(略)
また神社の門に、束帯せる武官の二像を安置したのがある、世人は之を随身とも矢大臣左大臣とも呼んで居る、矢大臣は右大臣の訛りか、いづれにしても其何の意味かは、知る人も少なからうと思ふ。
黒川春村氏の説に、『諸社の瓊門(けいもん)に安置せる兵仗の二像を、近俗随身といひ、或は又看督長(かどのをさ)とも、櫛石窓(くしいはまど)、豊石窓(とよいはまど)の両神とも称するは、いづれも拠(よりどころ)なき附会なり、随身といふは随身兵仗の束帯したると装束の同じければ、随身といひなしたる也、又看督長といふは、門の長に附会せしなるべし、看督長は検非違使の下司にして(今の警察官吏の如きもの)御門を守る義にはあらず、櫛石窓等の説は、神代に天照大神の殿門を此のニ神に守衛せしめたまへることのあるによりて牽合せしなり、此の像は更に左様の神像にあらず、按ずるにこれは大伴・佐伯二氏の像なるべし、中古までも朝廷の大儀ある時は、殿門の左は大伴、右は佐伯、此の両氏門部(かどべ)を率るて、胡床に坐して侍候すること、弘仁の内裏式、貞観の儀式等に見えたり(此の両氏の門を守る所以は姓氏録左京神別大伴宿禰の條に詳なり)此の両氏の古儀に準じて、諸社の瓊門にも安置しそめし物なるべし、されば此の二像は、御門守(みかどもり)と称すべきものにて、随身・看督長などといふまじき事なり、さて此の像の装束は、すべて束帯なれど、古代の製(つくり)は小袴やうのものを著用せしものありて、それをば阿良婆々伎(あらはばき)といふなり、藁脛巾(わらはばき)の義なるべし、脛巾(はばき)は中古朝廷の御門の衛士が著用のものにて、あれは、アラハヾキといふ名のあるも、御門神の像なるによりてなり』とある、大方かやうの遺風であらう。
(「読史の趣味」 萩野由之)
友と交(まじは)る場合に、口先ばかり巧にして、相手のために骨折るやうなことを言つたり、果せさうもない事を無造作に約束したりして、一向に実行の伴はない者がある。これでは、一時相手の人を喜ばせることがあつても、やがて来る失望のために、却つて大なる怨を受けることになる。だから、禮記の表記の篇の中にも、
『口恵(くちけい・口で恩恵を施す)にして、実(実行)至らざるときは、怨葘(えんし・怨の葘(わざはひ)、単に怨の意)其身に及ぶ。是故に君子は其の諾責(承諾して実行せぬ責)有らんよりは、寧ろ已怨(いゑん・始めより承諾せずして怨まれること)有れ』
といふ孔子の語が見えてゐる。これは、人に向つて一時の嬉しがらせばかり言つてゐる者は、屹度人の怨が自分の上にも及んで来るから、其処で、君子は承諾して果さずに責められるよりは、寧ろ始めから承諾せずに怨まれる方がよいとするのである。
自分に成算が無かつたなら、初から承諾しなければよいのであるが、とかく不承諾の意を表しかねるために、つひ承諾して終つて自らも悔い、やがて相手に失望させるといふやうなことは、意志の弱い人にはよく有りがちのことである。こんなことから人の怨を招いて、親しい間も疎々(うとうと)しくなつて終ふなどは、まことに馬鹿げたことである。けれども、中にはそれと全く違つて、責任を重んずる念のないために、その場限りの恩を売つて、大抵のことは承諾して終ふものがある。これは、初から実行する意志がないのであるから、悪むべき不信の所為(しわざ)であるが、こんな人は遠からずして周囲の人から葬られて終ふ。
詩経の国風、氓(ばう)の篇に、
『言笑(げんせう・語つたり笑つたり)晏晏(あんあん・和いで柔(やさし)しき貌)たり。信誓(しんせい・信実(まこと)をもつて誓ふこと)且且(たんたん・明白なること)たり。其反せんことを思はず。反せんことを是れ思はず。亦已んぬるかな』
とあつて、彼は初め自分と言笑することもの和(やはら)かにして、信実をもつて誓つたこと明白(あきらか)であるけれども、今は前(さき)の誓を覆して果さうとしないのであるから、自分が如何に悔いても仕方がないとの意を述べてゐるが、これは即ち言(ことば)を実行しなかつた怨を歌つたものである。人の怨は力強いものであるから、自ら不信の所為によつて怨を招くやうなことがあつてはならない。
『信実なる朋友は上帝の真像なり』
とは、ナポレオンの言であるが、朋友の交際は飽くまで信によつて成り立たなければならぬから、常に言責を重んじて不信の罪に陥らぬやうにすべきである。
絵にかきし餅は食はれず世の中は
誠でなけりや間には合はれず。
(「四書・五経 経書物語」 小林花眠)
「日本型資本主義と市場主義の衝突」(ロナルド・ドーア 藤井眞人訳 平成十四年)
「太平洋戦争、七つの謎」(保坂正康 平成二十一年)
「バイト君 ⑩」(いしいひさいち 平成二十一年)
◯富貴の家に生れて、道に志なければ、人にあはれみなく、物に情なく、萬の理しらず、をこたりて書をよまず、よき道を学ばずして、知恵ひらけず、人の道しるべきやうなし。財多く勢ありて、善を行ふにちからあれども、善をこのまざれば行はず。是貧賎にして、道をこのむ人におとれり。もし、智ありて、幸にして富貴に生れたる人は、善をこのみて、ひろく人をすくひたすけば、富貴なるかひありて、甚楽しむべし。
(「文訓」 貝原益軒)
言葉は言葉によって報仇される。恭敬に過ぎる言葉は、虚しいというよりも怖ろしい。いかに美しい誠心を醸し出そうと試みても、ありのままの心底が滲み出してしまう言葉は怖ろしい。その言葉に酔い続ける心性は、もっと怖ろしい。
予幼時、唐詩選・三体詩を愛読し、且つ好みて五七言絶句を作り、推敲苦吟、夜夜夜分に達せり。先君子之を戒めて曰く、凡そ物本末あり、事先後あり。抑も四子六経は義理の府にして、文章の宗なり。学者先づ沈潜講究せざるべからず。汝この根本の経学を専攻せず、徒に枝葉の詩賦に耽る、乃ち不可なることなからんやと。且つ曰く、経学を講究せんには、先づ字義訓詁に通ぜざるべからず。字義訓詁に通ぜずんば、縦令万巻の書を読むとも、雲煙過眼と何ぞ撰ばんとて、狩谷棭齋が「文字の関まだ越えやらぬ旅人は道の奥をばいかで知るべき」といふ詠説文歌を朗唱し、諄諄として予が為めに学問の方針を指示せらる。予不敏なりと雖も、深く庭訓の旨を服膺し、爾来精を小学訓詁に専らにし、爾雅・説文に関する書は、殆ど渉猟せざるなく、以て経学研鑽の資となし、兼て学徒に授くるに及びても、終始この庭訓を遵守し、頗る成績の見るべき者ありき。然るに教学の制度、改まりてより、学科多岐多端にして、学者力を漢文学に専らにすること能はず、読書の力、年年に減退して、経学明かならず、人人貨利に汲汲として、礼儀廉恥の四維漸く将に解弛せんとす。加之徒に西欧物質的文化に眩惑して、東洋精神的文明の精華たる漢字漢文を蔑視するの結果は、修辞の法を閑却して、文章日日に蕪穢に陥り、藝文漸く地を掃はんとす。予深く之を慨き、曩に故事成語大辞典を著し、以て作文修辞の一助となせり。爾時おもへらく、天下の読書子をして徧く字義訓詁に通ぜしめんには、別に正確にして且つ解し易き字典の刊行なかるべからずと。乃ち自ら揣らず、その編述に従事し、研精覃思、夙夜拮据、十数年の久しきに弥ると雖も、当時職を茗黌に奉ぜしを以て、功程意の如く進まず、日暮れ道遠しの歎に堪へず、若し夫れ速成を期せんが為めに、他人の援助を藉らんか、杜撰鹵莽の譏を招かんことを恐る。左思右想、憂心忡忡として、明発まで寝ねられず。忽ち翻然として以為へらく、公務の余暇を以て、かかる至難の大事業を完成せんとするは、責任を重んずる者の為すべき所にあらず、吁吾過てり、吁吾過てりと。乃ち大正三年春首、断然公私一切の羈絆を脱却し、門を杜ぢ客を謝し、全幅の精力をこの書の属稿と校正とに竭尽し、前後二十有余年を経て、漸く茲に之を完成するを得たり。嗚呼先君子の墓木已に拱なり矣、就きて之を質すに由なし。幸に博雅の士の高批を得て、洗煉潤色の功を積まば、希くは徧く之を当世に流伝せしめて、以て東洋の文化を裨補し、且つ之を後昆に伝へて、長へに漢文学の研究に資することを得ん歟。
大正十二年三月 簡野道明識
(「字源」 簡野道明)
と言うか、不遜な想いをいつまでも腹の底に蟠まらせながら、何事かを尊いと慕う気持ちを失くしたくない。今時からしてみれば、そんな不気味な面貌を保ち続けたい。たとえ、奇矯な心性に成り下がったと、後指さされる落ちになっても、それはそれで一向にかまわないではないか。
書経の中に、説命(えつめい・三篇より成る)といふ篇がある。これは殷の高宗がその臣の傅説(ふえつ)に命じて善言を進めさせ、自ら傅説と共に治道のこと、学のことなどを論じたものである。
はじめ高宗はその父小乙の喪に遭つて、三年間といふもの政事も聞かずに愼んでゐたが、やがて三年の喪が明けて終(しま)つても、なほ朝(てう)に出て政を聴かうとしなかつた。
それは説命の中に、
『恭黙して道を思ふ』
と記されてある通り、無闇な言は発せられぬので、つヽしみ黙(もだ)して、如何(どう)したものであらうかと、一心に道を思つてゐたからであつた。すると、高宗の至誠が天に通じたものか、或夜のこと、夢の中に、上帝が一人の賢人を授け賜はつたと見たのであつた。其処で高宗は夢の中の賢人を髣髴(ありあり)と想ひ起し、その象(かたち)を畫いて徧(あまね)く天下に尋ね求めさせたのである。時に説(えつ)は傅巌(ふがん・虞(ぐ)と虢(かく)との間)の野にゐたが、その形貌(かたち)が高宗の夢の中の人と酷似(そつくり)であつたから、すぐに挙げ用ゐられて王の左右に侍ることヽなつたのでた(ママ)。
さて、其説命の中に、傅説が王に進めた善言の光あるものを尋ねて見よう。
傅説はまづ、天道に則つて民を治めることの要を説いて、
『善を慮つて以て動く。動くこと惟(こ)れ厥(その)時をす』
と云つてゐる。この意は、善いことを慮つて事をするにも、時が一番大切である。時は中を得なければならぬもので、遅くても可かぬし早くても可(い)かぬ。即ち道理に当たると共に、時の宜しきに合ふことが肝腎であるといふのである。
それから続いて説く所を見ると、
『其善を有すれば、厥(その)善を喪ひ、其能に矜(ほこ)れば、厥功を喪ふ』
とある。これは物に誇ることを戒めた言(ことば)で、自らその善を有つてゐても、これをたのむ心があれば、心に怠つて勉めないから、その善を失つて終ふことになるし、また其能が有つても、それを矜る心があれば、人が自分を助けないから、その成功を喪ふことになるといふのである。
或人の歌に、
束の間も油断をするな一ときが
千里のちがひとなると思ひて。
とあるのも同じこヽろで、人は一寸順境に向ふと、すぐに慢心を生じ易いから、それが因(もと)となつて思はぬ悲境に沈淪することヽもなるのである。
瀧登る鯉の心は張弓の
ゆるめば落つるもとの河瀬に。
ほんの一寸の間隙(すき)ではあるけれども、一心籠めた気の張が緩めば、はつと思ふ間に忽ち遙かの瀧壺に打ち墜(おと)されて終ふ。
物に誇る心が、事を敗(やぶ)る基であるといふ傅説(ふえつ)の語は、実に萬古不滅の嘉言(かげん)であると云つてよい。
(「四書・五経 経書物語」小林花眠)
凡べて事には功有るに似たれども而も功無きこと有り。弊有るに似たれども而も弊無きこと有り。況んや数年を経て效を見るの事に於いては、宜しく先づ其の終始を熟図して而る後に做し起すべし。然らずんば、功必ず完からず、或は中廃して、償ふ可からざるに至らむ。(佐藤一齋 言志晩録)
【解釈】全体、世の中の事には、一寸考へては、功益あるやうであるけれども、併しながら結局は功益ない事があり、又一寸考へては、弊害あるやうであつても、併しながら結局は弊害ない事がある。それゆゑに、況して数年を経てから効果を見るやうな事について、よく事をなす前に、その始から終までの事をよくよく考へて、その後に為し始めるが宜しい。さうしないならば、事の効果が必ず十分でなく、或は中途に廃止して、償ふことが出来ないやうになるであらう。
(「最新研究漢文解釈法」 佐藤正範)
著者自ら揣らず、漢和の一大辞書を編纂せんと志ししは、実に明治三十五年に在り。当時は身教職を奉じ、専ら之に従事すること能はざりき。且此の業の至難なる、到底短年月の間に成就し得べきものに非ざるを覚知し、『有志者事竟成』の古言を味ひ、倦まず撓まず、其の歩武を進め、以て大成を他日に期せり。然るに明治三十九年五月、書肆郁文舎より『漢和大辞林』発行せられたり。此の書は時代の要求に適し、頗ぶる世の歓迎を受けたれども、尚不備の点少からざるを以て、翌四十年十月、郁文舎は著者に嘱するに其の訂正増補を以てせり。著者知己の感に堪へず、乃ち之を諾し、其の数年間蒐集せし材料の一部を提供し、鋭意之に従ふこと三年、四十三年一月に至り、遂に其の業を卒へ、以て同書の面目を一新するを得たり。此れ即ち現在の『増補訂正漢和大辞林』なりとす。此の増訂版は、幸に満天下の好評を博し、其の需要の夥多なる、真に出版界希有の観を呈するに至れり。著者是に於てか益々以て多年従事し来りし漢和大辞書の完成が最も切要なるを信じ、且一意専心之を力むるに非ざれば、到底其の大成を見ること能はざるを感ぜり。四十三年九月、断然教職を辞し、爾来一身を此の業に捧げ、夙夜盡瘁、復た其の他を知らず、以て今日に至り、漸く其の完成を告ぐるを得たり。著者の本書編纂上の経歴、略々此の如し。若し夫れ其の内容及び体制の要項は、一一載せて凡例に在り。故に茲に贅せず。
抑々本書は正確と整頓とを旨とし、殊に最も其の該博を期したるを以て、之に使用せる仮名活字は、総べて一種特別のものを新鋳し、各頁を四段となして、以て内容の充実を図り、且之を通覧するに便ならしめたり。而かも其の紙数は、本文のみにて実に二千四百七十頁の多きに達し、之を彼の『増補訂正漢和大辞林』に比するに、其の量正に之に倍するを見るなり。而して彼是各々特色を有し、其の実質体制亦自ら異なるものあり。故に此の二書は両つながら存して相戻らず、寧ろ竝び行はれて益々裨補するものたるを信ずるなり。
嗚呼著者が本書編纂に従事せしより前後十一年、今や之を世に公にすることを得て、宿昔の志聊か酬ゆる所あるを喜ぶ。然りと雖ども、学海は森茫として際涯なく、時勢の進運は実に駸駸乎たり。著者は今後益々奮励努力して、只管本書の改善を図り、版を重ぬる毎に、之が訂正増補を怠らざるべし。大方の諸君子、幸に此の意を諒とし、垂教の労を吝むこと勿れ。
大正三年十一月青島陥落後一日
東京に於て
著者 芳賀剛太郎識
(「漢和大辞書」 芳賀剛太郎)
余自ら揣らず、漢和辞典類の著述に従事すること茲に三十余年、曩に漢和大辞林、漢和大辞書、及 芳賀自習漢和辞典等を増訂編著して、之を世に公にせしが、幸に何れも満天下の好評を博し、版を重ぬること百数十版より、多きは六百二十余版に達せり。此れ余の最も光栄とする所にして、又深く責任を感ずる所なりとす。
回顧すれば、大正十二年九月、関東の大震大火に遭ひ、右の増補訂正漢和大辞林、並に同縮刷本、漢和大辞書、並に同縮刷本の紙型原版は、一朝にして悉く烏有に帰し、爾来絶版の已むなきに至れり。而して時勢の推移、文化の発達は、驚くべきものあり。余が現時代に適応すべき良辞典を更に世に提供せんとするの志、極めて切ならざるを得ざるもの、亦当然の事と謂はざるべからず。
乃ち全然新に、一般人士の座右の伴侶たるべく、又中等教育界生徒の参考用たるべき漢和辞典の編著に従事し、拮据多年、茲に漸く其の完成を告げ、今や将に之を世に公にせんとす。敢て自ら題して、『芳賀漢和新大辞典』と曰ふ。本文二千四百五十ニ頁に達すと雖も、一行の冗漫なからんことを力め、而して字画は最も厳密を期し、従来活字の往往陥り易き粗笨雑駁を矯正し統一して、多くの模範活字を新鋳し、以て其の標準を示せり。又、解字・注意・附言・同訓異義、其の他の條を設けて、各其の特色を明かにし、尚挿図に依つて説明の完全を資け、本字排列の順序を新にして、以て抽出に便にしたり。其の他の要項は、一一載せて凡例に在り。故に茲に贅せず。
若し夫れ更に浩瀚なる一大字典は、其完成を他日に期して、世に公にすることとなし、此容量の辞典としては、竊に自ら衆美を鍾め、最善を盡さんことを図れり。然りと雖も、尚不備の点なきを保し難く、而して文運の進歩は、駸駸乎として須臾も休止なし。余は向後只管本書の改善を図り、版を重ぬる毎に、之が訂正増補を怠らざるべし。大方の諸君子、幸に此の意を諒とし、垂教の労を吝むこと勿れ。此れ翅に余の幸のみならざるなり。
本書の成るや、鹽谷博士、馬上教授は、特に序文を恵まる。茲に記して謝意を表す。
昭和七年二月十五日
著者 芳賀剛太郎識
(「芳賀漢和新大辞典」 芳賀剛太郎)
かつて若い日に包み込んで来たつかみ所のない、あのさびしみではない。これまで過ぎて来た一日一日の一齣一齣が鉤爪になって魂を引っ掛け上げ、深い哀しみの池に浸すのだ。
虚像たる自分があらためて虚像として立ち現れ、本当の自分の貌をまざまざと見せつける。中途半端な輪廻の薄暗い入り口か、永劫回帰の重い非常扉の影、はたまた安酒場の片隅に放りっぱなしのまま、酔っぱらいの酒と涎を永遠にしみ込ませた壊れかけの木製テーブル、自分はそれらのうちのどれかだったとようやくにして了得したあとにやって来る哀しみ。過去を凝然と見つめては見つめ返される、この今現在のみが永遠に続くと思われる哀しみだ。
◯前田慶次
慶次の生涯は実に無苦庵の記の如く家宅も無く妻奴も置かす一身飄零、到処我家、諧噱、吻を衝て発す而して錦心繍腸、咳唾皆珠玉、時是れ慶長七年三月、春風暖を吹て梅笑ひ鶯歌ふ慶次は直江兼続、安田上総介等数人と共に東郊に散策して屋代郷に至り亀岡文殊堂に於て互に雅懐を伸ふ亀岡百首咏とて後世之を伝称す慶次の咏歌に
樵路躑躅
山柴の岩根の躑躅刈こめて
花をきこりの負ひかへる路
船過江
吹風に入江の小舟漕消へて
鐘の音のみ夕波の上
後、堂森の肝煎太郎兵衛の家に寓して終焉せり時に慶長十七年六月四日なり慶次の陣鼓今尚ほ其家に存すと云ふ慶次の墓は米沢堂森の善光寺に在りと云ひ或は北寺町の一華院に在りと云ひ未た詳ならす慶次博学通せさる所なし自ら韻書を作り佩嚢(どうらん)の如くに製し陣中腰を離さず其書、密字細行、殆と韻府一偶に倍す又史記の国字解を作り桃源抄と名く其精詳先儒の至らさる所を発明する者多し両つなから現に私立米沢中学校に存す其書する所の字皆片僻(かたひずみ)、清水天雷翁會て米沢藩校に在り桃源抄を模写して自ら筆意を得、故に翁の筆蹟は慶次の流亜なり又慶次着用の甲冑は今上杉家に存す実用を主として華美ならす而して雅致自ら其中に存す又以て其人と為りを想見すべし (原文:漢字カタカナ)
(「東北之偉人」 麻績斐)
『君子は豹変す』
といふ語がある。小人ならば善をもつて誘つても、中々善に遷(うつ)らないけれども、徳のある君子はよく善に遷つて、その面目を革(あらた)めることが、恰も豹の皮の如くに美しく、中心より変化するものであるといふのである。
つねに自分の見たり聞いたりすることでも、これは善い事であると思つたならば、自らその方に進んで行くやうにする。たとひ其間には邪魔があつたり、困難があつたりしようとも、既に自分の善いと信じた道なら、必ず困艱を排しても歩み続けなければならない。また縦(たと)ひ、これまで善いと信じた道でも、途中で誤であつたと気付いたなら、遠い道をも引き返して、更に新しき第一歩から出発しなければならない。
多くの人と交つたり、世間の事を見たり聞いたりする間には、多くの学ぶべきことや、多くの改むべきことが出て来るに相違ない。それを軽々しく看過さずに、絶えず善い事に学んで行けば、それが所謂豹変である。然るに世間には、自分ばかりを頑固に守つて、他の善い事を見聞しながら、中々遷らうともしない人がある。
或人の歌に、
よいことにちつとも後へ寄らぬゆゑ
吾にかちぬくつよい関取。
とある。善い事に後退(あとじさ)りをせずに、力を尽くしてずんずんと進んで行くならば、屹度遂には自分を完成させることが出来る。徒に小さな自己にばかり執着して、善事に進むことさへも躊躇してゐるならば、益々自分を偏狭にして終ふばかりである。
君子豹変といふ言は、よく世間の変節漢に利用せられることがある。たとひ自分の都合上から変節して、甲党から乙党へ転じたとしても、なほ『君子は豹変す』などヽ言つて、聖人の言(ことば)を自分の味方にしようとする。けれども、それは甚だ勝手な解釈で、結局自分の操守(みさを)なきを蔽はんとする愚策に過ぎない。聖賢の言が、そんな軽薄才子の御用を勤めさせられてはたまらない。
だから、孔子が説いた象(しやう)の辞にも、
『君子は豹変すとは、其文(ぶん)蔚(うつ=あやが美しいこと)たるなり』
とあつて、変節漢などの寄り付けさうもない辞(ことば)である。
(「四書・五経 経書物語」 小林花眠)