美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

偽書物の話(三十四)

2016年01月31日 | 偽書物の話

「しからば如何にして生身の肉体が多次元の宇宙に顕現し、存在し得ると考えたら良いのか。単に意識を異なる時空に飛ばす、異なる意識が並存するということはあるかも知れないが、これはむしろ心理学上の奇現象、虚の記憶等と見なす方が穏当であろう。そうではなく、我々が想像するところの、実在する一の肉体と精神が多くの異なる時空、異なる宇内をめぐり来たりめぐり去り、実の経験として記憶に刻すことが強ち不合理、非条理ではないことを語らねばならない。物的転写の息吹を開披しなければならない。それは、人が自己を自己として認識するに至ったという根底の謎に通ずる秘奥の始源そのものなのだ。
 つまり、なにものも導くことのできない自己認識という突発事の連続的生起が根底の謎としてあるように、多次元を経めぐる実在もまた始源が生み出した隠秘なのである。知ることは解くことと同じではないが、あると知ることは始源の複層の房飾りに指を触れることになるのではないか。」 
   水鶏先生は手を伸ばし石の台地を軽くなぞるように指を移した。ここまで読み上げて来た言葉は台地が形作る岸壁に当って下の方へ静かに滴り落ち、水嵩を増す不気味な海嘯みたいに徐々に机の上へ広がって行く。

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幕下には才多くして侃々諤々の士無し(正岡子規)

2016年01月24日 | 瓶詰の古本

◯利口のやうで愚 なのは伊藤侯なり。侯は維新の元勲として憲法の起草者として其力量を現はしたるは言ふまでもなく、総理大臣として長く其位置を保ち能く薩長諸元老の上に位するは其才識抜群の程思ひやられてなつかしきに、人間には抜目あるものかな、中にはこれが彼才相のしわざにやと驚かるゝことさへあり。近くは滄浪閣に詩人を招き侯自ら階を下つて迎ふるなど其雅量といひ謙徳といひさすがは其人なり心にくゝものせられたりと見るに、其の時衆客に示されたる侯の詩は体を失し且つから威張りに威張りたる如く感ぜらる。侯にして若し威張る意ありて作られしならばなかなかにめでたけれども、恐らくは侯は謙遜の意にて作りたるべきか、侯の詩律に精しからぬため斯く聞ゆるならんか。是れ利口なやうで愚な処なり。詩に精しからずと知らば利口な人は詩を作らざるべし。縦し作りても人に示さざるべし。縦し人に示すともそは十分に専門詩家の意見を聞きて後のことなるべし。侯の側に侍る詩家は詩人として立派なる技倆を有すれども侯を諌むの胆力無く、遂に侯をして思はぬ恥を掻かしむるに至る。由来侯の幕下には才多くして侃々諤々の士無し。是れ一大欠点なり。

(「松蘿玉液」 正岡子規)

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本を持ってさえおれば

2016年01月17日 | 瓶詰の古本

   その本を持ってさえおれば、いつ何時でも読むことができる。一番大事なのは、必要な本を持っておくことなのだ。読む、読まぬは二の次でよい。持っているということは、その本を知っているということであり、その本の記述対象としている事柄について(一応)承知しているということを意味している。それに関わる本も持たずに当の事柄を知っていると言えば、それは知ったか振りになるが、少くとも本を持っておれば、斯様な謗りを受ける筋合いはない。
   また、仮に知識人同士の論争を傍から見物している最中、本にも出ていないようなことを縷縷ひけらかして説法する論客を目撃したとしても、根拠が不明確であることを糊塗するために自らの実体験めかして法螺を吹いているとも考えられるので、驚き恐れ入る必要はない。説法を開陳するに際して、巧みな論争家は自軍の論拠を有利ならしめるために不確かな情報(場合によっては当人以外あるかないかを証明できない秘密裡の交際話や冒険譚)を(その場しのぎに)組み合わせ、あたかも秘奥・独創の卓説であるかの如く装う体質を生得的に備えているから、得てして悪気なく繰り出した知見の糸から眉唾な世界観の絨緞を織り上げてしまうのである。
   根拠、典拠として揺るがぬ信頼を博している本や資料などが持ち出され、そこにこう書かれていると言われて確認できた時はじめて同意すればよい。流れるような言辞に惑わされて鬼面人を驚かす論客に正価を超えた高値を付ける陥穽にはまらなかったとすれば、必要な本(論文、雑誌記事等)を保有している有難味がめっきり身にしみるというものだ。頭の良い論客の詐術に目くらまされないためには、スノビズムとの嘲笑・憫笑にもめげることなく、数多くの本を持つように努めなければならない。
   と、こんな屁理屈をいくらひねり出したところで、部屋の中に累々と積み上げられた未読の本から発せられる冷視線に耐えつつ読むあてのなかろう古本を営々と加えて行く己れの病癖を直視する勇気は、結局出て来ないのである。

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太宰治の辞書(?)の戦後版(藤村作)

2016年01月10日 | 瓶詰の古本

例 言

一 従来我が国で刊行せられた辞書は数多くあるが、いづれも皆、それそれ異なつたある一つの狭い目的のために編まれたもので、一般に如何なる人にも、如何なる場合にも適当であるといふ種類のものは全く無い。しかも多くの人々は、いつ如何なる場合にも間に合ふ辞書を切望してゐる。本書はこの要求に応ぜんがため、一般紳士学生の読書の友たり、かつ文章や手紙を書く時の顧問たると同時に、また新知識の注入者たらんことを期し、一切の伝統を離れた特殊の編纂法によつて作つたものである。
一 包容語は文部省国語調査会査定の常用漢字を中心として、和漢洋にわたり、各階級の現代人が日常生活上に必要なる語句を撰択収載し、更に小学中学程度の教科書中の字句は素より、各種専門の学術語、特に文化方面に於ける新語、外来語に至るまでも努めて之を採録し、これに平易明快なる口語体の解釈を施してある。
一 見出語はすべて発音のままに五十音順に従つて配列してあるから、正しい仮名遣を知らぬ人にも容易に且つ迅速に検索することが出来る。尚ほ特に仮名遣の必要な人は、見出語の下にそれそれ片仮名で明示してあるから、それに就いて知ることが出来るであらう。
一 本書の見出に於ては長音に発音されるものには ー の符号を用ひ、配列の順は あ の前に置いてある。ただしう段の長音 くう、すう、つう、ふう は仮名遣の煩ひがないから ー を用ひぬことにしてある。
一 われわれは日ごろ成るべく平易な文字や語句を用ひるべきであるが、現在通俗に使用せられてゐるものでも、到底国語調査会で査定した常用漢字だけでは間に合はない。本書では今仮りに右常用漢字以外の字には文字の肩に一一 ×印を附して、使用者の比較考究の便に供することとしてある。
一 解釈の外に語の意義を明確ならしめ、かつ活用の道を例示するために、多くの類語(◯印のもの)と成句(「 」印のもの)とを掲げてある。
一 見出の漢字の中( )で包んであるものは、その上の字の俗字または略字なることを示したので、いづれを使用しても差支ないのである。
一 巻末に附した常用漢字総画索引は、本文と対応して優に一冊の常用漢字典を成すべき組織のものである。使用者はこれに依つて索むる所の字を本文中に見出したならば、そこにはその字の訳と熟語(=印のもの)とが挙げてある。字画の数へ方は必ずしも従来の漢字典の例によらず、通俗に従つて適宜に画分けしてある。例へば 艹(草かんむり) はすべて三画に、 成 は六画に、 流 は十画に数へた如きである。
一 同じく巻末に附した国語字音新仮名遣は最近文部省国語調査会で査定せられたものである。参考のためにこれを附録として追加した。

(「掌中国語新辞典」 藤村作監修)

 

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ドストエフスキーの誠実

2016年01月03日 | 瓶詰の古本

   ドストエフスキーの小説四作品「罪と罰」、「白痴」、「悪霊」、「カラマーゾフの兄弟」において、時に完璧に遂行され、時に未遂に終わるという別はあるものの、小説を貫流する主観の根底や人物像の交錯裡に勃然として立ち現れるのが、それぞれ思想の体現者たる(それ故の)自殺者の姿である。ドストエフスキー本然の嗜好とも見紛う心理深部へ行き渡る饒舌にうねりながら軌跡を刻んで行く思想の衝迫は、小説から程良い加減の情調というものを無下に振り払っている。自殺者あるいは自殺志願者の突き詰めた凝念はいったん作家自身の内奥にある馴染みの函の中にしまい込まれ、やがて言語に乗り移った思想の形象として函の中から途切れることなく取り出される。
   不死はあるか、神はあるかなぞの究極の問に向かうとき、そこに人間の突き詰めた行為がなければ疑義の言葉を発するのさえ不誠実であるのかも知れない。生死・善悪の分かち難い渦中からその答を掬うべく試みるほかに懊悩の不実を避ける手立てはないのかも知れない。

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