるべきものかも知れない。
ところで、ジンクレールは成長する途上でピストリウスというオルガン弾きと出会い、多くのことを学ぶ。ピストリウスは、確かにその段階のジンクレールの魂にふさわしい師であったが、やがて、古代からの教えを伝える役割を終え、博古家として静かに遠景に退いて行く。普通一般に比べたら遥か高みにいる博古家としてピストリウスなる人物を登場させ、しかもジンクレールをそこに逗まらせはしなかった。大筋を忘れた「デミアン」のなかで、印象に残っている一章である。
自分自身のなかから感起してくる声に耳を傾け、鳥は卵から生まれ出るために卵(世界)を破りアブラクサス向かって飛翔すると語るこの小説は、ある種の覚醒に導く震盪力を持っているにちがいないが、既に古本を漁り古本を捨てられない人間としては、博古家に対する憧れを封じ得ぬままピストリウスの登場する一章を読んでいたものと思う。その足元にも及ばぬながら、ピストリウスの沈黙の場面には複雑な感慨を懐かざるを得なかったのである。
マックス・デミアンは、時間を超え、両性を超え、動物や樹木、遊星のなにものでもなく、なにものでもある相貌を持っている。デミアンとは若き日に出会わなければならない。ジンクレールのように、その顔の不思議に気づくことができるうちに。
昭和三十八年、社会思想社から現代教養文庫の一冊として「人生とはなにか」が出版されたとき、村上一郎は歳四十二、それまでに大学へ行き、海軍に属し、化学会社で勤務し、雑誌の編集者となり、以降五十四で死に至るまでに多くの評論を著した。若年の頃から、思想、文芸等の別なく本に親しみ、世界の激しい揺らぎのなかで深く想いを凝らし、人生とはなにかを考えていたと、これは俗物の浮薄な憶測である。
存命ならば今年八十八になるので、大西巨人と同時代人ということになる。思想的な立場はどうあれ、同時代に文筆に携わる者として、互いの存在を認識していたはずであるが、接点があったかなかったかについては、その時代の言論界にまったく疎い門外の徒にはなにも分からない。
「人生とはなにか」以後の村上一郎の著作で読んだと言えるのは、「振りさけ見れば」と「萩原朔太郎ノート」のいずれも死後に刊行された二冊ぐらいで、中身を理解したとまでは言えない。無論、そのほかの著述に関して正しく語るだけの知識も力もない。
それらに比べれば、「人生とはなにか」は、読んだままに受け取れる文章であり、頁下に人名、事項に係る註も付されていて、読むからに真率な温かみが感じられる本になっている。だから、たくさんの思想者や文学者が出てきても、すべて咀嚼され血肉となった村上一郎の言葉となって、素直に胸に届いてくるようだ。
さっき、あらためて本棚から取り出してみて、この文庫本も扉と表紙が離れそうに傷んできていることを発見した。もっと早く気が付いていたら、均一台で何回か見かけたときに重ねて買っておいたものを。
本のちょうど中頃に『出会いということ』と題された章があり、ひととひととの出会いを思い、夏目漱石の「こゝろ」を語った文章がある。そこで村上一郎は、先生の自殺について、「慣習や功利や俗物精神のなかに生きていてそれらをちっとも疑わぬものたちにとってはまるきり判らないであろう苦悩が、じつは一個の人間の生死を賭けるだけのものであること」と書いている。「こゝろ」において、先生がここにある苦悩を生きたか否かは判断できないが、温かみを感じさせるこの文庫本のなかにおいてさえ、十余年の後に自裁を遂げた人の苦悩は暗示されていたのかも知れない。
尾篭な話で恐縮だが、厠に座り込むと、きっと頭のなかに“先生”という内語というか、言葉が浮かんで来る。どこかから電波が飛んで来るという筋の話ではない。
昔、蒲田近辺の一間に下宿していたことがある。共同の厠を使用する度に、文庫本を持って入り読みつけていたのだが、いつも持ち込んでいたのが漱石の「こゝろ」、綴じ紐が緩んでばらばらになりそうな古本の岩波文庫だった。その文庫本はそこでしか開くことはなく、毎日毎日、あきずに読んでいた。一回読み終わった後も、用を足すたびに適宜の頁を開いては、行きつ戻りつ拾い読みをして過ごしていた。
それ以来、何度となく引越しをし住処を変えてきたが、どこで暮らしていようと厠に入ると必ず、“先生”という「こゝろ」の声のようなものが一瞬響くのである。蒲田の下宿先で読んだ古い岩波文庫は、とっくに捨ててしまったが、その後も、岩波、新潮、角川と、均一台で文庫本の「こゝろ」を見かけると、何度か繰り返し買ってしまう。大きな引越しの際に捨てていたはずなのに、またいつの間にか、何冊か古い文庫本の「こゝろ」がたまっている。
この小説をめぐって多くの論者が漱石の意図を推理し、謎解きというか解読を試みているが、たしかに小説を読んだときに、なぜ先生は自死しなければならなかったのかという疑問に囚われ、考えあぐねてしまった。
先生からの長い手紙が遺書であったという事実を前にして、狐につままれた思いをしたのだが、それはつまり、先生が自殺する理由について明確には語っていないからではないか。過去の人生において起きた出来事が全部提示されているにしても、なお、何年も後になってからの、現在このときの先生が自死を決意するに至る理由はないと感じるのは、読解力が決定的に不足しているからだけのことなのか。殉死がきっかけになったとも直ちには肯えない。小説のなかで先生は、乃木さんと同類の人間として造形されてはいないはずである。
先生の場合、少なくとも、煩悶や喪失、憤怒の末の自殺ではない。やはり、自分のなした行為に対してきまりをつける意味での自殺としか考えられない。しかし、何年も経ってから実行されたそれは、後から理性を駆使して様々の論理を組立てなければ解釈のつかないものであって、心から自然に頷けるものではない。罪の償い、不安からの解消、さまざまな解釈の余地は残しているが、手紙のなかで理性的な叙述を続ける先生が、肝心の自裁の理由を説明できなかったのはどうしてなのか。あるいは、説明できないということが唯一自然な理由であると言いたかったのか。
先生の奥さんに、そこのところをどう思っているのか聞いてみたい。先生とKの双方を識っている女の人ならどう答えるか、一度でいいから聞いてみたい。