若槻内閣のもとに開かれた第五十二議会の最終日(昭和二年三月二十四日)新正倶楽部の清瀬一郎は、臨時軍事費二千四百万円の使途について質問をなし、朝鮮の万歳事件は、この機密費で鎮静したといふが、それは不当であると軍閥を攻撃してゐると、新正の田崎信蔵が盛んに拍手を送つて之を応援した。これが癪にさはつた政友の板野友蔵は、紙つぶてを投げつけてゐたが、田崎は憤つて、板野の席に行つて拳を固めながらその不都合を詰問した。酒客板野は腕力では到底叶ひさうになかつたので政友の海原、原、青木、本田等が助太刀に来て、田崎を床上に投げ飛ばして、踏むやら蹴るやら、暴力の限りをつくした。田崎は顔面に鮮血を浴びて倒れた。
清瀬は、壇下の争乱を知らぬ顔に、「軍閥の臣田中義一君は、大正七年以来機密費を以て露国を援助し――」と論ずると、野党側の原惣兵衛と坂井大輔が壇上を襲ひ、坂井は柔道の手で清瀬の咽をぎゆうつと締め、難波清人は鉄拳で清瀬の後頭部を乱打した。清瀬は、フラスコを取つて応戦しようとしたが、政友の吉良のためにそれを奪ひ取られた。その騒ぎの最中、誰かゞ速記録を奪取しようとする。
粕谷議長は、この騒ぎの最中(午後三時三十分)振鈴を鳴らして休憩を宣した。
午後八時再開された時、清瀬は医務課で治療を受けて、繃帯をしながら出席して、なほ演説を続けようとすると、又また清瀬襲撃が始り、温厚な堀切善兵衛までが駆付けて、清瀬を虐めぬく。粕谷議長は、遂に八時四十七分になつて散会を宣した。
この事件は、被害者の告訴で裁判沙汰になつたが、その犯罪は、
△田崎に対する暴行傷害罪として、海原清平、難波清人、松岡俊三、青木精一、廣瀬為人。
△清瀬に対する暴行傷害罪として、秋田清、原惣兵衛、青木精一、三浦清之、吉良元雄、坂井大輔、難波清人、堀切善兵衛、安藤正純。
△公務執行妨害並に私文書毀棄罪として、吉良、板野、近藤、安藤、大口喜六、庄司良朗。
などが、公判に附された。なほ、粕谷議長、小泉副議長は、この大騒乱の責を引いて辞職した。その後、あまり悪質の乱闘もなく、次第に乱闘が無くなりつゝあることは、よろこぶべきことだ。
(「社会実話嵐の跡」 永松淺造)