「風か。何となく人恋しいか。別に客恋しくはないが。」
古仙洞は独り言のようにつぶやいた。外を人が歩いている様子はない。戸を叩く人はいない。時に風が吹き、戸を揺らす。それだけだ。三人の男が戸の内側にあるいは立ち、あるいは座ってそれぞれに言葉を発している。こうしていると、まるで男が一人、夜の河原に立ちながら闇の深淵に向かって自分自身の脳髄の裏を投影し、それに見入っているような思いがして来るのだ。この世というものの中にたった一人でいて、何人何十人何百人の言葉を脳髄の裏に撥ね返し、それに聞き耳を立てているような気がして来るのだ。
「今頃まで開けてるのはうちぐらいなものか。儲けに繋がる訳でもないのにね。おれもつまりは商売人じゃないということか。」
「店をやってるくせに商売人じゃない奴はいくらでもいるよ。その逆だって同じくらいいくらでもいる。店先を出たり入ったりして客の相手をしているのは確かにおれだとして、店商いをする成行きに自分の意思などなんの関わりがあったんだろうか。気が付いたらそこにいたとしかほかに言いようがないのさ。心も体も成行きも借りもの。一つはすべてであり、だから、そのままの一つは、すべてのそのままのことなんだってね。」
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