美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

笛、太鼓や法螺の音頭取も商売になる(大杉栄)

2015年12月27日 | 瓶詰の古本

   野枝さん
   男の、尤も僕も男の一人ではありますが、女に対する態度程、どうかすると実に醜いものはありませぬ。例の茅原バ華山の『第三帝国』に於けるあなたに対する態度の如きは、あなた自身も随分嗤つてゐましたが、あれは男と云ふ外にバカと野心とが手伝つた仕事なのです。此の野心と云ふのをもう少し詳しく云へば、あのバ華山は、妙に新しさうな事を言つて、無邪気な青年を踊らす事を得意にしてゐる男です。これがあの男の若しえらいと云へばえらい所なのでせう。そして此等の青年を使つて、笛や太鼓や時としては法螺の音頭をとる事を其の商売としてゐる男です。従つて彼れは、其の商売の邪魔にならぬ限り、あらゆる他の新しいものに同情する風を装はねばなりませぬ。そしてすべての新しいものゝ上に立つて、自分が最も新しいものと見せかけねばなりませぬ。けれども要するに彼れは、たゞ自分の商売の為に、装ふのです。見せかけるのです。そして笛になり太鼓になり時としては法螺になる其の頭の中は、まるで空つぽなのです。そこで彼は、此の空つぽを見すかし得べき人々がそれを吹聴しないやうに、あちこちの新しい人々の所でお世辞をふりまきに出掛けるのです。そして此のお世辞があなたの所へも廻つて行つたのです。先日もらいてふ氏をつかまへて『あなたがたは実におえらい、私などは努めて新しい事を云はうとするのですが、あなたがたは生地のまゝで新しくてゐらつしやる』などと云つたさうぢやありませんか。こんな人を馬鹿にしたやうなお世辞でも、ともかくもお世辞を云はれて嬉しくないものは少ないさうです。しかもあのバ華山は、非常に巧妙な、お世辞屋です。そこで大概の人は、蔭ではバ華山と云ひながらも、せめては彼の空つぽを黙つてゐてやる事になるのです。

(「正義を求める心」 大杉栄) 

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確率の病

2015年12月20日 | 瓶詰の古本

   この、ふわふわと浮游する感覚はなんなのだろうか。生きながら半ば死んだも同然という、(当然だが)初めて遭遇したこの浮游感は。昔は不治の病があり、今それは確率の病となっている。5年生存率90~10%とか、余命1年以内の確率50%とか、精確な統計値の幅を以て示される死に至る確率の値として現れ、たとえ死とほぼ同義でありながら、明日の生死いずれについても確率100%という数値にはならない病がある。
   突然かぼそい確率の糸にぶら下がり街路を蹌踉めく身となった(自称)古本病者は、均一台で古本を買い込み、ためつすがめつ手に取り拾い読みしては物思うという当たり前過ぎる日常が、いつまでも絶えない笑顔で続くものではないことを儚く知らされる。病によって出会い頭に腕を掴まれて病院のベットへ送り込まれ、やっと解放されたと思ったら再び三度ベットに連れ戻されるという日々があり、未だ見ぬ古本を憧れつつ渉猟する日々とどうにも折り合いのつけようがない、これまでそれと意識すらして来なかった生きがいそのものから断裂された日々があることを知らされる。
   いっときの痛苦からの解放は目前に垣間見える死からの解放とはなり得ず、だから、病院から家への途次、回り道してまで古本を求める意味があるのかを考えない訳にはいかない。道すがら抱える古本の体熱に思いを致す意味があるのかを考えない訳にはいかない。病の姿を纏って冷然たる確率値の死が傍らに舞い降りて来るとき、文字を書くことに意味があるのかを考えない訳にはいかない。

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紙の薔薇(グレエザー)

2015年12月13日 | 瓶詰の古本

   私は麦酒のコツプを取上げて飲んだ。私は急に何事か為ないではゐられなかつた、仮令どんな些細なことであらうとも。
   マツクスは半ば眼を閉じてゐた。彼はさうして一つの紙製の薔薇を弄んでゐた。それは先刻の女の一人が彼の傍の安楽椅子の上に忘れて行つたものであつた。突然彼はその花を優雅な手つきで鼻の所に持つて行き、軽く空気を吸ひ、そして灰色の声で言つた。「何て、この花は匂ふことだらう……サロモン的なふくよかさ……バクダツドの秋」それから、一寸微笑して、前屈みになり、その薔薇の花を私の方に差出して言つた。「これは何だい?」
「紙の薔薇さ」と、私は言つた。
「いゝかね」と、彼は答へた。そして、彼の顔は非常に老けて見えた、「君は、この花は紙で出来てゐると言ふ。これは匂はない、そして茎は針金で出来てゐる、と言ふ。君は現実に従つて判断してゐるんだ。君は君の平凡な感覚に頼つてゐるんだ。君は言葉通りの意味に理解してゐる。僕はけれども言ふ。この薔薇は匂ふ、と。この薔薇はバクダツドの夜の園でその花弁を開いたのだ。この薔薇は紙で出来てはゐない、丁度君の精神が君の脳髄で出来てゐないやうに。解るかい?」
「解らない」と、私は言つた。
   私は今一杯の麦酒を注文した。
「この薔薇はその形に於て正しく薔薇の観念イデーに合致してゐる。従つてこれはそれを知つてゐる者に取つては一つの薔薇である。従つてこれは匂ふ。そして予感を有する者はこの薔薇の中のバイブルの憂淋を感じさへする。何故なら、この憂淋が世数紀の間にこの薔薇に形を与へたからなのだ、これはバクダツトの薔薇だ。」
「それはテイーツ会社の紙の薔薇だ」と、私は怒鳴つた、「そして、それが仮令いくら観念イデーに合致してゐようと、併し観念イデーといふものは現実化されなくてはならないんだ。そして、現実化されない観念イデーといふものは、決して紙以上ではないんだ!」
   私は憤然として麦酒を飲んだ。
   マツクスはリキュールのグラスの細い緑色の把手を高く上げ、銀色の液体を舐め、それから頭を上げて言つた。「それは即ち僕達の間の世界の差異だ。君は常に行為を考へる。我々は知を考へ、無為を考へる。宇宙的回想を考へる。凡ゆる生活は回想なんだ。だから君は君の欲する通りに若くもなり得る。」
「それは譬喩だ」と、私は吼えた、「僕はそれでは一杯の麦酒だつて買ふことは出来ない。一フンドの馬鈴薯だつて、それからまた人間が所謂内的観察に必要とするものだつて買ふことは出来ない。若しアダルベルト・ケエニツヒが此処にゐたなら、彼は君に……」
   マツクスは跳上つた。彼の顔は青かつた。髪粉が彼の髪から飛散つた。彼は耳を塞いだ。彼は蹌いた。
「止せ!」と、彼は叫んだ、「アダルベルト・ケエニツヒのことを言ふのは止せ。止せつたら!」
   それから彼は安楽椅子に倒れて泣いた。
   私は麦酒を飲み乾した。
   私が去らうとすると、彼は私を摑まへた。私は彼と並んで腰を降ろした。彼は自分の腕を私の腕に絡ませた。彼は震へてゐた。そして彼の口は湿つてゐた。
   彼は言つた。「この名前を言つて貰ひたくないよ。」
   彼は再び泣いた。
   彼が泣いたつて、それは私にはどうでも構はないことだつた。私は言つた。「アダルベルト・ケエニツヒも観念イデーだつた―― 併し君の観念イデー見たいに紙で出来た観念イデーぢやなかつた―― 肉と血で出来てゐた。それだからみんなは彼を殺したんだ。」
「止せ」と、マツクスは唸つた。
「いやだ」と、私は言つた、「僕あ止さないよ。僕はみんなが彼の頭から足まで唾を引つかけたのを見たんだ。僕はみんなが彼を嘲るのを見たんだ。僕は止さないよ。そのために殺されることがあつたつて―― 僕は止さない。何故なら、彼は偉大な正義と永遠の平和のために頭を打砕かれたんだからね。」
「彼は人間を信じたんだ」と、マツクスは唸つた、「彼は不思議なほど人間を信じた。それだから、人間は彼を殺したんだ。何故つて、人間は、アダルベルト・ケエニツヒがやつたやうに悪を懲して善を為すのを好かないからなんだ。」
   彼はもう泣いてはゐなかつた。彼の眼は空虚だつた。
   彼は紙の薔薇を手に取つて、それを投げ捨てた。彼はそれを卓の下に投げ捨てたので、私は足で灰と共に踏みにじつた。

(「平和」 エルンスト・グレエザー 大野敏英訳)

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狂気の一抹すら嫌忌する精神

2015年12月06日 | 瓶詰の古本

   例えば、均一台に犇めく古本の群へ向かう足取りのよろけ、眦の血走りをも歓びの種とする古本病者は、他者に対して伝えきれない狂気の一抹が自身の内奥に潜んでいることを知っている。そして、古本病者にとって信じられないことには、どうやら、狂気の一抹すら嫌忌する自らの姿を健全だと思い込んでいる(倒錯した)精神が世の中に存在するらしい。自分自身を直截に見つめ直せば了解される狂気の霧の混交する己の素性を全く窺い見ようとしない、そのような(目をそらしていることさえ自覚できない)危うい自尊精神が存在するらしいのだ。信じる信じないは別にして、内にある凶逆の稟質を差し置いて健全を誇らしく呼号したがる精神が、教導的な立場にあるかの物言いを恥ずかしげもなく撒き散らしているようなのだ。
   自分自身を見つめる勇気がないばかりでなく、上っ面のしわ比べが笑顔で持て囃される時代の深い病いは誰が育んだものなのか。それこそ、一点の曇りない健全が清潔な正義へ導くのだと自己愛の煩熱に魘される選ばれし人々であるとは今更問い直すまでもない自明のことなのだろうか。

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