橋のまはりの池の中には、瓦斯燈の燈を受けて白や紅の蓮の花が青絹を地にして咲いてゐるのが見える。遠くの暗い水の中には附近の人家の燈火が錦のだんだらを織つてゐる。其の蓮の花も池の水も、これまでに鼎の見た花でも水でもなかつた。それは気品と云ふよりは神秘の影の縹渺としてゐるものであつた。
「此処よ」
二人は電燈のほつかりと点いたこぎれいな家の前に来てゐた。鼎は辯天堂の傍に一軒の料理屋があることは知つてゐるが、さうした家は知らないので不審した。
「入りませう」
女が入つて往くので鼎も其のまま入つた。二人の小女が出て来て一行を右の方の室へ案内した。其処は六畳ばかりの奥まつた室で、紅い燈が静に点いて、室の真中に食卓をおき、正面の平床には淡彩のある画の軸をかけ、下の花瓶に女郎花のやうな花を活けてあるのが見られた。
「お坐りなさいよ、私も坐りますわ」
鼎は白昼飲んだ酒の醉が出たやうでぼうとなつてゐた。其の鼎の眼に小女の酒や肴を運んで来るのが見えた。
「さあ、お酌いたしませう、おあがりなさいよ」
鼎は云はれるままに酒を飲んだ。女の白い顔は近くにあつたり遠くにあつたりした。
「踊りませう」
女はほつそりした白い姿が蓮の花の動くやうに見える時があつた。
「あなたは、さつき私の可愛がつてる子供の面倒を見てくださつたわ、ね、私はそれが嬉しいので、あなたにお礼にあがりましたわ、でも、これがお眼にかかる最後ですわ、あなたは、私と別れたなら、何の汽車でも好いから、すぐ其の汽車に乗つて旅に出てくださいね、忘れてはいけないのですよ、すぐですよ、そして、一月か二月の後には、私の変つた姿をお眼にかけますわ」
女と話してゐた鼎は何かの拍子に驚いて眼をさました。そして、鼎は驚いた。彼は朝の上野駅の待合室に腰をかけてゐた。鼎は其のとき私と別れたら何の汽車でも好いから、すぐそれに乗つて旅に出てくれと云つた女の詞をはつきりと浮べた。と、急に旅行がしてみたくなつたので、其の時発車しようとしてゐる青森行の汽車に乗つて、水戸の友人の許へ往つた。
其の日は九月一日の大地震の日であつた。鼎は清島町の住居を心配したが、どうすることもできないので、瀧野川にゐる友人の許へ手紙を出して置くと、一箇月目に返事があつて、其の家が地震に潰れた上に焼けたことや、婆やは田舎へ帰つたと云ふことを書き、同時に仕事のあることも書いてあつたので、十月になつて東京へ帰り、ひとまづ友人の許に落ちついて焼跡を彼方此方と見て歩いた。まづ不忍池畔へ往つたところで、彼の鳥屋が焼け残つてゐるので、ちよと寄つて挨拶をしようと思つて、辯天堂の入口になつた石橋の傍まで往つたところで、ふと、地震の前夜のことを思ひだして、解けない謎を解かうとした。と、橋の左側の水の中がむくむくと動いて、鯉であらう三四匹の魚が浮いて来たが、其の魚といつしよに白い人間の腕のやうな物がひらひらと見えて来た。それは大きな白蓮の花弁の一つであつた。地震の翌日の火事の火に蓮の花の皆散つてしまつた不忍池に、其の時蓮の花弁のあるのは不思議であつた。鼎はふと謎の女の私の変つた姿をお目にかけますと云つた詞を思ひだした。見ると其の花弁の一方は、藍色の山女のやうな魚がくはへてゐた。
(『蟲採り』 田中貢太郎)