美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

ことの成り行きのなかには必然のみによって形づくられる軌跡もある(リットン)

2021年10月31日 | 瓶詰の古本

 アーベーセスはその時ぐつすり眠つてゐた。そして明方に不思議な夢を見た。その夢の中の骸骨の山の上に大きな女がゐた。アーベーセスは此女に会つて話をすると、それは彼の哲学の「自然」であつた。二人は問答をしてアーベーセスは甚く叱られる。そのうちに洞穴から強い風が吹いて来た。そしてアーベーセスを秋の嵐が木の葉を弄ぶやうに空へ吹き上げて、死人の幽霊のゐる群の仲へ彼を連れて行く。アーベーセスは反抗してみたが、駄目であつた。そのうちに風にだんだん形が出来て来て鷲の様な翼と爪のある物になつた。
「お前は誰だ」とアーベーセスが訊くと、
「私はお前の認めてゐる者だ」と其の化物は声高らかに笑つて「私の名前は必然だ」
「何処へ連れて行くのだ」
「未知の世界へ」
「幸福の国か。悲しみの国か」
「お前が播いた物をお前が刈り取るのだ」
「そんな事はない。若しお前が生命の支配者であるならば、私の罪悪はお前の物であつて、私のではない」
「私は唯神の息に過ぎない」と大風が答へた。
「さうだと私の智慧は空しかつた」とアーベーセスがうめいた。
「百姓は薊を播いて穀物を刈り取る事が出来ないといつて、運命を呪ふことをしない。お前は罪悪を播いた。そしてお前が其結果を受けるからといつて、運命を呪つては不可ない」

(「ポンペイ最後の日」 リツトン原著 大町桂月譯著)

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なにものの力も借りず全てをなげうち、ただ二人だけ互いの寄る辺となって生きようとする愛(夏目漱石)

2021年10月24日 | 瓶詰の古本

 世の中のなにものの力も借りず全てをなげうち、ただ二人だけ互いの寄る辺となって生きようとする愛があったとしたら、幾ばくかの読者は塵埃に埋もれる至純に心痛み、愛の成就を切なく願うだろう。

 

「御前は平生から能く分らない男だつた。夫でも、いつか分る時機が来るだらうと思つて今日迄交際つてゐた。然し今度と云ふ今度は、全く分らない人間だと、おれも諦めて仕舞つた。世の中に分らない人間程危険なものはない。何を為るんだか、何を考へてゐるんだか安心が出来ない。御前は夫が自分の勝手だから可からうが、御父さんやおれの、社会上の地位を思つて見ろ、御前だつて家族の名誉と云ふ観念を有つてるだらう」
 兄の言葉は、代助の耳を掠めて外へ零れた。彼はたゞ全身に苦痛を感じた。けれども兄の前に良心の鞭撻を蒙る程動揺してはゐなかつた。凡てを都合よく弁解して、世間的の兄から、今更同情を得ようと云ふ芝居気は固より起らなかつた。彼は彼の頭の中に、彼自身に正当な道を歩んだといふ自信があつた。彼は夫で満足であつた。その満足を理解して呉れるものは三千代丈であつた。三千代以外には、父も兄も社会も人間も悉く敵であつた。彼等は赫々たる炎火の裡に、二人を包んで焼き殺さうとしてゐる。代助は無言の儘、三千代と抱き合つて、此燄の風に早く己を焼き尽くすのを、此上もない本望とした。彼は兄には何の答もなかつた。重い頭を支へて石の様に動かなかつた。

(「それから」 夏目漱石)

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新世界へ渡ればそこにエルドラド王国がきっとある(吉田三男也)

2021年10月21日 | 瓶詰の古本

 コロンブスの発見した新世界の評判は大変なものであつた。何でもエルドラドといふ王国がある。国王が毎朝着物を着換へると、侍臣が金の粉を頭から振りかける。国王が身動きする度にピカピカ光る金の粉が飛ぶので、王は光に包まれて見える。この黄金王の宮殿は雪の様に白い大理石で築き上げてあつて、入口に二匹の獅子が番をして居る。この獅子にぶら下げた太い重い鎖が金である。宮殿の中にはいると噴水があるが、勢よく噴上るのは水でなくつて銀を溶かしたものである。銀の水が金の蛇口から噴上げたのに日光が輝く。入口がこの通りである。奥の有様は何といつてよいか分らぬ。銀の塊を山に積んだ大きな壇の上に、金の太陽が載せてある。あたりの柱や窓の金銀と輝き合つた有様は、天上の楽園にもありはしない。こんな黄金国が新世界の奥にあるといふ騒であつた。
 銀の噴水よりも珍しいのは不老泉である。黄金の山を積んでも買へないのは、人の寿命である。然るに新陸地には、こんもりと生茂つた森の奥に水晶を溶かした泉がある。底の真砂も数へられる様なこの清い泉に漬つて居ると、幾年月の艱難辛苦に深く深く刻んだ老の皺も跡なく延び、真白な髪も見る間につやつやと漆の黒さに染つてしまふ。黄金の欲しくない人もこの泉だけは諦められまい。
 かういふ耳驚かす話がそれからそれへと伝へられた。「全くださうだ。」「嘘ぢやないんだ。」から「確かにある。」「見て来た。」といふことになつてしまつて、幾百の冒険家は後から後から新世界へ押掛けた。

(「西洋歴史物語」 吉田三男也)

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一度捨てて後からまた買い直した本

2021年10月17日 | 瓶詰の古本

 迂闊な即断が過ぎるから、わずかな隙間を本棚に確保するため古本を無慮反射的にゴミ箱へ放り込み、はたして未練・後悔が怒涛のように襲って来る。目が覚めるとはこのことかとフザけた台詞をつぶやき、全身から力の抜ける浮遊状態をむしろ悦んでいるのじゃないかと疑うほど頭のどこかで絶えずうわ言のような呻きを垂れ流す。他人の懊悩は窺い知れないので自分の異常性ばかりを益々誇大に考える罠にはまり、身心共にへたれ切って行く。
 古本屋をハシゴして血眼で本を探し求める熱度は、傍らにいったんは置いたそれを幻夢の中でしか触れることができないとき極大化する。

【買い直したほんの数例】
「新国語辞典」(石井庄司 小西甚一編 大修館書店)
「吾輩は猫である」(夏目漱石 旺文社)旺文社文庫の本文表記2バージョン各1冊
「神聖喜劇」(大西巨人 光文社)カッパ・ノベルス4冊版
「おぼろ忍法帖」(山田風太郎 講談社)ロマンブックス3冊版(捨て)→風太郎忍法帖3冊版(買直し)

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川べりの安酒場でひときわ意気がりたいとき口にしてしまう言葉

2021年10月11日 | 瓶詰の古本

川べりの安酒場で仲間内じゃれ合って一際意気がりたいとき、調子づいた自分を貶めるだけと分かっているのに、ろれつも回らず口にしてしまう言葉
 

たたきつける【叩き付ける・叩き附ける】(動下一)①激しく打ちつける。「うどん粉を練って板の上に――」「猫を土間に――」②物を乱暴に手渡す。「離縁状〔辞表〕を――
(「例解国語辞典」)

 

たたきつける叩き付ける〕(動下一)力いっぱいぶっつける。
(「講談社国語辞典ジュニア版」)

 

たたき つ・ける[叩き付ける]〔他下一〕①強く投げつける。「床に――・ける」②強くたたく。「大粒の雨が――・ける」③はげしいけんまくで突きつける。「辞表を――・ける」〔文〕たたきつく(下二)
(「新国語辞典」)

 

たたき3【〈叩・〈敲】……――つ・ける25〔叩〈附ける〕(他下一)①たたいて倒す。②強くたたく。③しいておしつける。
(「明解国語辞典 改訂版」)

 

たたき3【〈叩(き)】……【――付・ける52:52】(他下一)[一]①激しく叩く。②壊れるように、何かを堅い物目がけて投げつける。「相手の腕をつかんで道路に叩き付けてやった・辞表を上役に――(=あいそを尽かしてやめるのだという態度で、突きつける)」[二](自下一)叩くように強く降る。「大粒の雨が――」
(「新明解国語辞典」)

 

たたき×叩き・×敲き】……
――つ・ける【――付ける】〈他カ下一〉①強く打ちつける。②物を乱暴に手渡す。「辞表を――」
(「学習百科大事典[アカデミア]国語辞典」)

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(論争には縁がないからと)しこたま引用して自戒しない瓶詰め古本病者の無神経(ショーペンハウエル)

2021年10月10日 | 瓶詰の古本

 論争せられつつある事件を、権威ある言葉の引用に依つて、決定しようと熱中し且急ぐ人々は、乏しい自己の理解と見識との代りに、他人のそれを戦場に引出し得ると、(大した応援を得たやうに)甚だしく悦ぶものである。かういふ人々の数は夥しい。何となれば、セネカのいふ通り、「各人は批判するよりも、むしろ信じようとする」からである。彼等が論争するに当つて、共に選んで用ひる武器は、権威ある言であつて、彼等はこの武器を以て互に襲ひかかる。だから論争に陥りでもしたら、理由を述べたり、論拠を挙げたりして、自ら禦ぐのは、つまらない事である。自ら考へたり、批判したりする力のなくなつた彼等は、かういふ武器に対して、不死身(ふじみ)であるからで、彼等は相手の尊敬心に愬ふる論拠として、彼等が権威とする(偉人などの)言葉を振りかざして対抗し、そして勝利を叫ぶであらう。

(「ショーペンハウエル論文集」 佐久間政一譯)

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均一本病者の妄想の特質は無秩序な浮動性であって、その行為が大なる危険を社会に醸すことはない(バーナード・ハート)

2021年10月06日 | 瓶詰の古本

 妄想の最も顕著なる特質はその不動性であつて、いかなる反対論にも挫折しないことである。説得だの道破だのと云ふことは、妄想に対しては全然無効である。患者はその信念の迷妄であることをいかに有力なる論拠で説破されても、決してその信念を翻へすことはない。
 しかしながら、行為が妄想のために影響を受ける範囲は一定してゐない。ある場合には、患者は被害的観念の影響の下に、想像上の敵に対して容易ならぬ迫害を加へ、大なる危険を社会に醸すやうになるであらう。又反対に、妄想が患者の行為に直接の影響を与へないやうに見える場合も極めて多い。それ故、屡々、信念と行為とは全然別個のものとなるか、或ひは不思議にも自家撞着さへやつてゐる。例へば、「世界の女王」も、病室の床を磨く仕事を毎日喜んで果し、意の儘になるべき百万長者も、僅かばかりの煙草を憐れつぽく求めるであらう。

(「狂人の心理」 バーナード・ハート著 中村古峡譯)

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正直者の結婚談は悲哀こそあれ意地悪な押付けになり得ないから(未婚者も聞く耳持たず)底意ある甘言に太刀打ちできない(高橋五郎)

2021年10月03日 | 瓶詰の古本

 結婚は宇宙の謎の一つである、然るに『宇宙の謎』の著者ヘツケル博士は、ソレを逸して只体内の結婚作用のみに着眼し、却つて長蛇を逸したかの感がある。
 由来結婚問題は、誰れでも眼の前に睹(み)て善く識つては居るが、此の謎を解いて、成程と云はせるだけの議論や断案を書いた者は未だ無い。
 或人一日ソクラテスに『自分は結婚した方が可いでせうかソレとも為ない方が可いでせうか』と訊いたら『左様孰(どちら)にしても貴下(きみ)は悔(くゆ)るだらう』と答へたといふ、尚希臘の七賢中のタレスといふ哲学者は、此問題に就て、人に問はるゝごとに青年には『未だ早いでせう』と云ひ『中年者には最う晩(おそ)いでせう』と答へたとやら。
 哲人ベーコンは其論文中に、結婚問題を説いて、事業家には独身者が可いと断じ、遂に筆が滑つて、世の中に女ほど厄介なものはない、女なんかは善加減に遇(あしら)つて然るべきものだと書いたところ、後年或る貴族の未亡人と結婚しやうとするや、不幸にも其の言(ことば)が殃(わざはひ)して、到頭其の女から拒絶をされたといふ。是れがベーコン一生の最大筆禍であつたと、言一(ことひと)たび口を出(いず)るや、駟馬(しめ)も及ばぬとは是の謂か。
 米哲エマルソンも結婚を一大疑問として言つた、『世に結婚ほど奇な者は無い、其内に在る人は出でんことを欲し、其外に在る者は入らんことを欲す』と。蘇格蘭土(スコツランド)の諺語には事を極言して曰ふ、『最も妙なるは無妻、其の次は良妻』“Next to nae wife, a gude wife is the best.”

(「人生哲学茶話」 高橋五郎)

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