血色の人文字 (その二)
「紙魚に喰われちゃいないようだ。こりゃ、だけど、多分あんたの気にはいらないだろうが。ガリ版で刷った代物だ。きちんとしたところの本じゃないし、内容一切保証の限りにあらずって奴だな。いつ頃のものかも判らねえし、何のたれべえが書いたものかも一向皆目とんと不明と来てる。こんなペラペラしてたんじゃ、大して実のあることが書いてあるはずもなし。えらくくさすって。おっとこりゃいけねえ。商売人が売りものの与太言ってたら商売にならないか。たしかに。
「うん。お題目はあるようだ。『秘密文字隠現』か。窮屈な目次だな、これは。とげとげしい字で書いてあってさ。まるで神代文字の風情だな。なになに、霊覆滅の秘密文字か。それからこう行って、霊循環の秘密文字、霊兌換の秘密文字、霊傀儡の秘密文字、霊捺染の秘密文字と。まじない本に似てるけど、そうでもないらしいな。こうして眺めてみると、なかなか、この秘密文字ってのは奇抜なかっこうだな。一つ一つの秘密文字がみんな、影法師じみたおどりを踊っているよ。ふん、こりゃあれだな、本文はガリで刷って、秘密文字なるところだけ後から石印を押したか、手書きしたかしたらしいな。色がちがってるよ。そこだけまっ赤だ。あれ、文字のないのがあるね。ほれ、霊捺染のとか云うところがそうだろ。なんで空いてるんだか。こりゃ手抜きだな。うん、きっと入れ忘れちまったにちがいないや。売りものにはなんないね。え、一ヶ所くらい抜けてたってかまわない、買うんですか、こんな薄手でもいいのかい。まゆつばもんだよ。気がひけるね。小説なんかやろうという人は、さすがに変なものを欲しがるんだね。いや、別に笑ってる訳じゃないがね。
「だけどなんだね。考えてみれば文字ってものが自体悪魔じゃないかね。ええ、因縁話もないけどさ、わしらにしても、そりゃ若いときってのがあったさね。その若いときに魔がさしたんだか、本にいかれちまった。おかげで自分からこんな稼業にとび込んじまった。言ってみりゃ、本に使われてるようなもんだ。女房とか子供とか名の付く者もいたっけ。給料日の来るのをたのしみに待ってたときだってあったさ。だけど、それもこれも、みんな本と取っかえっこになくなしちまった。気が付いたら、この丸いすにすわってたって訳でさ。いけねえな。魂を売っちまったんだ、魂を。してみると、本って奴はまさしく悪魔かね。な、校正屋さん、あんたも文字がこわいと思ったときはないかい。急にはねあがったり、踊り出したりしやしないかい。
「ああ、こりゃすまんことで。すぐつつむけどさ。本当にこんなものを買うのかね。そりゃ、お代の方は勉強させてもらいますよ。あ、この雑誌もいっしょね。はい。えーと、輪ゴム、輪ゴムと。はい。どうも。」
戸を引くと、たちまち強い陽の光が店に射し込む。大きくあくびをひとつすると、老人ははげ頭をごしごしこすり上げ、ほっぺたをたたいて眠気を払った。それを待ちかまえていたように、背広姿の男が二人、老人に近付いた。
「まだ店は開けてないんだが。え、買いものじゃない。あ、警察のだんな方で。はいはい、なんでしょうか。盗品ですか、万引きのお調べですか。え、見憶えあるかって。あ、こりゃ、わしらのナイフだ。え、ええ、たしかにうちのナイフで。きのうの夕方頃から姿が見当たらねえんで、困ってやしたとこでして。しかたねえものだから、ものさしでねえ、紙を切ったものでえらく肩がこったっけが。どうしてこのナイフが。あ、そりゃうちの包み紙で。間違いありゃせん。へ、こんな安紙でくるむのは、うちくらいなもんだ。あ、いけねえ、こいついっしょくたにしてくるみ込んじまったんだな。
「え、は、はあ、この本で。この本は、きのう若い男の客に売ったばかしのものですが。な、なんかあったんで。ええ、東京の新聞社の者だってましたが。え、死んだ。夕べ。ナイフで。のどついて。そのナイフで。ほんとに。なんで又。これから調べなさる、そりゃそうでしょうとも。はあ、えらいことで、まあ。そういや、今考えると、なんか思い詰めた風があったねえ、すがるような。こんな半端本でも金出して買おうってな人だから、胸につっかえたものでもなんかあったんかなあ。ははあ、のどついた拍子に辺りに血がとび散ったんで。ひどいむごいもんだ。本まで汚れちまったんですか。どうせ、ガセ本ですからね。ああ、ここですか。もともと肝心の文字が抜けてたところで。成程、こりゃ、なんだか、まっ赤な影法師が踊ってるみたいですね。小刀の上に首をのっけて。丁度捺し染めしたようだ。うまい具合に。」
血色の人文字 (その一)
「ははあ、何か本をおさがしなすってるんで。」
かび臭いにおいが鼻をつく。四囲にうず高く積み上げられた古雑誌とか、古辞書とかが今にもくずれ落ちんばかりで、危うく平衡を保っている。書棚らしい書棚はない。狭苦しい店の中は、平積みにされた半端本で埋めつくされており、あるじらしいむさ苦しいなりをしたはげ頭の老人は、粗末な丸いすを店先に持ち出して、そこにすわっている。首から大きながま口をつる下げ、くだものナイフでもって黄緑色の大判紙を三段階ほどの大きさに切り分け、包装紙を作っていた。
「玄人の人には、面白おかしくもない本しか置いとかねえから。ええ、何ですと。シンピ?神秘主義の本。ああ、天主教のご本かね。あん。そうじゃないって。たたりとか、うん、悪魔、のろいとかだって。こりゃ又、随分おかしなものをさがしてなさるんだ。ほう、今時はやりになってるんですかい。おどろいたね。なにせ片田舎にいるもんだから、この御時世に置いてきぼり喰っちまうわ。はは。
「お客さんは、お見受けしたところまだお若いけど、学生さんじゃないだろ。うん、そうかい、新聞社の、東京の、それじゃ記者さんてのかい。え、ああ成程、校正の手伝いしてるのか。ああ、判りますよ。小むずかしいことやっていなさるんだ。校正さんがたたりかね。なんとも妙な取り合わせだが。これも、はやりのお陰かい。なに、違うんか。小説の勉強してるの。校正やって喰いつないで、いつか偉い文士さんになりたいと、こう云う訳か。ふーん、感心なもんだな。ええ、文士さんじゃない、小説家だって。文士と小説家とは同じじゃないのかい。わかった、わかった。そんな顔しなさんな。同じじゃないんだろ。
「このまちは初めてかね。ほう、休暇旅行で。結構なこった。わしらみたいになっちまうと、なんだい、もう外へも出歩かなくなっちまうんだよ。うん、そうだな、かれこれ三十年、このまちから外へ出たことないんだ。うそじゃねえよ。信じなさい。まいんち、ここでこうやって、店番さ。こんなことで喰って行けるかって。心配してくれてんのかよ。へへ。そりゃさ、お前さんのように、例えば立派なお仕事とは訳はちがうが、商いってものは、その道の呼吸ひとつなのさ。早いはなし、こんな田舎にだって、男もいれば女もいる。そこにあるだろ。今どきは奇体なエロ本が大っぴらに出回ってるから、アメちゃんの女の写真だとか、はだかをしばったり、たたいたりしている写真だとか、ちょくちょく買ってくれるおとくい様がいらっしゃるんだから。人ひとり生きて行くには困らんだけね。
「ああ、詰まんないことしゃべっちまった。なんだっけ。ああ、そうだ。そうそう、悪魔さんの本、悪魔さんの本。そんな本、うちにあったっけかな。昔出たので『猶太ハ悪魔ナリ』なんて本はあったな。戦争中のやつでな。ふん、そう云うのじゃない。不思議な出来事や、面妖なまじないの載ってるような本だって。はてな。」
老人は、店の中へ潜り込むようにして入って行くと、頭を横にかしげながら、古本の背文字を見て行く。滅多なことではたきをかけないから、ほこりがうっすら積もっている。黒い本は白粉をふいたようになる、白い本はすっかり黒ずんでしまう。
とこうするうち、老人は店の一番奥まったところまで行き着くと、乱雑に放り出された本の束をゴソゴソほぐして、中からうすっぺらな半紙の仮綴の冊子を取り出して来た。茶色に褪色している上に、ひどくいたんでいるらしい。店先で二度三度、パンパンとはたくと、頁をめくり中身を改める。