美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

ベアトリーチェの源泉(米田稔)

2019年04月30日 | 瓶詰の古本

 騎士道は陰惨な封建社会に咲いた華麗な花である。元来武人は古今東西を問わず勇敢、忠誠等の美徳を理想とする。戦争が日常化し戦士が支配階級である社会にあってはこのような倫理は自然発生するものであり、蒙古人でもアメリカ・インディヤンでもこの点に於て変りはなかった。然し、ヨーロッパの騎士道はこの段階に止まらなかった。基督教と結合し、信仰によって裏づけられたために、崇高な理想主義がこゝに生れた。騎士はキリストの教に従い、剣を以て教会を擁護すべき神聖な義務を負うこととなった。この意味で宗教武士団が最も理想に近い形態だった。聖ベルナールがテムプル武士の団規を起草した挿話は有名であるが、これはこの武士団が当時理想的な教会戦士の集団と認められていたことを語っている。基督教が凡ゆる形式の闘争を全的に否定していることは周知の事実である。従って、戦争及びそれを職業とする騎士が是認されるわけはない。しかし現実は無視出来なかった。教会の理念にも拘らず、封建制度は現在し騎士の暴虐は行われたのである。教会は、信仰擁護の戦争、篤信の騎士のみを是認することによって現実と妥協せざるを得なかった。またこれによって諸悪を制馭しようとしたのである。教会の積極策の一例として、騎士叙任式に宗教要素を導入しようとした試みを挙げることができる。オットー三世時代既に伊太利において実施されたことが当時の祈祷文集に見えている。この見地から十字軍が結局騎士道完成に貢献したことになる。「神の戦士」の理念を鼓吹したのはウルバン二世であった。このようにして十字軍時代ローレン侯ゴッドフリ、リチャード獅子王、聖王ルイ等の英雄が輩出したが、彼等が果して神の戦士として完璧であったか否かは検討を要することであろう。騎士道確立に貢献したものに、更に吟遊詩人があった。彼等の中にはドイツのウォルフラム・フォン・エッシェンバッハの「パルシファル」のように、信仰の騎士を歌って詩と宗教の調和を求めたものもあったが、南仏詩人(トルバドール)の詩などにおいては生を讃え、官能の刺戟を求め、華美と絢爛を謳歌したものが多かった。時と共にこの風が寧ろ支配的となり、内面的なドイツでもワルター・フォン・デル・フォーゲルワイデの恋愛抒情詩の如きがむしろ普通となった。彼等が騎士生活の歓びを歌ったことは当然である。擬戦(トーナメント)に於ける晴れがましい勝利が絶好の題目となり、女人崇拝が詩の基調となった。このようにして騎士道は華麗な色彩を身につけたのである。教会がこの風潮を非難したことはいうまでもない。擬戦に対しては破門の罰を以て臨んだが、最も基督教的な騎士でさえ擬戦に出場して名を挙げることをこれによって断念することはなかったのである。女人崇拝に至っては、教会自身其影響を受けるに至った。即ち聖母(マドンナ)崇拝これである。教会は、官能的な女人崇拝をこれによって善導するという口実を構えたが、事実は騎士道に屈したのである。ともかくこの中世の女人崇拝が後世に及ばした影響を過小視出来ない。これもまたヨーロッパ的なるものの一要素をなしているからである。ダンテのベアトリーチェ、ペトラルカのラウラ、シェークスピヤのミランダ、ゲーテのグレーチェン等はこゝに源泉をもっているのである。近代西洋の騎士精神がこゝに心の故郷をもっていることはいうまでもない。

(「西洋史通観」 米田稔)

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菅原氏選進の時代(植木直一郎)

2019年04月01日 | 瓶詰の古本

現在の制度にては、元号の改定は、枢密顧問に諮詢したる後に、これを勅定したまふこと、右に見えたるが如し。中古には、改元の事有るときは、先づ年号勘者の宣下ありて、式部大輔・文章博士、及び其の任に勝へたる公卿をして、元号につきて勘文を奉らしむ。乃ち經史の中より好き字を擇び、これに就きて勘文を奉れば、諸公卿を召して仗議あり。また難陳とて、預選の元号の文字につきて非難論陳する事あり。かくて、其の結果を上奏して、御裁決を俟つなり。近古以来は、例として菅家の人々に宣下して、年号の字面を勘へ申さしめ、これに就いて評議難陳の後、勅定を下したまふこと、其の例なりき。然るに徳川幕府の権威甚熾なるに至りては、朝廷にて既に一往の評決を経たる元号をば、更に幕府に下してこれを諮詢し給ひ、幕府の意見によりて、いよいよ元号の文字を決定し給ふ事となれり。正徳改元の時、朝廷にては、例によりて、菅家より選進せし寛和・享和・正徳の三号の中にて、時の中御門天皇は、寛和の号に定めたく思召されしも、幕府より正徳の号に定むべく復申せし為め、遂にこの方に定りし由、光臺一覧に見えたり。是れによりて見れば、彼の新井君美のいはゆる「我朝の今に至りて、天子の号令、四海の内に行はるゝ所は、独り年号の一事のみにこそおわしますなれ」折焚く柴の記と云ひしもの、亦実に有名無実なりと謂はざるべからず。当時の制、朝廷より改元の詔出づるや、幕府は報を得て、後、諸大名および諸役人を出仕せしめ、老中列座の上、年号改元の旨を公達あり。諸大名および諸役は、幕府の公達を得て、直にその領内・管下および組支配等に対してこれを布達すること、その定例なりき。
明治の年号は、慶應四年九月八日の改元御治定なること、既に記したるが如くなるが、言成卿記によるに、此の時も例の如くに菅・淸両家より年号勘進の事ありしも、陣議・公卿の難陳・挙奏等はすべて行はれず、事なく治定あらせられたるなりといふ。この明治の文字も、應永・文明・慶安・明暦・天和・正徳・元文の数度の改元の際に、候補者として選出せられたる文字なりしが、何時も難多くて、未だ一度も採用せられざりしを、後遂に隆昌前古に比類なき御代の元号と定れるは、思へばいともめでたき限りにこそ。今の大正の号は、如何なる典拠に出でたるにか。公羊傳に、君子大居正と見え、また易經には、大亨以正天之道也とも、剛上而尚賢、能止健、大正也とも見えたれば、これ等に基きたりしなるべし。この大正の号も、明暦四年・天和四年の改元の際に、菅原氏より選進せしこと有りしものなるが、今かく栄え行く大御代の元号と定まれるは、大に正しき道を世界に行はせたまふ御代のしるしと思はれて、いとめでたしともめでたし。

(「皇室の制度典禮」 植木直一郎)

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