美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

覚めて戻れぬ美しい夢を愛惜する人は、覚めて戻る現実に翳す暗い雲影の行方を鋭く見つめてもいた(石川啄木)

2022年03月30日 | 瓶詰の古本

木犀

羽白き鳳に
うちのりて、紫の
晶玉の門ちかく
とび来ぬと、目ざむれば、
おばしまにただひとり、
わが醉はさめはてぬ。
庭ひろき宵闇に
木犀の香りのみ
いと高く流れたり。(一月二十日)

(「詩集」 石川啄木)

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壮絶な殴り合いでリングを圧倒する稀世の拳闘王でも容易くクタクタに骨抜きされ一敗地に塗れる世界は、洗いざらい勝ち負けの鋳型にはめて人間の価値を決めつけようとはしない世界(徳川夢聲)

2022年03月27日 | 瓶詰の古本

「紐育の丑満時」チヤールス・ブレービン監督作品――大当りの興行だつた。毎日醉つぱらつて説明し、毎日エステル・テーラーが泥棒に惚れるシーンを見て、ゾーツとなつたものである。私は彼女を見て、またもや一時日本人たる事が厭になつたが、其後彼女が、デムプシーと結婚したので、嗚呼、やはり日本人で好かつたワイと思つた。
 デムプシーと云へば、その頃、ジヨルヂ・カルパンチエとの大試合の実写が、金春館へ出た。
 これよりさき、この大勝負が、全欧全米で問題になつてる時、例の愚教師(東健而氏)は葵館の楽屋で、拳闘についての講義をして、如何にカルパンチエが紳士的でフランス的で、武士道的であるかを語り、そして如何にデムプシーが土方的で、ヤンキー的で、愚劣であるかを説いて、私たち楽屋のものを、全部カルパンチエ贔屓にして了つた。そこへ「カルパンチエ破る」の悲報が伝へられ、愈々今春にその実況映画が来る事になつた。
 私は愚教師の受売りで、今春の楽屋をも、カルパンチエ贔屓にしてゐたので、楽屋一同、此写真を見て悲憤の涙を流した。
 第5ラウンドで、カルパンチエが血だらけになつてノツクアウトされる時などは、目を蓋うたくらゐである。
 説明を受持つたのが大辻司郎君で
「デムプシーの勝は宣されましたが、満場寂として喝采するものもありません。カルパンチエは決してデムプシーに負けたのではない、ウンメイに負けたのでアル。」
 と泣き声になつて怒鳴つた。
 浅草の帝国館では、柳思外老が説明したが、この方は完全にワアワア泣いて説明したと云ふから凄い。無論、思外老も、愚教師の話を聞いて「己れ、憎つくきデムプシーめツ」と思つて説明したんだらう。トコロガである。その後愚教師は「カルパンチエなんて、厭な野郎だよ。あいつは全くの芸人だね。デムプシーとの試合をする迄の素晴しい記録てえのも、負けさうな相手とはうまく逃げてやらなかつたてえんだから、卑怯な奴だよ。そこへ行くとデムプシーつてやつはエラいね。何しろ無邪気で、正直で……」とアベコベの説を、涼しい顔をして仰言るのである。
 で、エステル・テーラーだが、この無邪気で、正直なデムプシーを、クタクタにして、自分だけは相変らず精力絶倫で、夫婦別れをしたと云ふんだから「紐育の丑満時」を見た時の、小生の第一印象てえものは、実に、確なものであると云ふ事が、解るであらう。

(「くらがり二十年」 徳川夢聲)

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無私の人は誼から他人にしてあげることを恩とはつゆ思いもしない、ただ相手の捨て身の純情を尊いと思うことはあるだろう(林芙美子)

2022年03月25日 | 瓶詰の古本

 私は其ころ非常に困つていて、その日も朝から何も食べてなかつたように思う。暑い日盛りに、水道橋の駅から、本郷森川町の徳田先生のところまで歩いて行つた。新築にならないもとの家の頃で、玄関の古びた格子(こうし)を開けると、先生が巡査と立話をしておられた。秋田のG子さんのお里の方に、洪水(こうずい)のあつたのを心配しておられる話だつた。玄関からすぐ緑の繁つた明るい庭が見えていた。巡査が帰つてゆくと、私は自分で話しながら涙が溢(あふ)れて来て仕方がなかつた。
 先生はお札(さつ)を出して、その中から四十円私に下すつた。私は四十円もあれば、男と連れ添つてゆけるのでうれしかつた。
 大正十三年の夏の事だと思う。肩あげをした浴衣を着て、私は光つた桃色の帯を締めていた。ハンカチがないので、袂(たもと)で首の汗(あせ)を拭いていたけれど、先生の家の帰り、みつ豆を食べに入つた氷店の鏡に、私の首に浴衣の紺がいつぱいついていて吃驚したものだ。
 間もなく、私は男とも別れてしまい、ひとりになつたけれど、その頃の私は、何時も準備のない生活ばかりであつた。落膽してしまつて死んでしまおうかとも思つたりしたものである。自殺をする前に、先生にだけはお禮をしておきたいと、私はありたけのお金でパラピン紙で包んだ西瓜を買い、先生のお宅にとゞけに行つた思い出もある。その晩は詩を書く女友達の家へ泊つてとうとう死ななかつた。

(『恩を感じた話』 林芙美子)

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哲人の譬えるところによれば、才幹なく弱劣な我々衆人は口達者なソフィストの飼養する野獣になりかねないらしい(プラトン)

2022年03月20日 | 瓶詰の古本

 君の言はんとする所とは何ぞや。
 何ぞや。かの是等の被傭人たる私人等は、人々の以つて「ソフィスト」と称し、又た以つて其の敵とする所にして、事実何事も教ふることなく、たゞ衆人の意見、乃ち集会の意見を教ふるものに過ぎざるなり。実に之れ彼等の知識たるなり。余は彼等を譬ふるに、其飼養せる強大なる野獣の性質及び欲望を研究せんとする所の人を以てせんとす――彼れ野獣に近づくの方法、之れを制馭するの方法、及び如何なる時に於て、又た如何なる原因を以つて危険なるか、然らざるか、其種々の号叫は果して何を意味し、又た他よりして、如何なる音声を発する時は、或は、鎮静し、或は忿怒するかを研究すべし。且つ彼れ此くの如く不断此動物に注意するに因りて、十分に是等の事を知り、遂に此知識を以つて智慧なりと称し、之れに拠つて組織或は技術を形成し、以つて之れを人に教へんとなす。然りと雖彼れ素より其言へる所の原理或は欲情は、果して何を意味せるやの真実の観念を有することなく、たゞ此野獣の嗜好及び性質に従ひ、此れは名誉なり、彼れは不名誉なり、此れは善なり、彼れは悪なり、此れは正なり、彼れは不正なりと称するのみ。此くて彼れ、善とは此野獣の喜ぶ所のものなり、不善とは此野獣の嫌ふ所のものなりとなし、たゞ正義と高尚なることゝの必要なるを言ふの外、毫も是等を説明すること能はず、自ら是等のものを見たる事なく、又た他人に向つて是等のものゝ性質、及び両者間に存せる処の著しき相違を説明するの力なし、嗚呼、げに、此くの如きは稀有の教育家と云ふべきにあらずや。
 実に彼れは此くの如きの人なるべし。

(「プラトーン理想國」 木村鷹太郎譯)

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自分を娯しませるために人を傷つける奴(薄田泣菫)

2022年03月16日 | 瓶詰の古本

 子供のうちには、誰でもがよく罪もない狗や猫を打つたり、虫けらを酷い目に会はせたりしたがるものですが、大きくなつて一家の家長となつた後にも、口論でもすると、ふた言目にはすぐ手出しをして、女房をひつ叩く男があります。新しい思想や、婦人運動などにも相当諒解をもつてゐるらしく思はれる間にも、かうした人達を見受けるのはどういふものでせう。中央アフリカのUgandaでは、女房一人は四頭の種牛と弾薬一箱と縫針五本とで購はれ、また南アフリカのKafir 族の婦人は、身分の高下によつて、ニ頭から十頭までの牝牛と交換されるさうです。男性の女性に対する道徳が、さうした野蛮人と文明人との間に、大した逕庭がありさうにも思はれないのは悲しむべき事だと思ひます。
 アメリカのある州に、女房をひつぱたいたので、法廷に引出された哀れな亭主がありました。
 事実調べがすむと、判事は即決で判決の言ひ渡しをしました。
「被告を科料一弗十仙に処す。」
 判決を聞いてゐた被告は、むつくりと頭をもち上げました。
「一弗はわかつてゐます。しかし十仙の端金は何のための科料なんでございます。」
「十仙か。」判事は十仙銀貨のやうに小さな無表情な顔をして答へました。「それは州で決められた娯楽税だ。」
 何といふ男か、名前は聞き洩しましたが、この亭主に十仙の娯楽税を追徴したのは、さすがに今ダニエルだといつていいほどの名判事だと思ひます。実際女房を打つ亭主は、十人が十人自分を娯ませるために仕てゐるのですから。

(「太陽は草の香がする」 薄田泣菫)

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誰にとっても祖国は(ヴォルテール)

2022年03月13日 | 瓶詰の古本

 祖国とは住心地のいい処を指す、と云つた最初の男は、ユークピデスだ。ユークピデスが、「フエトン」の中に書いたと信じてゐる。
 だが、自己の生地を棄てて、他に安住の地を求めた最初の男が、彼よりも以前に、之を口にした。
 然らば祖国とはどこか?
『この家を私の建てたこの土地は私のものだ。私はここに、法則によつて保護されて住んでゐる。如何なる暴君も侵害することは出来ない。私と同じやうに家を持ち土地を持つてゐる者が、共同の利害のために相会する時、私はその集会で発言権を持つてゐる。私は一切の物の一部分であり、社会の一員であり、領土の一部である。そこに私の祖国がある。』
 何不自由ない家の中に住んで、右のやうな言葉を吐くことの出来る者の土地は、まことにいい土地ではないか?
 ところで、諸君の祖国は、君主国であつたがいいか、共和国であつたがいいか?
 約四千年の間、この問題は繰り返し論ぜられて来た。金持に答へを求めると、挙つて貴族政治に賛成する。民衆に訊ねると、民主政治を望む。王達だけが王権を選ぶ。すると、殆んど全世界が君主達によつて支配されたら、どうなるか? 猫の首に鈴をかけることを提議した鼠共に聞いてみるがいい。だが真実のところ、既に云はれてゐるやうに、自らを支配するに足るやうな人間は、極めて稀なのだ。
 良き愛国者となるためには、人は往々にして、残りの人類全体を敵としなければならないと云はれる。良き愛国者になることは、商業によつてその都市が富裕となり、軍隊によつて強大となるやう願ふ事だ。一国が得れば、他は必ず失ひ、悲惨を作ることなくして征服者たることは不可能なのだから、一国の強大を願ふことは、隣人に害を加へることを願ふ意味となる。これは人間の常態だ。祖国が大きくも小さくも、より金持ちにも、より貧乏にもならない事を願ふ者が、真の世界の市民といふ訳だが。

(「哲學辭典」 ヴオルテール著 安谷寬一譯) 

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人は見たいものだけを見るという原理に乗じた誠実中正めかしい宣伝手法によって、情報の真偽を見極めているつもりで好ましからざる真実を好ましい幻影へ知らず識らず置き換えて行く(ウェルネル・ピヒト)

2022年03月06日 | 瓶詰の古本

 各種の言論や論証に接する機会を有する人は、悉くその真実なりや否やを検討する義務がある。
 この真偽の調べ方は双方のニュースをそのまゝで、一切の傍註を抜きにして、互に並列に置いてみると云ふ遣方より良い方法はない。これらニュースの報ずる事件の実際の経過は、さうかうしてゐる内に、その根本的な点で一般に知れ亘つてしまふからして、事実とニュースとの間の比較によつて真実味をどれ位持つてゐるかを確実に判断出来るのである。これより客観的な方法は断じてない。本書はこの方法をとつて編纂されたものである。また各種論調の蒐集をなしてあるので、探究家方には調査検討を容易ならしめ、各種資料蒐集の労を省くのである。こゝに於ては、世界聯合国の試みの失敗に就て印象深い光景が描き出されてゐるのみならず、敗者が自国の力と相手国の力に就て陥つた自己瞞着をも見せてくれるのである。聯合国は虚偽を余り強調し、力を入れて主張したので、自らも或る場合には、それを信じた程であつた。彼等自らの自己瞞着に陥つた結果、彼等は鉄石の如き正義の戦慄すべき巨力によつて粉碎されてしまつたのであつて、これはまた敗北の原因の一つに数へらるべきである。
 波蘭及びノールウエー作戦に関しては、既に著者によつて同種の著書が発表された。以上の著書は、本書と軌を一つにしたものである。かうして今次の戦争の來るべき数次の作戦に当つても、ニュースや意見の判断上、確乎たる基準が与へられてゐるのである。
 事実の言葉は真理である。之を語る者は誰か、独逸の国防軍か若くは相手方の宣伝か、之に答へるものが次の本文だ!

(「幻影の終り」 ウェルネル・ピヒト著 木暮浪夫譯)

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吾のみ優れて世知に長けているから人皆自分の雄弁に魅了されると錯乱し、師表がましく半ちく噺を垂れる似而非御意見番には永劫訪れないかも知れない目覚め(ストリンドベリ)

2022年03月03日 | 瓶詰の古本

 先生がいはれた『世の中には、相当な年輩で、自らも尊しと思ひ、人からも尊敬された人が、忽ち眠りから醒めて、さながら自分が魔物の如くに思はれ、心が平かでなく、吾果して何者ぞと自ら問ふ日の来る事がある。その時には、今迄自分の仕て来た事が、申し訳のない事のやうに思はれ、どうして、あんな事をしたんだらうと自ら問ふて見る。回顧すれば、罪を犯したこともある。鈍間(のろま)なことをして馬鹿を見たこともある。人の詐欺に陥つたこともある。
 けれども世の中には、極めて眠むたげで、一生涯目の醒めない者が居る。斯る人間は智力が魯鈍で、吾が身の暗愚なことが解らない。嘗つて僕に六十歳になる友人が居た。或る時、彼は馬鹿驚きをして、「人は何故勝手に俺を悪るくいふんだらう。俺は自分では非凡な人物だと思つて居るのに」といつたことがある。此の男は、多くの人人を蹂躙した暴君であり、死刑執行人であり、罪無き者を殺した殺人犯であり、賄賂を取り、聖職売罪を行ひ、その他あらゆる奸悪なことをした男であつた。僕はこの男を責めないで、却て弁護してやつたことがある。彼は官職上、止むを得ず、死刑執行人になつたのだから、則ち職業としてその役に当つたのだから、人を殺すのは正しいことだと思つて居た。彼は悪い天性を持つて居たので、自分の天性に従つて行動することは自然であり、正義であると考へて居た。彼は自己の天性に全く一致して生きて居たので、彼に似た者等は彼を健全、淡白な立派な人物だから、社会的に非凡な地位を占めたのは無理ならぬことだといふて居た。
 彼が死ぬると、僕は或る知友に彼の性格を書いて見せた。その知友もイカサマ者で、何の憚る処も無く、「そりや君、よくないよ。僕はあの人を立派な人物だと思つて居る」といふた。』

(「新生の曙」 ストリンドベルヒ著 三浦關造譯)

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