騎士道は陰惨な封建社会に咲いた華麗な花である。元来武人は古今東西を問わず勇敢、忠誠等の美徳を理想とする。戦争が日常化し戦士が支配階級である社会にあってはこのような倫理は自然発生するものであり、蒙古人でもアメリカ・インディヤンでもこの点に於て変りはなかった。然し、ヨーロッパの騎士道はこの段階に止まらなかった。基督教と結合し、信仰によって裏づけられたために、崇高な理想主義がこゝに生れた。騎士はキリストの教に従い、剣を以て教会を擁護すべき神聖な義務を負うこととなった。この意味で宗教武士団が最も理想に近い形態だった。聖ベルナールがテムプル武士の団規を起草した挿話は有名であるが、これはこの武士団が当時理想的な教会戦士の集団と認められていたことを語っている。基督教が凡ゆる形式の闘争を全的に否定していることは周知の事実である。従って、戦争及びそれを職業とする騎士が是認されるわけはない。しかし現実は無視出来なかった。教会の理念にも拘らず、封建制度は現在し騎士の暴虐は行われたのである。教会は、信仰擁護の戦争、篤信の騎士のみを是認することによって現実と妥協せざるを得なかった。またこれによって諸悪を制馭しようとしたのである。教会の積極策の一例として、騎士叙任式に宗教要素を導入しようとした試みを挙げることができる。オットー三世時代既に伊太利において実施されたことが当時の祈祷文集に見えている。この見地から十字軍が結局騎士道完成に貢献したことになる。「神の戦士」の理念を鼓吹したのはウルバン二世であった。このようにして十字軍時代ローレン侯ゴッドフリ、リチャード獅子王、聖王ルイ等の英雄が輩出したが、彼等が果して神の戦士として完璧であったか否かは検討を要することであろう。騎士道確立に貢献したものに、更に吟遊詩人があった。彼等の中にはドイツのウォルフラム・フォン・エッシェンバッハの「パルシファル」のように、信仰の騎士を歌って詩と宗教の調和を求めたものもあったが、南仏詩人(トルバドール)の詩などにおいては生を讃え、官能の刺戟を求め、華美と絢爛を謳歌したものが多かった。時と共にこの風が寧ろ支配的となり、内面的なドイツでもワルター・フォン・デル・フォーゲルワイデの恋愛抒情詩の如きがむしろ普通となった。彼等が騎士生活の歓びを歌ったことは当然である。擬戦(トーナメント)に於ける晴れがましい勝利が絶好の題目となり、女人崇拝が詩の基調となった。このようにして騎士道は華麗な色彩を身につけたのである。教会がこの風潮を非難したことはいうまでもない。擬戦に対しては破門の罰を以て臨んだが、最も基督教的な騎士でさえ擬戦に出場して名を挙げることをこれによって断念することはなかったのである。女人崇拝に至っては、教会自身其影響を受けるに至った。即ち聖母(マドンナ)崇拝これである。教会は、官能的な女人崇拝をこれによって善導するという口実を構えたが、事実は騎士道に屈したのである。ともかくこの中世の女人崇拝が後世に及ばした影響を過小視出来ない。これもまたヨーロッパ的なるものの一要素をなしているからである。ダンテのベアトリーチェ、ペトラルカのラウラ、シェークスピヤのミランダ、ゲーテのグレーチェン等はこゝに源泉をもっているのである。近代西洋の騎士精神がこゝに心の故郷をもっていることはいうまでもない。
(「西洋史通観」 米田稔)