宿に着くと、おかみさんは帳場に座って新聞を読んでいた。こちらの姿を見ると、すぐに新聞紙を畳むと立ち上がって迎えに出てきた。
「どうでした。あんまり静かなんで驚いたでしょう。あんなに素気ないものだとは思わなかったでしょう。」
「うん、静かと言うよりか何かぼんやりとした遠い記憶のようなものでした。夢の中で自分が眠っている自分自身を見ているときのような気分かな。」
「私らなんか地元の人間だから、それこそ小さい頃からの物心そのものかも知れませんね。夢どころではなくって。昔から周りに住み着いているものの顔のような感じで。いつでも想った時に、呼べば現われるもののような。
「グリム童話の中の『鉄のハンス』というのをご存知ないですか。呪いをかけられた魔人であり巨人である鉄のハンスはもともとは森の湖の底に寝ているんです。いったんは父王に捕えられはするものの、王子の悪戯を奇貨として城の牢屋を破って森に再び戻り、連れてきた王子を試したのちに独りで世の中へ追い放つ。そこで魔人は王子に向かって、何事かあったときにはこの森に来て私を呼べと言う。必ず助けてやると言う。そして、確かにその後、王子の声に呼ばれて湖の底から現われた鉄のハンスの力に依って、王子は大きな 勝利を勝ち取ることになるというお話なんです。」
おかみさんはそこで口をつぐむと、静かに笑った。
「勿論、王子はもとの城には戻らなかったんですよ。その勝利とともに娶った王女の国を継ぐことになった、で終わりだったと思います。」
「自分の王国を出ていったとき、初めて自分自身を見い出し得る旅を始めたということですか。」
「そんな教訓的な話じゃないと思いますよ。そりゃ昔話ではあるでしょうが。なんでも話自体が好きなんですから。面白いで読んでただけですよ。役に立つからって読むようなものじゃなし。ただ、いつでも呼べば現われる顔のようなものがこの世の中にはあるのかなあということだけです。」
「それと、明日帰りますので。」
「あ、はい。承知しました。」
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