美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

果心居士(三)(林義端)

2016年08月28日 | 瓶詰の古本

かかる奇変を為しける故、いづくにてもたゞ  此の沙汰のみ云ひ止まざりける。そのころ松永弾正久秀、多門城に居住しけるが、此の由をきき伝へて居士を招き、暇ある時は語り慰みける。或夜、久秀、居士に向ひ、「我一生いくばくの戦場に臨み、刀を並べ鉾を交ふる時にいたりても、終に恐ろしと覚えたる事なし、すべて物おぢざる天性なり。汝試みに幻術を行うて、我をおどして見てんや。」と云ひける。居士、「心得侍る、然らば近習の人々を退け、刀物は小刀一本をも持ち給はず、燈も消し給へ。」など云へば、弾正その言の如く人を退け、大小の刀をわたし、暗がりに只一人閑坐して居れり。居士ついと座をたち出で、広縁を歩み前栽の方へ行くとぞ見えし。俄に月くらく雨そぼ降りて、風さらに蕭々たり、逢窗の裏にして瀟湘に漂ひ、荻花の下にして潯陽に彷ふらんも、斯くやと思ふばかり。物がなしく味気なき事いふばかりなし。さしも強力武勇の弾正も気弱く心細うして耐へ難く、いかにしてかくはなりぬるやらんと、遙かに外を見やりたれば、広縁に佇む人あり。雲すきに誰やらんと見出しぬれば、ほそく痩せたる女の髪ながく揺り下げたるが、よろよろと歩み寄り、弾正に向ひて坐しけり。「何人ぞ。」と問へば、此の女大息つき、苦しげなる声して、「今夜はいと寂しくや坐すらん、御前に人さへなくて。」といふを聞けば、疑ふべくもあらぬ五年以前病死して、飽かぬ別れをかなしみぬる妻女なりけり。弾正あまり凄まじくたへ難さに、「果心居士いづくにあるぞや、最早止めよ止めよ。」と呼ばはるに、件の女忽ち居士が声となり、「これに侍るなり。」と云ふを見れば居士なりけり。素より雨も降らず、月もはれ渡りて曇らざりける。いかなる魔法ありてか是れほど人の心を眩すらんと、さばかりの弾正も呆れけるとぞ。

(「玉帚木」林義端)

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偽書物の話(五十一)

2016年08月24日 | 偽書物の話

   かつて、台地の聚落では人々は、ばあさん、じいさんとして生まれ落ちた。しわだらけで小さなかたまりとしてこの世に生を享ける。それから、次第次第に腰が伸び、中年から乙女青年に成長し、少女少年期を迎えて、一番可愛らしい赤さんになって、また小さく小さくなって、しわだらけのかたまりになってしまう。そうなったら、もう動かない。
   女は、人生の半ばくらいの年回りで自分の子供を産む。子供を産んで人生を折り返した後に赤ん坊になってこの世から去る。産まれた子供はその頃に、大凡人生の半ばにさしかかる。親が赤ん坊になって行くときに、女の子は乳が出るようになり、自分の親に授乳しながら親がどんどん愛らしくなっていくのを慈しむのである。子のいない者のためには哺育のための共益施設が出来ており、赤ん坊まで生きた者は皆が皆、生を全うすることができるようになっていた。それがある時、生長の大転換が突然起きて、台地聚落の人々は皆赤さんで生まれて年老いたばあさん、じいさんになってこの世から消え去ることになったのだといわれている。
   しかし、こうした突然の大転換が本当に起きたのかどうか、良く分からない。実は生の流れは混淆して現われるので、転換前の状態が依然として続いていると思われることもあるのだという。

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生活本能に押されて未知の世界へ(大杉栄)

2016年08月21日 | 瓶詰の古本

   個性の発達を全く無視し、且つあらゆる手段を以てそれを抑圧する、今日の社会制度の下に在つては、真の個人的行動は、其殆んど到処に於て、常に困難と苦痛と危険とに遭はなければならぬ。そして彼の第一本能は、吾々に妥協を命じ、屈辱を強ひる。吾々をして、たゞ生きて(ヴエジエテエト)行くと云ふだけの、生の安全を保たせる。そして吾々には、此のたゞ生きて(ヴエジエテエト)行くと云ふだけの生に対しても、猶猛烈な執着、即ち自己保存本能がある。
   けれども吾々は又、こう云つた無為(イナクチイブ)の生活に堪へられるものでない。些かなりとも自己超越本能を満足せずに生きてゐられるものでない。そこで吾々の対社会的態度は、常に隙を窺つては冒険的方面に出ようとする。一歩でもいゝ、たゞ生きて行くといふ生活から超越したい。一刻一刻に現在の自己を超越し行きたい。此の種の冒険は、十分道徳的に構成せられた個人の、健全なる正則(ノルマル)の行為である。其処に、吾々の生の、真の成長、真の創造がある。そして若し全く其のすきがないと見た時、此の自己超越の本能は、遂に自己保存の本能に打克つて、時として自己犠牲の行為にまで進む。此の場合の自己犠牲は、もはや、自己の生の単純なる否定ではない。却つて自己の生の崇高なる肯定であると共に、又其の実り多き拡大の予想である。

(「正義を求める心」 大杉栄)

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偽書物の話(五十)

2016年08月17日 | 偽書物の話

   世俗的な利便のためのしきたり類を発祥とする規範のほかに、女主宰者と統轄者の地位を含む島山全体の安寧を維持する規範も、こまごました場面の中で一々意識されることなく静かに息づいていた。そうした基の上に住民は動き暮らし、高峻な山岳と平広な台地、それと大水域からなる世界に生気を齎らしていたのである。
   住民同士は、瞳に映る様々な色彩の変化を眼で捉え、それと同期して口から発する音振動を耳で捉える方法によって意思を交流している。外界気象の変化を色彩と音響によって窺い知るのと通じ合うものがある。視覚と聴覚二つながらの映像は補完し合っているのか、それともお互い独立して重畳的に機能しているのかは判然としない。
   一応、記録に該当するかと思われるのは、色彩を変転のままに再現させて残した布状のものではなかろうか。蜘蛛の糸に似た何らか繊維状の素材を使って多彩に色を織り込み仕立て上げた布は、深い思想や遠い昔の出来事から身辺の備忘に至るまで、微細に表現し尽くして間然するところがなかった。ただし、これは世襲の技巧職人を介するあてがいの手段であって、これ以外に個別の記録手段が隠されていないとは言い切れない。

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親友山田珠樹、鈴木信太郎両君と珍本、稀覯書、豪華版(辰野隆)

2016年08月14日 | 瓶詰の古本

   愛書癖と言へば、アナトオル・フランスが有名な珍・稀・豪書好きで、而も門外不出主義の大家であつた。然るに、フランスの親友であつた露西亜の老共産主義者ラポポオルは、所有の普及化論者であるから、フランスの書架から手当り次第に書物を引出して読み散らし、而も往々何処かに置き忘れて来る癖があつた。或日のことフランスが邸の裏庭を散歩してゐると、洗濯物を乾す綱の上に、彼の無二の珍書が馬乗りに跨がつて、ゆらゆらと揺れてゐたさうである。山田、鈴木両君に此の話を聴かせたら、さぞ寒気がすることだらう。 
   僕等の仲間で蔵書家と云へば、先づ山田、鈴木両君を推さねばならぬが、蔵書の数に於いては、山田君に一日の長があり、豪華版の多種な点では、何と言つても鈴木君に指を屈せざるを得ない。山田君の好んで蒐めてゐるのは、仏蘭西小説とそれに関する文献であるが、鈴木君のは仏蘭西詩集殊に象徴詩とその文献で、全く見事なコレクションである。加之、両君の書斎が又愛書家にふさはしい洵に立派なものである。両君の書斎に比べると、僕の書斎は全(まる)で穴熊の巣だ。採光、通風ともに甚だ不充分で、床の下には大きな青大将が住んでゐるし、床の上には古びた普及版ばかりが恰も骨塚のやうに重なり合つて、小雨そぼ降る停電の夜などは何となく鬼気人に迫るものがある。尤も、ネルヴァアルやポオやホフマンは斯ういふ書斎で、静かに読まなければ本統の味は解らない。ゆくゆく、年を積んで、此の書斎が愈々古くなり、瓦が落ちて雨が漏り、残燈焔なくして影憧々たる一夜、旧友の遠きに謫せらる淋しさを想うて、
   死に垂たる病中驚いて坐起せば
   暗風雨を吹いて寒窗に入る
   などといふ、多恨な老衰境が沁々味はへるかと思ふと、今から、なかなかに楽しみである。

(「忘れ得ぬ人々」 辰野降)

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英国完全主義による明治維新説

2016年08月12日 | 瓶詰の古本

雑誌「真相」における英国完全主義による明治維新説。坂本龍馬も英国の忠実な使用人であった説。

「真相第154号」 昭和37年6月1日発行
 奈古浦太郎 『明治維新は英の謀略であった』

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偽書物の話(四十九)

2016年08月10日 | 偽書物の話

   島山には二つの小都市とは別に、もう一つ台地の聚落が存在する。これはこれで独自の勢力を有しており、基本的に台地の聚落で代々受け継がれて来た女主宰者の精神によって島全体がバランス良く安寧に治まっていると信じられている。女主宰者は一頭地を抜く長身かつ強靱の体躯を具え、過去現在未来を縦横に通暁する遠見の精神に恵まれた者でなければならなかった。
   河口にある二つの小都市の住人は、何世代かに一度づつその居所を交替する決まりとなっている。その刻が来たことを告げ知らせるのは、台地を治める女主宰者の役割であり権能である。そこら辺の由来について、起源神話風の口承なり伝説なりがあって不思議ではないが、この島山には世界の創世を含めて人々に信仰心を芽生えさせ育てるに足る物語は特に残されていないようである。その代わり、世俗的、商業的な利便のために培われて来たしきたりの類が諸々定められていて、このしきたりが実質的に人々を律する社会規範として共通意識の底に息づいていた。

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本行院の猫女に化けし事(祐佐)

2016年08月07日 | 瓶詰の古本

   洛中に本行院とて日蓮宗あり。ある日旦那川口甚平といふ者廟参しけるが、常々上人と親しかりければ、方丈に通りけるに、折節上人は他行にて、弟子も見えねば、そこら見廻しけるに、六十許りなる老女出でて、「暫く御待ち候へ、上人もはや帰り給ひなん。」といふ程に、「さらば。」とて次の間に通りて、しばらく休息しゐけるに、唐紙の一重あなたに、人の多く立ち彷ふ体の聞えしまゝ、甚平そと覗き見れば、若き女三人打交り居たり。甚平大きに呆れて思ふやう、上人は日ごろ仏菩薩のやうに沙汰し、我も深く尊み思ひしに、案に違ひし事かな、今はかかる人に逢ひても詮なし。」と思ひ、立ち帰らんと思ふ所に、上人帰寺ありて甚平を見給ひ、「是れはよくぞ問はせ給ふ、まづ是れへ御入り給へ。」とて甚平を誘ひ、彼の女どもが遊び居ける所の唐紙押し明け、「いざ此方へ。」と宣ふに、甚平怪しみながら座に付けば、爐の辺に猫三疋蹲り居りしが、上人を見て裾にもつれ悦びぬ。上人可愛がりて、小猫を招きて物食はせらる。甚平此の体をつくづく視て、扠は此の猫どもが女に化けたるならんと、恐ろしく思ひければ、上人の耳に口を寄せ、有りし次第を語るに、上人も始めて驚き給ひ、やがて三疋の猫を傍近く呼び寄せ仰せけるは、「汝等今日姿を女人に化けし事を知る、此の故に唯今暇をとらするなり。はやはや寺を立ち去るべし。」とにがにがしく宣へば、此の猫共甚平が告げし事を悟り、深く恨むる気色にて、甚平を睨み付け、いづちともなく失せにける。甚平はそれより彼の猫共が俤身に添ひて、何となくいと苦しかりけるが、それよりしてぶらぶらと煩ひ出し、心力甚だ疲れて、遂に程なくして死しけり。「これ偏に此の猫が執心なりける。」とて、皆人恐れ合ひけるとかや。

(「太平百物語」 祐佐)

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偽書物の話(四十八)

2016年08月03日 | 偽書物の話

   空の輝きが増すにつれて人の行き来は盛んになり、気がつけば賑やかな聚落の街路に至っていた。市場が立ち、軒を連ねて人々の住居が建ち並んでいる。聚落の中央付近に囲み領地があり、統轄者のこじんまりした城塞が築かれている。
   この世界は、広闊な台地、その片側の端に横から根を張って天まで幹を伸ばす巨樹のように聳える壮麗な山岳、それらを底面で支える島、そして周りを取り囲む大水域からできている。山岳は裾野を大海へ向かってなだらかに腰と足先を挿し入れて海辺を形成する。山奥の水源に発した源流は二本の支流となって分岐し、山の両裾に沿ってそれぞれ中河川となって流れ降る。海にそそぎ込む河口には小都市が発達し、今見るように人々が密集して暮らしているのだ。
   山をはさんでもう一つ拮抗した規模の小都市があり、そこにも人々が集り暮らし同じように殷賑を極めている。二つの小都市間では海や川の舟運を利用して盛んな交換が行われ、多くの人と物とが往来していた。それぞれに富貴を誇る勢力家が統轄者の地位を継承し、お互いに古くからの決まり事を遵守して長年均衡を保っていた。稀に山が鳴動し身震いする異変がないでもない。これは、天が伝える大きな凶事の前触れであると捉えられているが、致命的な凶事が島山に起きることは未だかつてなかった。

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