美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

外的諸原因の衝動によって決定される(スピノザ)

2014年03月30日 | 瓶詰の古本

   被造物は総べて或る一定の仕方で存在し作用するやう外的諸原因によつて決定される。石はそれを衝き動かす或る外的原因によつて或る一定の運動量を受け、外的原因の衝動は止んでもその運動量によつて必然的に運動を継続する。かく石が運動を固執するのは、それが必然的であるからではなく、寧ろ外的原因の衝動によつて決定されざるを得ないのであるから、強制的である。此処で石について言はれることは、どんな特殊の物(たとひそれが如何に複合的なもの、そして如何に種々のことを為し得るものと考へられようと)についても言へる。その理由は、必然的にあらゆる物は外的原因から或る一定の仕方で存在し作用するやう決定されるからである。今、その石が運動を継続しながらものを思ふと想像してみる、そして出来るだけ運動を固執せんと努力することを自ら意識すると想像してみる。此の石はとにかく自分の努力を意識し、決して無関心であることはないから、きつとかう考へるであらう。自分は完全に自由だ、自分が運動を固執してゐるのはただ自分がさうしようと思ふからにほかならぬ、と。これが、人皆の持てりと自惚れる人間的自由であつて、それは実は、人々が自分たちの欲求は意識してゐるが自分たちを決定する外的原因を知らずにゐるといふことにほかならない。たとへば子供は自分が乳を欲求するのを自由だと思ひ、男の子は自分が腹を立てて復讐しようと思ふのを自由だと思ひ、臆病者は自分が遁走しようと思ふのを自由だと思ふ。また酔漢も、後で素面のときには寧ろ黙つてをればよかつたと思ふやうな事をしやべるのを自分の精神の自由な決意から語るのだと信ずる。そのやうに、錯覚を起してゐる熱病患者・饒舌家及び其他さういふ種類の人々は、自分たちの精神の自由な決意に従つて行動すると信じ、彼らが或る衝動に駆り立てられてゐることを信じない。而して此の偏見は総ての人間に生れついてゐるので、彼らは容易に此の偏見から脱しない、何故こんなことを云ふかといへば、人間にとつて自分の欲望を統御するほど出来にくいことは無いといふこと、且つ相抗争する感情の擒である人間は、屡々、より善いものを見ながらより悪いものに随いて行くに拘らず、自分たちでは自由だと信じてゐるといふことを、経験が我々に、実に十分な上にも十分教へてゐるからである。

(「スピノザ」 ゲープハルト 豊川昇訳)

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古本蒐集者たり得ないもの

2014年03月28日 | 瓶詰の古本

   古本蒐集者にとっては、誰も持たない稀本ばかりで限りない書棚を埋め尽くすことが最上の望みである。次いで、凡そ同朋知己が持っている本という本はことごとく持ち尽くしていると豪語できる境涯に至ることである。そのあとと言ったら、一部人の持っていない本を持ち、一部人の持っている本を持つということになるが、この階層まで落ちると、もはや単なる数まかせの古本の所有者というだけに過ぎず、蒐集者でも何でもなくなってしまう。多少気の利いた古本を人様より多めに蒐めていたにしても、実体は凡庸の極みをさらけ出しているだけである。いくら部屋中に古本を積み重ねていたところで、蒐集者の名分に欠かせぬ高貴な至高性なぞ毛筋ほどもない上げ底的俗物階層と言ってよい。
   さらに、中途半端に金目を惜しむ不埒な性分の場合には、この上なくみっともない姿のままみすぼらしい古本の群れに殉じて空しく崩折れて行くこととなる。ごく安上がりに、雑誌の掲載小説を切り取って手作りの製本で仕立てた編纂本や、手擦れに堪える仕様に装釘し直した辞書などを取り揃え、擬似的にせよ天下一本の書物なりと強弁して蒐集者まがいの快楽に溺れてみても、さすがに、それを古本蒐集者の醍醐味とは呼ばれない。
   つまるところ、狂的なまでに極端になれなければ古本蒐集者たり得ず、金に糸目をつけず、人と談判する騒擾を厭わず(むしろ好んで駆け引きを挑む)といった積極果敢にして疾風迅雷の精神が必須であり、不幸にしてこれらの生得的資質に恵まれない温厚な小心者であるとなれば、何ものの蒐集をも始めないのが幸せへの道と言わざるを得ない。蒐集を許される者と許されない者、飛翔する者と低徊する者との間には天与の境界線があるという定理を認知できる程度の分別がなければ、そもそもモノの蒐集に手を染めてはならない。
   ただし、今となっては手遅れの身となった均一本偏愛者(上げ底的俗物階層の構成因子)が酩酊状態で言い放つことだから、この話にいささかの信憑性もあろうはずがない。

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超人は空中に揚翔し(ニーチェ)

2014年03月25日 | 瓶詰の古本

ニイツチヱは何人が超人なりや、将又超人とは何ぞやに就ては説かない。其所以は、超人は全く空中に揚翔し、青空ほのかに見ゆるのみである。超人は言葉であり、理想であり、思想であり、夢であり、願求であり、憧憬であり、所謂彼の新貴族の精髄である、即ちかくして夢の又夢であり、願望の精髄でもある。
「余は汝等に超人を教へる。人は征服さるべきものである」。
「超人は地球の意義である」。
   超人は云はゞ遺伝説の理想であり要件である。即ち「かくして肉体は変転するものとして、戦闘するものとして歴史の間を進行する」(ツアラトウストラ如是説)(一部百八頁)
「あらゆるものは是迄自己以上のものを創造した」。諸君は虫から人間に進んだ。かるが故に諸君は今や自己以上のものを創造しなければならない。猿が人間にとつて然るが如く、人はそのものに比すれば笑ふべく恥づべきものとなり終るが如き程に偉大なるものを創造すべきである。即ち人間は超人に至る橋梁であり、獣と超人とを結ぶ索である。従つて人間は征服されなければならない。げに人間は飛躍されうるのである。今や人間が再び目的を立つべき時である。未来及び最も遼遠なるものをして汝の今日の原因たらしめよ。汝の友の中に汝の機因として超人を愛すべきである(一部八十六頁)。
   人をして偉大に且つ愛すべきものたらしむるは、彼が過渡であり橋梁であつて、何等の自己目的でもないと云ふことである。
   かくて超人によつて人間の利己主義を認め、未来によつて彼の今日を知り、其最高の進化の尺度を以て量れば、人間の現実主義は其限界を認める。かくて此場合に於ても亦博愛主義も死せる概念や、灰色の抽象の代りに、生気溌溂たる人生そのものに向けられ、平凡一様なるものゝ代りに、より高いものに向けられ、宗教的現実的他愛主義の代りに歴史的現実的他愛主義に向けらるゝのである。ツアラトウストラは創造者、祝ふ者、収穫者と共に交歓する。
   強い人は反抗して新創造の為めに自由を贏ち得る獅子の如くである。新貴族は統治者階級であつて、新な統治権を獲得して、権力意志を何処までも貫徹するものである。世界は新価値の発見者の周囲を回転する。併し創造者は「嘗ては国民であつて、その後、やうやく個人であつた、げに個人は猶最近の創造である」(一部八十二頁)。
   ツアラトウストラの使命は個人を覚醒するにある。「群集より多くのものを誘惑し去る為に我は来れり」。「国家の熄む処に初めて無用ならざる人は始まり、必要なる人の歌、一旦聞けば亦も聞かれざる旋律は始まる」。
「国家が熄む処を-是非とも彼方を見よ、我が同胞よ。諸君は虹と超人の橋梁とを見ずや?」(一部六十八頁)。
   孤独なる人に新使命が降る。即ち「今日の孤独なる者よ、孤立隠遁せる者よ、汝等は早晩国民たるべきである。汝等自ら選びし汝等の中より、必ず選良の国民は生ずべきである。然して其国民より超人は出現すべきである」。
      新なる黎明は明けた。
      諸の神は死せり、今や我等は超人の生きんことを欲す(一部百十二頁)。
かくツアラトウストラは語れリ。

(「近代文學に現れたる超人」 レオ・ベルク 高橋禎二訳)

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正気は別にあると

2014年03月23日 | 瓶詰の古本

   夢へ沈み込むようにして雨中に溶け入ることができるのであれば、千古の修行書を望んで読み破るだろう。大空に吸い込まれて再び地上に還ることがなかろうとも、むしろそのような消滅を最も願いもしたのだ。独り生まれ落ちたとしたならば、何人の看取りをも求めて詮ないことである。衝動によって地上に生を享け、摩耗によって生を終えるという過程にあって、所在確かならぬ深層の精神は瞬時の悲傷を手掛かりにして、複層の意識を見出すに至る。対象化されるものと対象化を行為するもの、この分化によって引き起こされる思惟の集合群への無限の跳躍の途上で、精神は複層の意識の滴る跡に超越の影を想う。
   百発百外に終始しながら的に向って文字を放ち得る愚狂にしてはじめて、複層の淡い存在を封じる鏡の奥を覗き見ることができるのだと思いたい。狂気か熱病かは知らず、意識無意識の池の周りで踊り回る文字の乱脈狼藉を見物する衆人の少ない時代にあって、愚狂の毒気に中って正気が別にあると思い知ろうとする人は多くない。折りたたみの利かぬ思想がかつても今もあることを、あるいは、愚狂者一個一個は妄執を抱える騒人であり、白紙に吐き出す文字の象形そのものであることを知る人はほとんどいない。

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如何なる光も外へ出られない闇黒国(マンデヴィル)

2014年03月20日 | 瓶詰の古本

   アブカズ王国には一つの不思議なものがある。即ち此の国の一領土ではあるが、周囲たしかに三日里程のハニソン(Hanyson)と呼ぶ地方は、全く闇黒をもつて包まれて居る地で、如何なる光りも見ることが無い。随つて誰れでも此の地方を見ることも出来ず、亦、其所へ足を踏み入れるものも無い。然るに噂によれば、時としては此の闇黒国から、人間の声や、馬の嘶きや、雄鶏の聞ママなどが聞えることがあるから、人間が住んで居るに相違ない。但し如何なる人間であるかは知る人無しとのことである。人々の言ふところによれば、神の奇蹟によつて此の地が闇黒となつたとのことである。即ち一人の悪るいペルシャ王が‥‥其の名をソーリス(Saures)と呼ぶ‥‥総べての基督教信者を追撃して之れを殺ろし、其の屍を以て彼れの偶像に供養せんと欲し、大軍を引きつれて、大いに基督教徒を追迫したのである。
   当時、此の国には多くの善良なる基督教信者が住んで居た。彼等は其の財産を棄てて希臘に逃げやうと試みた。彼等はメゴン(Megon)と呼ぶ平原に来るや、此の悪人なる皇帝は、大軍を引きつれて彼等を迎へ撃ち、殺ろして其の骨を寸断しやうとした。是に於て、基督教徒は地に跪づいて、神に救ひを祈つた。直ちに一つの大きな濃雲が襲へ来たつた、皇帝及び彼等の大軍を悉く包んだ。こう言ふわけで、皇帝も其の軍勢も、何れの方面からも免ぬかれ出づることが出来ぬ有様となつて、今日に至つて居るのである。彼等は世界破滅の日迄、永久に神の奇蹟によつて闇黒の中にとゞまることであらう。之れに反して、追撃をうけた基督教徒は、如何なる者からも何等の妨得ママをうくることなく、其の欲する所へ往くことが出来た。序ながら説いて置くが、此の闇黒の地から一つの大きな川が流れて来るが、之れによつても、人間が其所に住んで居ることが、多くの手近かの証拠で示めす事が出来る。併し誰れでも大胆に其所へ足を踏み入れる者は一人も無い。

(「マンダヴィル東洋旅行記」 金子健二訳)

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ぞんざいな仕打ちの報い

2014年03月18日 | 瓶詰の古本

   100円、200円の古本というのだからその扱いがぞんざいになるのは致し方ないが、ぞんざいどころか日増しに邪剣が募って行くのは、何の罪科のない古本にとってあまりな仕打ちではないかと、ふと我に返って愁然となる。
   満員電車でもあるまいに、顔をひしゃげてガラス戸棚の前面まで詰め込まれた古本なぞは、戸を開け閉めするたびにきまって表紙の裾を巻き込んで、今や完全に火に炙られ逆反りに丸まったするめさながらの媚態を呈している。それがつげ義春の「義男の青春 別離」(新潮文庫)であったりして、腹中に『必殺するめ固め』の漫画を収める本そのものが身をもってするめ夫の哀傷を見せつけている訳で、理不尽を甘受しつつ意表を突こうとする古本の隠忍ぶりに、心は大きくぐらつかされずにはいられない。
   これが小室直樹となると、30数冊のあらかたが古本の新書(と言うか、つまり新書版の古本)であり、細長く高層に積み上げるしか芸がない。下の方の本を取り出すとなると、一々取り崩し、放り投げ、また積み上げたりの繰り返しで、せっかくのカッパマークの斬新カバーは擦り切れ、ページは所々でめくれ上がって折れ曲がり、しわになって波を打ち、お茶の零れやせんべいの油染みが知らぬ間にそこいら中で斑らな日焼け跡となって遺って行く。
   古本に対するこうした無慈悲な仕打ちの報いだろうか、初めは筍ほどの身の丈もない古本の層は着々うず高く伸びて行き、やがて天空を摩す青竹の群れが竹林を渡る風に妖しくそよぐように、重畳限りない古本の群れは互いに呼んでは離れ離れては呼び合い、その根方で眠りにつく心魂を右へ左へおびやかし、夜毎夜毎に船酔いに似た夢魔を吹き降ろして来る。

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ソンナ探偵小説が書き度い(夢野久作)

2014年03月16日 | 瓶詰の古本

   素晴らしい探偵小説が書き度い。
   ピカピカ光る太陽の下を傲華な流線スターがスウーと横切る。その中に色眼鏡をかけて済まし返つて居るスゴイ様な丸髷美人の横顔が、ハツキリと網膜に焼付いたまゝ遠ざかる。アトからガソリンの臭ひと、たまらない屍臭とがゴツチヤになつてムウとするほど鼻を撲つ。
   ・・・・ハテナ・・・・今のは、お化粧をした死骸じや無かつたか知らん・・・・
   と思ふトタンに胸がドキンドキンとする。背中一面にゾーツと冷たくなる。ソンナ探偵小説が書き度い。

   美人を絞殺して空家の天井に吊して置く。
   その空屋の借手が無い為に、屍体が何時までも何時までも発見されないで居る。
   タマラなくなつた犯人が、素人探偵を装つて屍体を発見する。警察に報告して、驚く可き明察を以て自分の犯行の経路を発く。結局、何月何日の何時何分頃、何ホテルの第何号室に投宿する何某といふ男が真犯人だと警官に予告し、自分自身が其の名前で、その時刻に、その室に泊る。その一室で警官に猛烈な抵抗を試みた揚句、致命傷を受けて倒れる。万歳を三唱して死ぬ。ソンナ探偵小説が書き度い。

   或る殺人狂の極悪犯人が、或る名探偵の存在を恐れて是非とも殺して終はうとする。
   さうすると不思議にも、今まで恐怖といふ事を知らなかつた名探偵が、極度にその極悪犯人を恐れるらしく、秘術を盡して逃げ惑ふのを、犯人が又、それ以上の秘術を盡して逐ひまはる。とうとう大きな客船の上で、犯人が探偵を押へ付けて、相抱いて海に投ずる。
   二人の屍体を引上げて、色々と調べてみると、犯人は探偵の昔の恋人であつた美人が、変装したものであつた。‥‥と云つたやうな筋はどうであらうか。

   トロツキーが巴里郊外の或る小さな池の縁で釣糸を垂れてゐた。嘗て親友のレニンが、其池に投込んだと云ふロマノフ家の王冠を探る為めであつた。
   トロツキーは成功した。やがて池の底から金玉燦然たる王冠を釣上げてニコニコしてゐると、その背後の夕闇にノツソリと立寄つた者が在る。
『どうだい。釣れたかね。』
   トロツキーがビツクリして振返つてみると、それはレニンであつた。莫斯科の十字路で硝子箱入の屍蝋と化して居る筈の親友であつた。
   トロツキーは今些しで気絶する処であつた。王冠と、釣竿と、帽子と、木靴を残して一目散に逃失せてしまつた。
『ウワア――ツ。幽霊だア――ツ』
   レニンはニヤリと笑つてアトを見送つた。草の中から王冠を拾ひ上げて撫でまはした。
『アハハヽヽヽ俺が死んだ事を世界中に確認させるトリツクには随分苦心したものだ。しかし彼のトロツキーまでが俺の死を信じてゐやうとは思はなかつた。
   トロツキーは俺の筋書通りに動いて呉れた。彼奴にだけ此の王冠の事を話して置いたのだからな。……俺がアレだけの大革命を企てたのも、結局、此の王冠一つが欲しかつたからだとは誰も知るまい。況んや俺が革命前から、此の巴里で老舗の質屋をやつてゐる、妾を三人も置いて居る事なぞ誰が知つてゐやう。アツハツハツハツ。馬鹿な人類ども‥‥』
   と云つたやうな探偵小説が、日本では書けないだらうか。

(『書けない探偵小説』 夢野久作)

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大西巨人、無二の精神

2014年03月14日 | 瓶詰の古本

   未だかつて不死を体現した者はおらず、やがて死すべき時空を伴いつつ一人一人の人間が高いエネルギーを放出しているからこそ、人は尊厳や美しさを感受する幸せにあずかることができる。とりわけ小説家の放つ稀有のエネルギーは、小説作品という命の削り節として実体の力を持ち、圧倒するもののあることを知らしめ別世界への途を指し示してくれるのである。
   古ぼけてシミにまみれた「廣辭林」を強いて購い、「縮刷緑雨全集」に不相応な大枚を払い、読めもしない「田能村竹田全集」を手許に置くなぞ笑止なまねをしていたのも、すべて「神聖喜劇」にかぶれ切っていたからにほかならない。はじめは均一台で見かけたカッパ・ノベルスに足を取られて魂を捕られ、全編を読み進めながら本の中の本を求めて古本屋を巡り巡る。読む端から筋を忘れてしまう記憶力欠損者にして性惰弱であるが故に一層、超絶的記憶力の持ち主にして高古不屈の精神を具現する主人公の言動に恍惚として目眩む思いに溺れるばかりだった。
   ごく貧しい読書経験のなかで、「吾輩は猫である」、「ドグラ・マグラ」、「魔界転生」が、巻を措く能わずの滅法界な面白さ、有限の存在が持つべくして持たされているはずの根源への畏れ、およそ本を読む醍醐味のすべてを与えてくれる大傑作であると知ったが、「神聖喜劇」もまた(これらと相通じる部分があるかも知れない)無二の精神によって創造され、あるいはこれらを凌駕して魂の震えが止まらないほど面白い大傑作小説として文学の歴史に巨大な精神の印を遺した。

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豆(和田垣謙三)

2014年03月12日 | 瓶詰の古本

   経、史、文章何でも厶れと自負せる少壮漢学者某、嘗て二宮尊徳翁に会見し談論風発勢当るべからざるものあり。暫し黙々として其の大言壮語を傾聴せし尊徳翁、突然彼に問うて曰く、『貴殿は豆の字を知れりや。』彼は言下に懸腕直筆一大字を机上の紙片に書きぬ。翁はつらつら之を打眺め、『さても見事な御手蹟、併し貴殿は唯豆の字を知り、且つ之を立派に書き得るのみ。予は学浅くまた悪筆なれども、豆を作ることを心得居れり。豆のみにあらず、米でも、麦でも、大根でも、之を作ることに於て敢て人後に落ちぬ。文字のみでは国は富まぬ。空論空字、富国強兵の道に於て何かあらん。』意外なる不意打に、少壮気鋭の学者の鼻ポキリ!。

(「意外録」 和田垣謙三)

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影響という力の霧

2014年03月09日 | 瓶詰の古本

   心が凝集して自ら固有の軌道を描くものだとばかり思い込みたいのだが、本当のところは、心などはるかに踏み越えた、なにか漠として影響とでも表現するしかないモノの気の波及がそこにある。
   心の揺らぎにつけ込んで我に返る痛みの刺、有限の時間が研いで来た偶発の意識の針のことは、かつて海綿仕立ての壁に滲み出た文字が告げていたような気がする。起こり得る可能態に森厳な境界を区切る枠線が宇宙をたゆたっており、告げられた文字は枠線を突き抜け、宇宙の端点を折り返してやって来たものと思われる。あらゆる可能態をつき抜けてしまえば、天の下に何事も新しきことはなくなってしまう。しかし果たして、意識(無意識)はあらゆる可能態を閲し尽くせるものなのか。わずかに妄想できるのは、時間と空間をくるみ込んで働く影響というものがあるらしいことだ。
   一説によれば、触感できる突起を持たない力の集合であるそれが、自らを自らの対象と化して思惟する最初の跳躍を仕組み、言葉による思考を掘り起こし、賦与的な自我の意識と悲愁を契機として時間と空間を併せ詰めた重箱の蓋を開けたとされる。果てしなく極小でとりとめない自我の起こりから時間と空間の生成までの距たりは、集合の外へ無限に跳躍を続けたとしても測り取ることはできない。ただ、より上位の集合族への無限回の跳躍を可能にした影響という力の霧の中に、存在なるものの家郷があるとあいまいに予測されるだけとされている。

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自己の一隅に神秘の花を咲かせるものの(シモンズ)

2014年03月06日 | 瓶詰の古本

   思ふにラムボーの真相、古今独歩の文学を起す事の出来た理由、それから人知れず身まかつて東洋の口碑に跡を留める事の出来た理由は彼の精神が芸術家の精神で無く活動家の精神であつたと云ふ事だ。彼は夢想家であつた併し有ゆる彼の夢は発見であつた。あの母音の歌を書いたのもあの亜剌比亜人と象牙香料の貿易を営んだのも同一の性情の活動に基いてゐる。彼は生涯の瞬間瞬間に全能力を捧げて生きてゐた。而して彼の強味であつて同時に(事物の絶対性を軽んじたため)彼の弱味となつた或る自信力を以て彼は自己を自己に放擲したのだ。成功を冀ふ徒に対しまた成功に関する事柄に対し彼は自己の天才に圧倒せられる危険の実例を示してゐる、恰かも僧庵の聖者或は神性に充ちて世間に通じない神秘論者或は酔漢の杯を漏れ越す智慧の如く。万事に卓越した芸術家は自己のほんの一小部分を開拓するに過ぎない。彼は自己の一隅に神秘の花を咲かせるが花園の残る部分は刈り取られた草が茂つた叢である。この理由に基いて卓越した作家大多数の画家及び大部分の音楽家は自己の主眼とする問題以外の問題に対しては非常にまだるい。基督の血として葡萄酒の盛られた盃を神と崇めその盃を神の象徴であるが如く見做すのは、惚れ惚れする事であつて迷信と云つたよりは寧ろ敬虔の情ではあるまいか。単に芸術家としての芸術家は何時もある虚構に捕はれ自己の作り上げる作物のみを尊重して自己の智慧を拘束する。併し或る種の人物(例へば大小の別はあるにしてもシエクスピアーとラムボーと云つた様に)には作物そのものは何の意味も無い、創作の努力そのものが凡てだ。ラムボーの性質は狭隘頑固で危険性を含んでゐたが実際生存そのものを除いて他に何の意志も認められない。而して作詩にせよ放蕩にせよ遍歴にせよ商売にせよ何れも彼の生涯の異つた時間の呼吸に外ならない。

(「文學に於ける象徴派の人々」 サイモンズ原著 久保芳之助訳)

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文字の降って来るのを待っている

2014年03月04日 | 瓶詰の古本

   いつまでもじっと堪えて、腹の底から突然伸び切って天空を破る声のとどろきを待っている。待ってはいても、どこまでもだだっ広く横たわる精神の台地にはそよとの物音さえない。しじまの吐息すらなかった。時の果ての果てまで行き着いて、昇りも降ちも、滑りもこすりもしない。遠く空のひだを縫って竜巻が飛ぶ。地上を大きく持ち上げるその竜巻もまた、幻のように物音をたてぬまま飛んで行く。
   あるいはまた、暗くなる時が永劫訪れるとは思われぬ目を焼かんばかりの白日のまっただ中に、もしや置かれているのではないか。幾億万燭光の光を浴びて、何日も何日も巨大な盲魚の夢のなかで夢を見ている。窓のなかをのぞき込めばそこに必ず自分自身を目撃する奇異なる悪夢に取り込まれ、帰るべきところを探し続けている。
   宇宙の釣り合いから外れたところ、一個の無意図の糸の尖に立ち、算盤の端の端にもかからぬ数を数えるふりをして、文字の降って来るのを待っている。

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『明暗』の漱石(辰野隆)

2014年03月02日 | 瓶詰の古本

   久しぶりで、僕は『明暗』を読み直して、色彩に於いては以前の多くの小説よりも、うすめられてはゐるが、小説全体の味は頗る濃厚だと思つた。一体漱石の持味は枯淡とか、洒脱とかいふものだらうか。僕は漱石のものなら断簡零墨も殆ど読んで―― 或るものは再読熟読して―― 今もなほ多大の教へを受けてゐる。全く、漱石は、僕から観れば、文学的恩人の主なる人として―― 門下たるの幸福は竟に得られなかつたけれども―― 深く傾倒した文豪であつた。而も、漱石の作には、生れながらの野人たる僕にはあまりに濃すぎる味があつた。淀んだ水の上に浮いてる油がぎらぎらと日光に輝くやうなところが、―― もし僕が日本人なら、漱石はどうしても外国人だと思ひ込むほど―― 強烈であつた。素(もとよ)り、漱石は『節操の毅然たる』人格者であつたらう。『性情の正直なる』君子でもあり、正義の士でもあつたらう。然し、『胸懐の洒々落々たる・・・・・・悟道の老僧』の如き存在とは凡そ縁の遠い―― さういふものをも憧憬してゐたらうが―― 最もこつてりした人物であつたとしか考へられない。蓋し、則天去私は永遠に漱石の理想として遙かなる彼岸に霞んでゐたことであらう。

(「忘れ得ぬ人々」 辰野隆)

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