美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

「目新しい古本」だけが真に魅力ある書物であるという向き

2022年12月29日 | 瓶詰の古本

 「目新しい古本」だけを求めて巷を彷徨する古本病者の影は、支離滅裂な感性が具現して路上にうごめく怪異現象ではない。そもそも「目新しい古本」とは、一体なにごとをほざいているのやら。
 あたかも精神分裂の微臭がそこいら辺に漂うが、どうやらどんな目録にも載らない、どんなネット情報にも引っかからない、しかも未来永劫垂涎の的となる見込みの断じてない(見処ある御宝本ならネットが見逃すはずもない)捨て去られ忘れ去られの古本にのみ忘我の魅力を感応するという、まあ言ってみれば、普遍的に稀少性の魔域へ驀進せずにおれない古本病者ならではの一風姿である、古本屋実店舗の減衰に日々怯えている一類型である。

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人間を蔑ろにして見境ない精神が受ける必然の天罰(伊丹万作)

2022年12月28日 | 瓶詰の古本

 戦時中新聞を見てゐたら、豆炭の粘着材に黒砂糖が使はれてゐるといふ事が書いてあつた。しかもその当時でも業者は商工農林両省から配給を受けてゐると知つて尚更驚いた。当時既に我々人間は殆ど砂糖無しに近い状態でがまんしてゐたのに、片ツ方では豆炭がベロベロと甘い砂糖を嘗めてゐたのである。
 一体、今迄の人類の智慧では、食へないものから食へるものを造り出すことは出来ない。しかるに、当時主として作戦の要求から、大豆・馬鈴薯・薩摩芋等天与の食物をつぶして食へないものにする工業は日益しに盛になつて行つた。可食物に対する此のやうな軽視は、明かに天の意志にもとつたことで、当時自分はノートに「いつか、どこかで必ず我々は罰せられるだらう。」と書いてゐる。しかしその罰がこんなに早く来ようとは、さすがに其の時は予期してゐなかつたと思ふ。

(『古いノート・新しいノート』 伊丹万作)

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偉い偉いと持ち上げられる(為政/有識)者は、したり顔な言葉に乗せて自己閥族の利得に繋がる御高説を世間へ送り付けたがる(封神傳)

2022年12月25日 | 瓶詰の古本

 そのうち春になつた。文王は臣下を連れて遊山に出た。将軍の南官恬は文王を娯しませる心算で巻狩りを催したところ、文王は大層不愉快な顔をして遂にこれをとり止めさせた。聖人は自分の娯みの為に禽獣を殺さぬ。又春の万物が生長する時期にこれを殺すのは天意に背くといふのである。これを聞いて群臣は皆文王の威徳に感じた。
 ところが折も折、河辺に居た漁夫の歌ふ歌の文句が中々尋常でないので、早速文王が調べさせたところ、歌の作者はこゝから十里ほど上流の磻渓に居る老人であるといふ事がわかつた。件の歌といふのは次のやうな意味を歌つたものであつた。
 昔、帝堯は大徳の君であつたが、その子にはどうしたわけか似てもつかぬ碌でなしの息子が生れた。そこで、天子の位は他人でもよいから徳の高い人に譲りたいと決心されて、それとなく捜してゐたが、ある日山奥へ行くと一人の男が水の中に小さい瓢を浮べて弄んでゐるのに出会つた。不思議に思つたので堯はわけを訊ねた。すると男は答へて
『私は世の中の一切のもの、名利も妻も何もかも棄てゝ、かやうな山奥で景色を見て楽しんでゐるのさ、これで一生を終ればまことに満足至極でさあ。』
 と云ふ、堯はこれを聞いて大変喜び、これこそ我が位を譲るべき大徳の人だと思つて、
『実は私は帝堯だが、貴方のやうな大賢人に帝位を譲り度いと思ふが……』
 と申し込んだ、すると男はこれを聞いて、何思つたか水中の瓢を取つてパツと踏破るが早いか一目散に駈け出した。そして傍の流れに入つてザブザブ耳を洗つてゐる。
 そこへ又一人の男が牛を曳いて来た。
『やあ、どうしたんです、耳を洗つて……』
『いやなに、今帝堯がやつて来て、私に位を譲りたいだとさ、そんな汚い事を聞いたものだからすつかり洗ひ落し度いと思つてね。』
 これを聞くと牛を曳いた男はさつさと上流まで歩いて行つて、牛に上流の水を飲ませた、今度は耳を洗つた男が訊ねる。
『何故逃げるんだね。』
『お前さんの耳を洗つた汚い水で牛の口を汚したくないからさ。』
 といふやうな意味の歌であつた。

(「封神傳」 三浦義臣譯)

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互いの高下釣り合いを比量する者に恋は降りて来ないし、だから未練の種火が心に残ることもない(黒田禮二)

2022年12月21日 | 瓶詰の古本

 その昔、チューリンゲンの森に一巨人が棲んでゐた。その巨人に一人の娘があつて、イルゼといひ、実に美しい乙女であつた。案の如く多くの若者達は美しいイルゼの風評を耳にし、我こそは、この乙女の婿がねにならんものと接近して来た。巨人はこれを大いに嫌つたが、こうした若者の中にウェスターブルグの若い領主があつた。乙女イルザは、この領主のみは、好きであつたか、到頭二人は勝手に夫婦約束までした。
 元来イルゼの人間たちとの交渉を嫌つてゐた父巨人は、娘イルザが、ウェスターブルグの領主と結婚の約束までした事を聞き知つて大激怒した。巨人は、巨人の種族が、之より劣る人間共と結婚するなどゝいふ事は以ての外の事であると考へてゐたのである。
 乃で巨人は、断乎、娘イルザが、ウェスターブルグの若い領主と相逢ふ事を止め、尚、両人が、自分の目を盗んで相逢ふ事を得ざるやうにと、巨人の棲んでゐる山と、ウェスターブルグ城のある山の間の岩々を悉く摑み出して、遠方へ投げ出し、そこへ人の通ひ難い大いなる谿谷を作つたのである。軈てその谿谷へは一條の川が流れ始めた。
 恋を阻かれたイルゼは、その後日夜ウェスターブルグ城の方を眺め、若き城主を慕ひ憧れてゐたのであるが、ある日、巨人の目を盗み、世を果敢なみ、父巨人の作つた谿谷を流るゝ川に身を投じて死んで了つた。しかし乍ら、娘イルゼの恋の一念は凝つて、到頭イルゼは、水の妖魔となつたのである。彼の女はその後時々水中より現れては、近くを通る若い男たちを、美しい容姿を以て誘惑したのであつた。

(「ゲルマン民族物語-ドイツ神話-」 黒田禮二)

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足が遠のいて偶~に眺める神保町往来風景、このごろ印象されるのは女子主動で古本屋巡りしている(らしい)陽気な若者らの増殖ぶり(岩動景爾)

2022年12月18日 | 瓶詰の古本

書店街△神田といへばまづ古本屋を思ひ浮べる。神保町を中心に東は駿河台西は九段下北は水道橋に至る電車通り(とその傍系延長路)に立並ぶ書店群の壮観は、パリはセエヌ河畔の露店古本屋と共に東西の二名物である。これは単なる商店街といふより一大連鎖式図書庫といつてもよい、但し買手が現れるとその本の姿は見えなくなるのが玉にキズだが、一応の専門書ならまだどこかの棚に並んでゐる。なんとなくひやかして歩いてゐて勉強になる町、こんな処は外にはない。愛知者のメツカである。漁書家蔵書家ならずとも歩けば必ず収穫のある別天地である。古ぼけた店構へもここではかへつて懐しく見える。神保町は戦災を免れたが、その古本の源泉地即各所に点在する蔵書家が焼かれたのは何よりの痛手、古版書絶版書等少い本が又少くなつた。特に戦時中の物資回収運動以来紙はつぶされ、和漢書や文献資料類が反故化された事は痛恨事。家も金も精出して働けば出来るが、これらの物は再び現れない。古本屋の主人たらずとも、反故化防止について国家も個人も今少しく関心と愛情をもつてもらひたいと叫びたいところである。戦後は学生やインテリ階級の経済的不遇状態がこの町にもひびいて、一流店は店売即個人売よりも官公庁学校図書館研究所会社団体等の大口への納入の比重が大きくなつてゐる(戦前もさうだつたが)。しかし学生はやはり店頭を賑はす最大の顧客、必須科目の定評ある専門書はいつでも売れるといふ。あの棚に並ぶ本の仕入れは、市仕入と店買即客の持込みと御報参上のツボ買の三経路があるが、九十パーセントは市仕入といふ。その古本市の立つのは駿河台通りを上りかけた右横丁にある古書会館。ここは又古書籍業組合の本部でもある。現在月二十一回の定期市が開かれてゐる。つまり同業者間の交換会である。この市は明治初年から始まつてをり、大震災と昭和十五年価格問題で十日休会した以外は休んだことはなく、戦時中も鉄兜をかぶつたまま警報下でも市を開きつづけてきたといふ。商売を通り越した古書に対する愛情の念の強さに打たれる。一流古書店の主人が学者顕官に互してゆける所以でもある。定期市は二四七九の日が普通書、一の日洋書、八の日資料三の日和本等決り此日は会員業者数百人が会館に集つて異状な活況を呈する(素人はオフリミツト)百畳敷位の広間の真中に三四十畳位の板の間があり、その三方に業者が居並び、一方の帳場の傍に振手と介添が立つ。介添が本を取つて渡すと振り手は「ええいくら」と声をはりあげる、「三百円」「四百円」とせり声が湧き、適正価へ振手が落す。買手が汚損等で気に入らぬ時は出直りで返す、と又改めて振直す。一日百万円位の取引が行れる。交換会といつても書店主が持寄るのではなく、せどり屋といつて各地を廻つて買集める専門家がゐて集めてくる。大口売立等による臨時市も時々たつ。この古本屋街は明治三十年頃から始まり大正に入つて数も増しその形態を整へ、大正大震災後現在見る如き軒並みの威容を形成したものである。界隈に並ぶ書店群は組合に加入してゐるもの百二十軒といふからそれ以外も加へたら二百にも及ぶだらう。

(「東京風物名物誌」 岩動景爾編著)

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こっそり隠れてささやかな楽しみを味わおうとすると、きまって厄介な邪魔が入るのは何故だ(吉田冬葉)

2022年12月14日 | 瓶詰の古本

  音なせそ叩くは僧よ河豚汁

「音なせそ」は音をたてるな、音をさせるでないぞよといふ意。「河豚汁」は茲ではフグトシルと訓んで、河豚は硬鰭類に属する魚で、大いなるものは二尺に達し、頭部が扁平で体は肥満し、皮膚に鱗がなくて全く裸である。頭から背にかけて、淡蒼色を帯び濃黒斑があつて、物に触ると毱の如くに膨れるのである。其味淡泊で頗る美味であるが、内臓に毒物があつて非常に危険である。
 雪の降る寒い夜、しめし合せておいた四五人が燈の下によつて、河豚汁を焚いて酒宴をはじめる。そこへ何かの用があつて、知り合ひの僧が「今晩は今晩は。」といひながら戸を叩く、河豚を食つたといふことが知れてさへ大変であるのに、まして、厳格なあの坊さんの事だから、何んと叱責するか知れない、音をさせないで寝たふりをしてしまへといふのである。
 俗に、「河豚はくひたし命は惜しゝ」といふ位ひである。それほどに河豚といふものは美味しくて、又有毒な部分があるのである。その冒険を侵して、河豚汁を食つてゐる人等の光景がよくあらはれてゐるのである。

(「評釋蕪村の名句」 吉田冬葉)

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古来の神話・伝説から奇怪な迷信や畏怖を練り上げ、魂を強く引き付ける道具立てとして作為するもの(野上俊夫)

2022年12月11日 | 瓶詰の古本

 古来宗教といふものは、悉く多少の迷信を伴ふものである。今日文明国に行はれて居る最も進歩せる宗教と雖も、其の初めは野蛮未開なる民族の間に起れるが故に、それ等の民族の間に行はれて居た神話や伝説を其のまま経典の中に採用し、或はそれ等の幼稚なる人々に向つて法を説くが為めに作れる神怪なる比喩寓話などを、其のまま採り入れたものが極めて多い。釈迦が生れて直ちに『天上天下唯我独尊』と叫んだとか、聖母マリアが聖霊に感じて孕んだとか、キリストが水上を徒歩したとか、少しのパンや酒を沢山にしたとか、釈迦の死んだ時に鳥獣虫魚が悉く来り集まつて悲しんだとか、或は人が死後に地獄や天国に行くとかいふやうなのは、即ち此の類であつて、比喩乃至寓話としては極めて面白く、詩としては極めて美しく、又其の中に極めて大なる真理を含有して居ることは云ふまでもないが、強いて此等の記述を文字通りに解釈し、事実的に真なりと主張するに至れば、即ち明かに一種の迷信であつて、人知の進歩に逆ひ、人心を惑はすに至るのである。釈迦や基督の教へたる大なる真理は、此等の奇怪なる記述を除き去つて充分に今日に残るのであつて、それが即ち此等の聖哲の偉大なる所以であるに係らず、今日なほ此等の神話を文字通りに信ぜんとする人の少からぬことは驚くべきことである。真理の探究に志すものは、此くの如き笑ふべき迷信に対して不断の攻撃を試み、速に之れを撲滅せしむべきである。

(『眞理は最後の勝利者なり』 野上俊夫)

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供犠(捧げもの)を行うことによって人間の心には、益々強固に神と結びつくとの意識が生じ宗教心を一層活気づかせるという(計り知れない)心的現象が現われる(フライエンフェルス)

2022年12月07日 | 瓶詰の古本

 以上の説明で、供犠の心的動機も、その実行の方法も非常に種類が多いことが分ると思ふ。けれども供犠が宗教にたいしてもつ心理的意味は、これにつきるものではない。われわれは供犠に先行し、供犠の動因となつてゐる心的現象に注意を向けるだけではなほ不充分である。すなはち供犠に際して、また供犠の結果として、供犠の根本動機とは異つた心的現象が現はれるのであるが、この心的現象にも注意を向けなければならない。殊に供犠の結果として注意すべきことは、生贄を捧げることが人間の心に、神との結合が可能であるといふ意識、また自己が単に受ける者であるばかりでなく、与へる者でもあるといふ意識を生じさせることである。この意識は、ただ受動的に他から受けることよりも、人間の宗教心全体を一層活動的にならしめ、従つて一段と活気づかせるものである。人と人との間でも、お互いの関心を強めるためのもつともよい手段は、恩恵を施すことである。例へばお互いに物を贈つたり貰つたりすることは、それ自身価値を持つてをり、それ自身精神的に酬いられるものである。それと同じやうな関係が人間と神との間にもなりたつのである。供犠は人間と上界との間に相互関係を生み出す。この相互関係は時に、単に外面的なこともあり、また場合によつては内面化されてゐることもあるが、とにかくこの相互関係は人間と上界とが結びついてゐるといふ感情を、非常に強めるものと云はねばならない。

(「宗教の心理」 ミユラア・フライエンフェルス 安河内泰譯)

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信仰復興会等における回心現象について嘗て語られたこと(エームス)

2022年12月04日 | 瓶詰の古本

 信仰復興会に起る回心及それに使用する方法は、主に催眠術の結果方法であるといふ点に於ては、今日の宗教心理学者多数が一致する所である。注意を集注させたり、暗示によつて人心を操縦したり、一寸した挙動で悔改の意を示せとの訓令的勧誘をしたりなどすることは、催眠術の方法なることは疑ない。被催眠者は自分の意志を棄てゝ与へられたる観念行為に順はねばならないやうに感じ、外来の力によつて誘出されたやうな念に捕へられ、往々之が彼の経験中最も貴重なることであると思ひ、自分の意志を棄て、これに信頼し、これを信仰するやうになる。是は確に催眠を促す態度気分である。コー教授は曰ふ。『信仰復興会、天幕伝道会、黒人の集会に就いて頂点に達した心的現象は催眠幻覚の状態と直接に関係して居る。』『メソデストの歴史に霊力として知れて居る現象は今日では催眠術として広く知られて居る方法である。』(コー「精神生活」一四一頁、「自然心理宗教」九章、スターバツク「宗教心理学」一七一頁、ダベンポート「信仰復興の原始的特性」十二章「暗示によつて起されたる回心」)。

(「宗教心理学」 エームス著 高谷實太郎譯)

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