美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

偽書物の話(百四十七)

2018年06月27日 | 偽書物の話

 悔しさに翳る水鶏氏の表情と接して、私は奇異な安堵感を覚えた。黒い本との間で交感して見聞きした別世界が、文字によって書物が普遍的に我々へ伝えるところの別世界とは異なる道筋を通って導かれるものであると性急に決めつけることは控えさせてもらうが、少くとも私の脳髄に食い入って変容を遂げる挿し絵と密な根蔓で繋がっているのでないことは確からしい。水鶏氏が見れども見えずの境界にあったのは、氏の知覚が忽ちに留滞して宙に迷ったからではない。それは不躾な貶言、言うもおろかな揣度である。私のポンコツな脳髄に不審の地割れが広がるのを恐怖して口を噤んでいても、大した意味の生まれるはずがない。
   「今更こんな妄語を口走ったら、真っ当な神経を踏みつけにして、よくも澄まし返っていられるもんだと一喝されるのは承知してますが、これらの挿し絵に描かれた絵像の顔容は、見るたびその面貌を変えて行っているとしか思われません。それも、ただ変易して行くのでなく、私の面差しを執念く追いかけ真似しようとしていると惑信されてならないのです。」
 後先の効果を無視し、癲狂院送り覚悟の白状をしてしまった。狂気は人を選ぶとの公準を身をもって実証する発言がさすがに恥ずかしく、いっそわざとらしく胴震いをしてみせて、一時の霍乱へ逃げ込みたい。

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そろそろ百科項目は切り捨てて、国語辞典の究極を目指したら

2018年06月26日 | 瓶詰の古本

 そろそろ中型の日本語辞書(紙印刷)は、宣伝文句に必須となる20万超の収録語数を稼ぐための百科項目は潔く切り捨てて、一冊本の国語辞典として究極を目指すべきではないか。紙の辞書の容量は有限だから、日本文学を世界文学の水準へ到達させた(と極めて高い蓋然性をもって断案される)大西巨人(2014年3月物故)を立項する余地のない辞書もあるだろうが、そのことによって、百科項目収載の秀逸な目配りを誇る以前に、当該百科項目の取捨選択について下した価値判断の(時にズレたと評され得る)痕跡を後世へ遺す、歴史博物館的書物になりかねない。
   確度の高い(錚々たる紙の辞書と同等の信頼性を有する)電子情報がほぼ無償・無限に提供される環境にあって、有限の紙ページに押し込める百科項目の選別に多勢の専門家が骨身をけずり、七転八倒する努力や見識は、それに見合う褒誉を求めて必ずしも十分に報われるものではない。

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施策として淘汰、絶滅へ追われる中等階級とは(デフォー)

2018年06月24日 | 瓶詰の古本

余が父は性来賢く且つ実着なる人なりければ、夙に余の心の程を看破し、是に対して精厳なる忠告を与ふることもありき。一日痛風症の為めに悩まされて、己が部屋に閉籠りたる父は、突然余を膝近く呼寄せて、余が事に就き熱心に諌められたり。徐ろに問ふ様生国に在ればこそ相当の位置も得らるべく、事業任務を執りて財産を作り、以て安楽愉快なる生活をも遂げ得べけれ、今父母の家、生れ故郷の国を見捨てゝ外国に行くとは、なんたる理由ぞや。と更に懇々余を諭して云ふ、険を冒して外国に行き大胆事業を起して、常規に外れたる幸運に際会し、以て一身の名利を握りたるものゝ如きは、此世に失望したる必死の破戸者か、若くは天の冥助を受けたる非常幸運の人のみ。斯の如きは余の現在の位地に比すれば、遥かに上なるものか又は遥かに下なるものなり、而して余が地位は中等の家に生れ所謂下等生活の上流に位するものにして、此階級は下等社会の貧苦艱難労働苦悩を冒すの必要なきと共に、上等社会の驕慢奢侈非望嫉妬の為めに心を撹さるゝことなく、世に最も好良の地位にして、亦人間の幸福に最も適当なる地位なることは、彼が長き経験によりて発明したる所、誤りあるべからず。更らに中等の位地の幸福なるは下の一事にても知り得べし、則ち此中等階級の生活は上下を通じて、総ての人の羨む所にして、彼の至尊なる帝王と雖、往々皇家に生れたるの不幸を歎き、寧ろ賤と貴との中等社会に生れたらんことを望み給ひ。聖賢も亦此階級を以て幸福の中点となせりと論じ、猶余に熟考を命じ給ひたり。余は之を聴く毎に人生の苦悩は、上下両階級に等分せられて、中等社会は殆んど之に与らず、且つ其変化最も少きものなるを信じ。又中等社会は父の論ずる如く、一方に於ては腐敗せる生活、贅沢放蕩の為めに身心の悪癖を助長する憂なく、他方に於ては下等社会に避くべからざる労働の困難衣食の欠乏、栄養の不充分の為めに、身心を苦しむるの憂あらず。而して凡ての品行、凡ての徳操、及び凡ての怡楽を有するものは則ち中産者にして、安心と物に不自由なきの楽は、常に伴て離るゝことなく、適宜、安静、健康、交際等のあらゆる娯楽、あらゆる愉快は、専ら中等社会に附着するものなるを感じ。此階級にある人々は世を静かに、滑かに渡り、敢て甚しく腕力脳力を労することなく、且つ日々の食物の為めに奴隷の境界に陥ることなく。将た精神の安慰、身体の安逸を害する所の、煩雑なる事情に苦めらるゝことなく、又は妬心の為めに心を刻み、大望の焔の為めに精神を焦すこともなく、安楽に温和に世を渡りて人生の甘味を味ひ、日々益々此世の快感を喫賞するものは中等社会の外に求むべからざるを感じたりき。

(「ロビンソンクルーソー絶島漂流記 全」 高橋雄峯訳述)

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偽書物の話(百四十六)

2018年06月20日 | 偽書物の話

   「あの本はだ、これはわしの妄想に過ぎなかろうが、人を選んで訴えの声を放つんじゃないのか。頁に埋められた話声を直に聞き取ることのできる人間を、あの本は、あそこで待ち続けているんじゃないのか。」
   礼節の一かけらも持たない無礼な男が、いつぞや私に投げつけて来た世迷い言に倣えば、偽書物の自心は相手にする人の自心を選んで現れるのではないか。偽書物を手に取り、身勝手に思うさま愛でているつもりが、本人の下心にかかわらず偽書物の自心によって的に選ばれ、それぞれの自心に応じて眺望を異にする別世界へ招き入れられてしまう。
   人が違えば連れて行かれる別世界はまるで違うとはいえ、なかんずく偽書物の手引きを受けて別世界へ至り着いたのは、水鶏氏が唯一人の人ではないだろうか。黒い本の、ものに優れる霊妙の肌理に魅された人は私を含め何人もいるが、偽書物の幾つかある自心の一つに誘われ、難なく四囲する別世界へ没了したのは水鶏氏が初めての人ではないか。その初めての人が没した別世界は、面前で変幻すると見える挿し絵画像と全く相渉らずに成り立つ世界である。文字形の伝えるもの、絵像を蠢めかすものが水鶏氏の自心と共振するより前に機縁を結んだ世界である。水鶏氏の自心へ手を伸べた偽書物の自心は、ことによったら書物の外貌を装う行文と行間が褶込む襞の裏、捲られる頁一枚一枚の陰影に宿っているのだ。

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天は無用を生まず殺さず、感謝すべし(齋藤緑雨)

2018年06月17日 | 瓶詰の古本

○血といひ、汗といひ、或時は涙といふ。これを以て誠意を表し、熱心を表し、或時は真情を表すとなせるは、もと夷狄の発明也、舶来式也。言霊(ことだま)のさきはふ我邦の文学は、かゝる迂遠の顔料に由りて、まさきくの光彩を今に放てるに非ず。隆昌を極めたりときこゆる徳川文学の如き、更に分たば江戸文学の如き、其生粋を洗へば茶と酒となり。
○之を一派の文士に見る、文士の務は憂き限り也。一日一夜の旅にも、掟の如く筆を載せて行かざる可からず、紀行文を出さゞる可からず、飲酒と駄洒落とを風聴せざる可からず。否(あら)ず、飲酒と駄洒落とを以て、紀行文の二大要素と心得ざる可からず。江戸の東京と改まれるは、三十年の夢の昔なれど、日本橋は猶現に木造也。
○字面の最も面白からずして、字義の最も面白きもの、薄志弱行の一語也。薄志弱行にあらざれば詩は成ることなく、薄志弱行にあらざれば詩は解することなし。
○道は学ぶ可きに非ず、遊ぶ可き也。学ばんよりは遊べ、大に道に遊べ、小説家たるを得べし。カタルは熱を伴ふことあるもの也、病的現象也。
○名誉ある小説家諸子はいふ、だめな世間だからと。又いふ、ろくな報酬をくれぬのだからと。だめな世間に対つて、ろくな報酬を求む、矛盾ならずや、木に縁つての魚ならずや、八重山吹の実ならずや。
○大作とは長きものなるべし、だらだらと長きものなるべし。按摩に秋光魚(さんま)といふことあり、百回に厄介といふことなきにあらず。
○あゝでもない、こうでもない、遂に酢豆腐を出しぬ。今の批評家は、註文家なり。あはや此珍膳を出さんとして、無銭遊興を出せり。サイエンスとやらんの功徳とおぼし。
○学殖、閲歴を作家にのみ責めて、評家に責めざるは何が故ぞ。女髪結を妻とせる人と、今の評家とは、手を懐ろのぶらりのそりと、徒らの朝晩に太平楽を巻きて、肩をお長屋衆の前に聳かす迄也。若これにも世の教訓は潜むといはゞ、天は無用を生まず、而して殺さずとの一事のみ。綠雨の疾みて尚死せざる、亦よそながら感謝すべし。

 (「みだれ箱」 齋藤綠雨)

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偽書物の話(百四十五)

2018年06月13日 | 偽書物の話

   多くの書物の例に違わず、黒い本の絵頁が連番で一箇所に固まっているでなく、程々に点綴されているに不自然はないのですが、文字の伝える標徴を経由せずして直截に別世界へ誘引されたと仰山に認言(本の持主であるあなたにだけですが)する私の脳裡から、あなたの刺衝あるまで絵像の存在がするりと抜け落ちていました。ごく当たり前な書物の体裁の何にしつこくこだわっているんだと、忸怩たる気勢を運良く鎮静できようとも、後の祭りの発覚であることは翻りません。
   外から指差されて初めて悟る知覚の抜け落ちですが、おざなりに注意散漫な上滑りの気質を当てはめて済ます姑息のやり口で、一刀両断式にけりのつくものでない。私の身に生じたのにはそれ相当な事訳があると、根拠なしに自分を高く買いかぶらない限り、老耄が露見しての煮え立つ羞恥心は一向収まってくれません。その時それらの絵図を看取する視角が私に与えられなかったのは、黒い本の差配する、然あるべき条理が伏在しているからではないか、うつけ者の推度を試みたい微志が湧いて来ました。倉皇の仮論を許してもらえるなら、幾枚とある絵図が別れ別れに挿しはさまれているのは、換言すれば、挿し絵から次なる挿し絵までの間を隔てる頁の厚みに埋まっている文字と白地とは、対応するその分だけ人が消尽する時間の経過量を表していると映ずるのです。」

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胸に手をおいて篤と考えてみる必要がありはしないか(日本精神医学会)

2018年06月10日 | 瓶詰の古本

 帝都の一角に巨大な邸宅を構へ、穏田の神様と称せられ、倨傲な世渡りをしてゐた飯野某といふ男が、ふとした殴打事件からその正体を曝露せられ、近頃の新聞紙上を賑はした。彼は一個の行者上りに過ぎないが、その傲慢なる性質から来れる一種の魅力を持ち、要路の大官に喰入つて利権をあさり、無智なる華族を誑かし、暗中索動によつて現代の政治家を操り、有名な某女流教育家をして「偉大なる精神家」と盲信せしめてゐた。斯る怪物の存在を今日まで容されてゐたことは、現代の生活にとつて何を意味するか。我々は胸に手をおいて、篤と考へて見る必要がありはしないだらうか。

(『寄生虫的存在を絶滅せよ』 日本精神醫學會)

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偽書物の話(百四十四)

2018年06月06日 | 偽書物の話

   網膜に像を結び視角に入っているのに、知覚から免れている。よし行きずりであれ、通り掛かりの見者が靦然とある画像と寸刻も牽合わない事実を、もっと気に留めるべきなんでしょうね。普段身の周りに充溢する心理的盲点の一語でもって、事実を常識の既決箱へ直行させたいのは山々ですが、ことが黒い本で起きたからにはどうも油断ならないぞと、あなたの言葉も助力になって、疑り深い性分が鎌首をもたげました。疑いで勢いづいた鎌首の奥から発せられる警告は、私の脳力ふぜいが能く斥けられる毒刃ではないし、今頃になって、黒い本の挿し絵画を挟んで、信と不信の間で輾転反側して青臭い独り相撲をとらなければならないとは、我ながら寒心を禁じ得ません。
   あなたが注目したかったのは、粗笨な焦点喪失に由来する怪訝ではなくて、見せたくない者には見えない絵図があることではないですか。ご承知のように、思い過ごしや咄嗟の当て推量は私の痼疾なので一蹴してもらって構いませんが、無意に黙殺していたものが黒い本の中にまだ残存し、寝入りばなに背中を叩かれて振り返らされたような、不悦な心持ちが湧いて来るのです。認めたくない自照の影が迫持に待機して、中途半端な逡巡を繰り返しているような苦い心持ちが。

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本との親昵の如何は、ただに本を手許におくことにかかっている(アラン)

2018年06月03日 | 瓶詰の古本

 読書と夢想とでは、なんといふ違ひであらう。夢想に耽るのが愉しい時もある。そんな時には絶えて本なぞは読まない。それと反対になにかの訳合から静思するのが毒々しくて堪らぬこともある、そのやうな時は、読書がなによりの薬だ。私の父には借債や気苦労が絶えなかつたが、心をそれに煩はせまいとしてか、父は無性の読書好きに、しかも手当り次第の濫読家になつてしまつた。私もこの機能をいくらか受け継いだものらしい。結局のところ、私は物を学ぶことしか知らぬ人達に比して、すこぶる便益を得た。といふのは私といふ人間は、なにか物を学ばうとしだすと、却つてなにも学べなくなる性分だからである。だからよしんば数学の推論であらうと、それを我不関焉に、さながら小説のやうに目をさらせばいいといふ風に、読まなくてはならないのである。かうした不精な勉強法は、莫大な時間を食ふ上に、しかも本をしよつちゆう手許においておかねばならぬのである。手許にといふ意味は、二米でも離れた先きにある本は、つひ繙いたり再読したりするのを、忘れてしまふからである。ましてや人の書庫からの本は、私にはなんの利用どころか、得るところもない。借りて来た本を究めつくさうとして、あれこれとノートなど取つてみたが、それがつひぞ役立つたためしがなかつた。
 私にとつてはホオマアとの親昵の如何は、ただにホオマアを手許におくことにかかつてゐるのである。スピノザも手許に長くおいた著者である。さういへば親友の一人から、メーヌ・ド・ビランの全集を贈られて、それを手許におけるやうになるまで、私はつひぞこの哲人を識らなかつた。

(「バルザック」 アラン 小西茂也訳)

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