美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

買った本(2009.06.28)

2009年06月29日 | 瓶詰の古本

   「世界金融経済の「支配者」 ― その七つの謎」(東谷暁 平成十九年)
   「孤独な散歩者の夢想」(ジャン、ジャック、ルソオ 青柳瑞穂訳 昭和二十三年)

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買った本(2009.06.27)

2009年06月28日 | 瓶詰の古本

   「新訂本邦地理講義」(喜田貞吉述 明治三十八年)
   「俳諧水滸伝」(遅月庵空阿作 藤岡作太郎校訂 明治四十一年)

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散文詩自註(詩人の死ぬや悲し)(萩原朔太郎)

2009年06月27日 | 瓶詰の古本

   詩人の死ぬや悲し   現実的な世俗の仕事は、すべて皆「能率」であり、実質の功利的価値によつて計算される。だが文学と芸術とは、本質的に能率の仕事ではない。それは功利上の目的性をもたないところの、真や美の価値によって批判される。故に芸術の仕事には、永久に「終局」といふものがないのである。そして詩人は、彼の魂の秘密を書き尽くした日に、いよいよ益々寂しくなり、いよいよ深く生の空虚を感ずるのである。著作! 名声! そんなものの勲章が、彼等にとつて何にならう。

(「散文詩自註(詩人の死ぬや悲し)」 萩原朔太郎)

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「アラビヤンナイト」解説(楠山正雄)

2009年06月26日 | 瓶詰の古本

   解説

   起源のこと
   幻奇瑰麗、東方文学の中に異彩を放つてゐるアラビヤ文学に就いて、その最も代表的なものを求めたならば、少くともその最も有名なものを求めたならば、それは回々教の経典たる「コーラン」ではない、却つて世界の一大奇書、説話文学の王と称せられる「アラビヤンナイト」である。(以下、略)     
   時代のこと
   (略)
   翻訳のこと
   「千一夜物語」をはじめて欧羅巴に紹介したのは、仏蘭西の東方学者アントワヌ・ガラン Antoine Galland である。ガランは大使ノワンテル侯爵 Marquis de Nointel に従ってコンスタンティノープル府に在り、その後二回まで東方に赴いてその間に十二巻の翻訳 Les mille et une nuits を完成した。実に一七〇四年から一七一七年の間の事業であって、文学史上永く特筆せらるべき事件であるのみならず、翻訳の出来栄も文学的に最もすぐれ、妙に原意を伝へてゐるといはれる。その後英仏の東方学者の手で引きつゞき各種の翻訳が試みられ、最近仏蘭西にはマルドリュス博士 Dr.Mardrus の全訳があり、英吉利には、ジョン・ペイン John Payne の全訳十巻、リチャード・バアトン Richard Burton の全訳十六巻が、今日その権威的全訳であるばかりでなく、ガランの原書以外、別に拮据して集成し得た補遺を加へて東方物語の集大成をなしてゐる。即ちペイン本に収めた物語三百五十三種、バアトン本に収めた四百二十四種、普通行はれる「アラビヤンナイト」に比べては殆ど倍量を示してゐる。
   本訳に用ひた原本は蘇格蘭の有名な古典学者アンドルウ・ラング Andrew Lang が、大体ガランの本に依つて、その中少年少女のため特に文芸的価値の秀でた物語四十余篇を撰んで一巻とした倫敦Longmans出版(一九〇七年)のものにより、杉谷代水が、新訳したものである。
   訳者杉谷代水については、すでに本百科文庫「学童日誌」の解説にしるしたからここに覆説しないが、この訳本一篇実に代水が絶筆であつて、代水死後半年大正四年秋はじめて出て、原・訳雙つながら明治以後の類書を圧し、爾来二十余年、今なほ唯一の代表的好訳として読まれてゐることを特記しておく。(楠山正雄)

(「アラビヤンナイトⅠ」 杉谷代水訳)

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東国原・宮崎県知事の発言をそのまんまに思うか

2009年06月25日 | 瓶詰の古本

   受け止める人が、発言者をどれだけ自分の目下に見るか、目上に見るか、その高下の按配次第で、「冗談」か「不遜」、はたまた「錯乱」と取るか、知事の思惑をめぐって、それこそ千々に乱れるというところである。何故あんな発言が起きたかだけが解くべき問題となって、発言の中身に取り合おうとする者は誰もいない。発言それ自体をまともに吟味する者は誰もいない。
   言葉は、語られたことを語られたように表現するものではないらしい。都知事が同じことを言ったら、どんな波紋が起きただろうか。まったく同じ言辞をもってして、まったく異なることが語られるということになるのだろう。
   言葉の存在にまつわる不思議は不思議として、心を語る、あるいはひょっとして志を語ることはどんな人間であれ許されるはずだと思いたいが、それは笑止としてしか扱われない時代に我々は居るのかも知れない。


   彼等が夕べに炉辺に坐ると、彼等は皆な私のことを談じ合ふ ― 彼等は私のことを談じる、しかし何人も私のことを ― 思はない!
(「ツァラトゥストラー」 ニーチェ 登張竹風訳)

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魚の夢の中で

2009年06月24日 | 瓶詰の古本

   おれは暗い海の底に沈んでいた。そこは条理の蟠るところではない。静まり返った海に棲む魚がおれという男を夢に見ている。白い壁、窓の外の小さな嵐、そして、おれの存念、みんなこの魚が見ているおぼろな夢に過ぎない。それはまことに小さな魚で、目玉は退化していて、ほとんど痕跡をとどめていない。時々所在なげに口を開け、自分よりさらに小さな魚どもを呑み込みはするものの、不気味な夢の途切れることはない。
   おれらの祖先が夢に出会った数え切れぬ珍奇なできごとの一つ一つを、この魚は知っている。笑いもせず、泣きもせず、ただ夢だけを永劫にわたり見続ける魚は、時を外れて生き続けるが、夢の中に現われるおれは、生まれ、そして死んで行く。悪夢になり得ようもないおれは、よみがえりによみがえりを重ねることもできず、たかだかありもしない目玉をよぎる影となって消えるのだろうか。
   おれの言葉には霊などある訳がないが、しかし、もしこの世の中に生起するできごとのことごとくが魚の夢であるとするならば、おれの意識はどこかで魚の意識へ繋がっていると言えぬこともない。おれの意識が逆流して魚の意識にたどり着くかも知れない。
   死を念じたからといって、おれがただちに姿をかき消すことはできない。おれが永生を念じたとしても、それは実現しないことだ。いずれにしろ、魚がおれを夢見ているということについて、おれは否定することができない。なぜなら、おれは小さな魚を夢の中にはっきりと見ることができるからだ。永遠に光を容れない目玉を瞑らせた魚の貌を、おれはありありと夢見ることがあるからだ。

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太宰治百歳

2009年06月23日 | 瓶詰の古本

   夢想家。
   そのやうな、私のやうな人間は、夢想家と呼ばれ、あまいだらしない種族のものとして多くの人の嘲笑と軽蔑の的にされるやうであるが、その笑つてゐるひとに、しかし、笑つてゐるそのお前も、私にとつては夢と同じさ、と言つたら、そのひとは、どんな顔をするであらうか。
   私は、一日八時間づつ眠つて夢の中で成長し、老いて来たのだ。つまり私は、所謂この世の現実で無い、別の世界の現実の中でも育つて来た男なのである。
   私にはこの世の中の、どこにもゐない親友がゐる。しかもその親友は生きてゐる。また私には、この世のどこにもゐない妻がゐる。しかもその妻は、言葉も肉体も持つて、生きてゐる。

(「フオス・フオレツセンス」 太宰治)

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「長楽夜話アラビヤンナイト」序言

2009年06月22日 | 瓶詰の古本

                 序

アラビアンナイトは支那に於ける西遊記と相俟つて世界奇書の双璧也
巻収の記事一として神奇怪幻を極めざるなく片言隻語と雖も興趣横溢たらざるなし
之を譬ふるに西遊記の神秘幽玄なるはヒマラア山の如く之に対する本書の多趣多様なるはアルプスにも比し得べし
本書アラビアの原本には女主人公なる宰相の娘が千一夜に渉り王に語り聞かせる奇譚珍話を聚めたりと伝へらる
包括聚成の大は恰かもアルプスが群巒集峰の上に立つが如し
然れども山は唯だ高き故を以て名山たりとは称し難く其名を恣にするの資格は他に多くの要素あり山様の奇趣なる草木の異観なる気象の万千なる山姿の神秘なるその条件は複雑なり
況はんやエレベスト、アルプスの如き雄峻なるものに於てをや
本書が古今独歩の快味を有するはその実質に於て恰かも名山の有する如き資格を具備すればなり
輙ち本書の年代及び起源の古くして沿革の曖昧なるその構成に於て亜剌比亜のみならず波斯、印度、埃及、希臘等に於ける昔譚を引用せる且つ本書の累代幾多の文士により改作されたる如き本書が文壇の一隅に優越の地歩を擅有せるも偶然にあらず亦た名所の世に名を恣にせるには常に紹介者あるが如く本書も亦た紀元千七百四年仏人ガランドの翻訳刊行さるゝ迄は毫も世に聞へざりしが同人の翻訳一度び顕はれてより世人はその内容の怪奇なるに魅せられたり(以下、略)
   
訳者識

(「長楽夜話アラビヤンナイト」 矢野運美訳)

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買った本(2009.06.20)

2009年06月21日 | 瓶詰の古本

   「ミル自由論」(富田義介 小倉兼秋訳注 昭和二十四年)

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プリンセス・トヨトミ

2009年06月20日 | 瓶詰の古本

   誰が言ったか知らないが、会計検査院は批判官庁だそうだ。人を批判するには批判するに足る資格が必要だろうか。例えば、清く正しく美しいとか。しかし、人倫世間を見回したら、そんな人間をそのまま信用することができないのは明白である。頭の上がらぬありがたい親は言葉でそう教えてくれたし、人を裏切り人に裏切られ、しかも人を恨まず生きてきた一事からして、清廉潔白の身柄を以って他者に対する批判の正統性を付与するわけには行かない。
   言うまでもなくむしろ、装われた正論の清潔さとはとりわけ真っ向から対峙する心根でなければ、正直者の他者を批判し、立派に適正と認定されもし、実際に交付され使い果たされもした公金を、いまさらに返還させるだけの衝迫力は生まれてこないのである。

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買った本(2009.06.19)

2009年06月20日 | 瓶詰の古本

   「プリンセス・トヨトミ」(万城目学 平成二十一年)

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「詳解漢和大字典」余白に記された文字

2009年06月19日 | 瓶詰の古本

   「大正十二年九月十五日 新調」

    「此月一日未曾有の大震災あり。帝都、実に一朝にして焦土に帰し、家屋の倒潰、市民の死傷幾万なるを知らず。酸鼻と云ふも凄惨といふも猶ほ言葉足らざるなり。之を形容すべき一大文字或ひは此字典の中に深く埋もれてあるやも知れず。今より単身此文字の大宝庫に入りて、探求せんとす。一言記して之が辞となすと云ふ。 
大正十二年九月十五日 於中渋谷寓居」
 
   「詳解漢和大字典」見返しの裏余白に以前の持主が記したままを書き写してはみたものの、震災の惨禍を伝える言葉をこのとき字書に求めるという心性の有り様に、ゆるゆると肯けない気持ちが湧いてくるのはどうしてだろうか。

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買った本(2009.06.17)

2009年06月18日 | 瓶詰の古本

   「なぜ日本経済は殺されたか」(吉川元忠 リチャード・A・ヴェルナー 平成十五年)

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雲井龍雄鳥海山を愚弄す(鈴木光次郎)

2009年06月16日 | 瓶詰の古本

雲井龍雄徴士として集議院に来るや教師某問うて曰く 「聞く羽後の鳥海山は極めて高峻なりと 汝其高さの幾許なるを知るか」 龍雄答へて曰く 「一間半もあらんか」 教師赫然怒て之を詰る 龍雄従容として曰く 「我が家常に庭前に二間許りの物干竿を横ふ 之を地上に立て竿頭を鳥海山に比すれば高きこと殆んど半間故に云爾のみ

(「明治豪傑譚」 鈴木光次郎編)

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買った本(2009.06.14)

2009年06月15日 | 瓶詰の古本

   「妖異金瓶梅」(山田風太郎 昭和三十年)

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