美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

清瀬一郎の遭難(永松淺造)

2017年04月30日 | 瓶詰の古本

   若槻内閣のもとに開かれた第五十二議会の最終日(昭和二年三月二十四日)新正倶楽部の清瀬一郎は、臨時軍事費二千四百万円の使途について質問をなし、朝鮮の万歳事件は、この機密費で鎮静したといふが、それは不当であると軍閥を攻撃してゐると、新正の田崎信蔵が盛んに拍手を送つて之を応援した。これが癪にさはつた政友の板野友蔵は、紙つぶてを投げつけてゐたが、田崎は憤つて、板野の席に行つて拳を固めながらその不都合を詰問した。酒客板野は腕力では到底叶ひさうになかつたので政友の海原、原、青木、本田等が助太刀に来て、田崎を床上に投げ飛ばして、踏むやら蹴るやら、暴力の限りをつくした。田崎は顔面に鮮血を浴びて倒れた。
   清瀬は、壇下の争乱を知らぬ顔に、「軍閥の臣田中義一君は、大正七年以来機密費を以て露国を援助し――」と論ずると、野党側の原惣兵衛と坂井大輔が壇上を襲ひ、坂井は柔道の手で清瀬の咽をぎゆうつと締め、難波清人は鉄拳で清瀬の後頭部を乱打した。清瀬は、フラスコを取つて応戦しようとしたが、政友の吉良のためにそれを奪ひ取られた。その騒ぎの最中、誰かゞ速記録を奪取しようとする。
   粕谷議長は、この騒ぎの最中(午後三時三十分)振鈴を鳴らして休憩を宣した。
   午後八時再開された時、清瀬は医務課で治療を受けて、繃帯をしながら出席して、なほ演説を続けようとすると、又また清瀬襲撃が始り、温厚な堀切善兵衛までが駆付けて、清瀬を虐めぬく。粕谷議長は、遂に八時四十七分になつて散会を宣した。
   この事件は、被害者の告訴で裁判沙汰になつたが、その犯罪は、
△田崎に対する暴行傷害罪として、海原清平、難波清人、松岡俊三、青木精一、廣瀬為人。
△清瀬に対する暴行傷害罪として、秋田清、原惣兵衛、青木精一、三浦清之、吉良元雄、坂井大輔、難波清人、堀切善兵衛、安藤正純。
△公務執行妨害並に私文書毀棄罪として、吉良、板野、近藤、安藤、大口喜六、庄司良朗。
などが、公判に附された。なほ、粕谷議長、小泉副議長は、この大騒乱の責を引いて辞職した。その後、あまり悪質の乱闘もなく、次第に乱闘が無くなりつゝあることは、よろこぶべきことだ。

 (「社会実話嵐の跡」 永松淺造)

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偽書物の話(八十六)

2017年04月26日 | 偽書物の話

   「黒い本との感応を持ったことで私が書物固有の声の存在を発意したのは、文字(らしき形象)の伝える別世界を黒い本が巧みに覆い隠していたからであると、苦々しく弁疏することもできましょう。」
   遠くの方から水鶏氏の声が聞こえて来ると思う間もなく、すぐそこに座った水鶏氏が話している姿が鮮明な像を結んだ。水鶏氏は今度は掌を表紙の上で傘にして、しなだれた指先が触れなんとする間隔を保って本を慈しんでいる。黒い本のけば立つ柔毛は、私を弄んで果てしなく運んで行き、かたがた水鶏氏の心を癒やす息遣いを止めない。
   柔毛を見守る眼の端で、私はあの石塊が視界へ入って来るのを意識した。そして、意識の陰で、沼底から湧いた瘴気の泡のような、奇怪な空想が唐突に弾ける。机の上で峨々たる異貌の石塊に近く横臥する偽書物は、何かしら算段があって息遣いの荒く乱れるのを自制しているのであると。水鶏氏の前では偽書物の面立ちを伏せて書物の装いを凝らし、比類ない感応をお膳立てしたのであると。

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異常な個性にも合理性を洞察せよ(坂口安吾)

2017年04月23日 | 瓶詰の古本

   私に形式も知らずに探偵小説を書くとは怪しからんといふ投書があつたが、いかに日本人といふ者が猿知恵で、与へられたものを鵜のみにするしか能がないか、この投書のみならず在来の探偵小説がそれを証明してゐる。他の文学とか、音楽・絵画には、それぞれ個性とか独創を尊び、形式やマンネリズムを打破することに主点がおかれてゐるものだ。探偵小説ときてはアベコベで、先人の型に似せることを第一義としてゐる。
   私は本格探偵小説が知識人にうけいれられぬ原因の最大のものは、その形式のマンネリズムにあると信ずる。つまり、一方にマカ不思議な超人的迷探偵が思ひ入れよろしく低脳ぶりを発揮し、一方にそれと対してあまりにもナンセンスなバカ探偵が現れて、わかりきつたクダラヌ問答をくりかへす。とても読めるものぢやない。
   探偵作家はもつと人間を知らねばならぬ。いやしくも犯罪を扱ふ以上、何をおいても、第一に人間性についてその秘奥を見つめ、特に人間の個性について、たゞ一つしかなく、然し合理的でなければならぬ個性について、作家的、文学的、洞察と造型力がなければならぬものである。個性は常に一つしかない。然し、どの個性も、どの人も、個性的であると共に合理的でなければならぬ。いかなる変質者も犯人も、合理的でなければならぬ。
   人間性には、物理や数学のやうな公理や算式はない。それだけに、あらゆる可能性から合理性をもとめることには、さらに天分が必要である。人間の合理性をもとめるための洞察力をもたないことは、作家たる天分に欠けることで、これを公理や算式で判定できないだけ実はその道が険しいのだ。

(『わが探偵小説観』 坂口安吾)

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偽書物の話(八十五)

2017年04月19日 | 偽書物の話

   一面の緑に覆われたなだらかな斜面を下の方へ降りて行くと、ところどころに、ペンキで白く塗られた家の建っているのが目に入る。ぽつん、ぽつんと四角い箱型の建物が、緑の草波の中にくっきりと浮かび上がって見える。白い色をした家の内では、人々が人々なりの温かい暮らしをそれぞれに送っていると分かっている。家と家とはお互いに交じり合うことがない。同じ屋根の下に人々を包容する一戸の四角い建物は、そこで暮らす彼らにとって掛け替えのない無二の宇宙だった。人を傷つけない望みの数々がそこで生成して育まれ、何ものからも守られた安息の生活が営まれているのである。
   私はたった一人、無言でこの世界を降り下って行く。翻って、元から自分に声があったとも、なかったとも断言できない。余りに緩慢と流れる空気に取り込まれ、意のままの身動きを封じられて虚空を舞うしかないのだから、音といい、声といい、私には使い道がないのだ。私の声はなくていいが、何故か、家々で囁かれるひそやかな声が私の目に届いて来る。家の居間で可憐な望みを語り合う人々の声が、流れに降りしきる花びらの様に流れて来るのである。
   時計の針が回り続けて、千年数えるか、万年を刻むかは知らない。声をたてることが無用な世界にいて、ふわりふわりと降りて行くばかりなのだ。
   怖いとは思わないが、とても気持ちが良いというのでもない。きりもなく降下しているという感触があるばかりなのだ。それは、現実の生活では絶対に出くわしたためしのないものだった。生まれた拍子に落とし忘れたもの、きっと生まれる前には深く馴染んでいたに違いないと信じたくなる感触のようでもあった。

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水滸伝に善悪の彼岸を見る(芥川龍之介)

2017年04月16日 | 瓶詰の古本

一体水滸伝と云ふ小説は、日本には馬琴の八犬伝を始め、神稲水滸伝とか、本朝水滸伝とか、いろいろ類作が現れてゐる。が、水滸伝らしい心もちは、そのいづれにも写されてゐない。ぢや「水滸伝らしい」とは何かと云へば、或支那思想の閃きである。天罡地煞一百八人の豪傑は、馬琴などの考へてゐたやうに、忠臣義士の一団ぢやない。寧数の上から云へば、無頼漢の結社である。しかし彼等を糾合した力は、悪を愛する心ぢやない。確武松の言葉だつたと思ふが、豪傑の士の愛するものは、放火殺人だと云ふのがある。が、これは厳密に云へば、放火殺人を愛すべくんば、豪傑たるべしと云ふのである。いや、もう一層丁寧に云へば、既に豪傑の士たる以上、区区たる放火殺人の如きは、問題にならぬと云ふのである。つまり彼等の間には、善悪を脚下に蹂躙すべき、豪傑の意識が流れてゐる。模範的軍人たる林冲も、専門的博徒たる白勝も、この心を持つてゐる限り、正に兄弟だつたと云つても好い。この心―― 云はば一種の超道徳思想は、独り彼等の心ばかりぢやない。古往今来支那人の胸には、少くとも日本人に比べると、遥に深い根を張つた、等閑に出来ない心である。天下は一人の天下にあらずと云ふが、さう云ふ事を云ふ連中は、只昏君一人の天下にあらずと云ふのに過ぎない。実は皆肚の中では、昏君一人の天下の代りに彼等即ち豪傑一人の天下にしようと云ふのである。もう一つその証拠を挙げれば、英雄頭を回らせば、即ち神仙と云ふ言葉がある。神仙は勿論悪人でもなければ、同時に又善人でもない。善悪の彼岸に棚引いた、霞ばかり食ふ人間である。放火殺人を意としない豪傑は、確にこの点では一回頭すると、神仙の仲間にはいつてしまふ。もし譃だと思ふ人は、試みにニイチエを開いて見るが好い。毒薬を用ゐるツアラトストラは、即ちシイザア・ボルヂアである。水滸伝は武松が虎を殺したり、李逵が鉞を振廻したり、燕青が相撲をとつたりするから、万人に愛読されるんぢやない。あの中に磅礴した、図太い豪傑の心もちが、直に読む者を醉はしめるのである。……

(「支那游記」 芥川龍之介)

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古本運が尽きなんとする

2017年04月14日 | 瓶詰の古本

   近頃は身体の調子が落ち着かず、古本屋や古書市への遠出ができにくいので、欲しい古本に出会う機会がほとんどなくなりつつある。これはもはや古本運が尽きたのか。時代劇で悪運もここまでと台詞が吐かれるのは、敵役の斃れるときと決まっている。つまり、古本病者が食指の動く古本と行き会えなくなるというのは、即ち、古本病者の精神的生理的な終末が訪れることにほかならない。
   どうやら、命数の尽きなんとする古本病者の周りからは、いかなる天の配剤によるものか、魂を揺るがす古本が見る間に干上がってしまうらしいのだ。手に入れたいと望む古本が影を払うのと、古本病者当人の命の炎が消えるのとは表裏一体の現象であり、どちらが因でどちらが果であるかをわざわざ詮索する必要はないのである。

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偽書物の話(八十四)

2017年04月12日 | 偽書物の話

   我とはなしに、私は机の上に置かれた黒い本へ目をやった。水鶏氏の繊細な手捌きにより運ばれ、貴重な財物に準ずる手厚い扱いを甘受している本を物新しげに眺めた。
   表紙に横溢する柔毛の独特な風合が外へ発散し、私のところまで伝播して来る。水鶏氏と私の間で交わされる言葉の往来に吹き煽られ、柔毛の波は黒い表紙の肌を妖しく変幻させるのだった。波立つ柔毛が色を様々に反射し、黒い表紙を紺に見せたり緑に染めたりしている。波の動きを追って揺らぎの魔睡にかかった眼の中で、ものの色合いや大小の境目は消えて行く。
   そう言えば自分がひどく小さく縮まって、そそり立つビルに見紛う巨大な指でひょいとつまみ上げられ、さわさわと揺らめく柔毛が丈高く生え揃う野原をさまよい歩けとばかりに表紙の真ん中へ放り出されたら、どれほど頼りない心持ちだろうと、たわけた妄想に耽っていたことをふと思い出す。妄想に耽っていたのは、あれはいつの頃だったろう。遠い昔のこととも思えるし、今この瞬間のこととも思える。どちらでもないような気もする。なにより、たわけた妄想と安易に言い表したそれは、黒い本の別世界へ招かれ、身を置いた私が呼吸していた出来事ではなかっただろうか。
   足裏へ緑草の柔らかい反発が返ってくる。色鮮やかな花は咲いておらず、ただ緑だけが無限にそよいでいる。緑の波打つなだらかな斜面を、映画のスローモーション顔負けの緩慢な動作で空中に跳び上がっては地面に着き、着いてはまた跳び上がりして、下の方へ降りて行く。見上げても、見下ろしても、辺際なく緑のそよぐ斜面が続いていて、どこまでも降って行く。どこまで降っても涯しがない。

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幻影夢(十五)

2017年04月11日 | 幻影夢

   「ねえ、知ってる。このごろの先生の末期の頼みっての。」
   「何だ、その頼みってのは。今頃になって、かつて幼き頃いじめ苦しめた虫けらどもを怨霊になって呪い殺そうとでも。」
   「馬鹿を言ってんじゃないわ。先生はどうやら余命幾ばくもなかろうと予知したんでしょうよ。年来家に蟠っていた未読の古本を死出の床に敷き並べ、しかる後、安らかにその上で息を引き取りたいと、こういう心境に立ち至ったってえ次第。埃っぽい古本との無理心中とも謗られかねないやね。もっとも、先生の眼中では抱きそびれた婀娜な女群と映じているに違いないのさ。」
  電車の単調な振動と、隣から直に吹き付ける妖気の風とで気を失う瀬戸際にいる者の身にもなってみろ、と叫び出したい。だが、そんなことを口にした途端、妖気は百倍に膨張して吹きつのり、たちまち喪神の憂目に会うのが落ちである。精々、頭を上下に振るまねくらいならしてやってもいいだろう。
   「そうか。なるほど。」
   機械的に頷くやいなや、再び万力のわしづかみが肩の骨を砕けとばかりに襲って来たではないか。

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永井荷風先生の激賞を読んだ日(谷崎潤一郎)

2017年04月09日 | 瓶詰の古本

「三田文學」に「谷崎潤一郎氏の作品」(?)と題する永井先生の評論が載つたのは、多分明治四十三年の夏か秋だつた。永井荷風先生はその前の月の「スバル」か「三田文學」にも、私の「少年」を推挙する言葉を感想の中に一寸洩らしてをられたが、今度のは可なりの長文で、私のそれまでに発表した作品について懇切丁寧な批評をされ、而も最大級の讃辞を以て極力私を激賞されたものだつた。私は前に新聞の文芸欄の豫告を読み、それが掲載されることを知つてゐたので、雑誌が出るとすぐに近所の本屋へ駈け付けた。そして家へ帰る途々、神保町の電車通りを歩きながら読んだ。私は、雑誌を開けて持つてゐる両手の手頸が可笑しい程ブルブル顫へるのを如何ともすることが出来なかつた。あゝ、つい二三年前、助川の海岸で夢想しつゝあつたことが今や実現されたではないか。果して先生は認めて下すつた。矢張先生は私の知己だつた。私は胸が一杯になつた。足が地に着かなかつた。そして私を褒めちぎつてある文字に行き当ると、俄かに自分が九天の高さに登つた気がした。往来の人間が急に低く小さく見えた。私はその先生の文章が、もつともつと長ければいゝと思つた。直きに読めてしまふのが物足りなかつた。此の電車通りを何度も往つたり来たりして、一日読み続けてゐたかつた。私は先生が、一箇無名の青年の作物に対して大胆に、率直に、その所信を表白された知遇の恩に感謝する情も切であつたが、同時に私は、これで確実に文壇へ出られると思つた。今や此の一文がセンセーシヨンを捲き起して、文壇の彼方でも此方でも私と云ふものが問題になりつゝあるのを感じた。一朝にして自分の前途に坦々たる道が拓けたのを知つた。私は嬉しさに夢中で駈け出し、又歩調を緩めては読み耽つた。

 (「青春物語」 谷崎潤一郎)

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偽書物の話(八十三)

2017年04月05日 | 偽書物の話

   幸か不幸か、黒い本と汗牛充棟の書物とを同じ族として視る目に恵まれていなかったので、黒い本が水鶏氏に齎したことは、始まりから書物とは切り離して私の中に位置づけられていた。もっと言えば、黒い本が悪さをしかけたのではないかと、神経症気味に取り越し苦労をしていたくらいである。喚起や示唆などと烏滸がましい助言を添える能力がないと自覚している私は、水鶏氏の洩らす過分の評価に対して恐縮の沈黙で応える以外に策がなかった。
   私の沈黙は水鶏氏を促しているものではなかったが、水鶏氏は落ち着いて接ぎ穂を探し話を続ける。
   「それらを踏まえるとき、そこにある文字の示す意趣と断絶した別世界を書物は物語ると一直線に帰納するのはやや早計ではないかと懸念するのは、本の持主であるあなたなればこそ自然に出て来る素直な感想でもあります。多年黒い本を撫して来られたであろうあなたの忌憚ないご意見は、何にもまして斟酌しなければならないでしょう。議論の便宜に擦り寄り、恣意へ傾いたとば口になっているとの暗示は、微妙な点があって成程御尤もと間髪入れずの了解はしにくいのですが、書物を論じるに留意の上にも留意して行かなければならないのは確かです。かてて加えて、論に説得力を持たせるためには、心の中を占めるゆかしい形影となった黒い本を離れ、私の周りに控える書物を無作為に選んで待遇することが不可欠になるのです。」
   水鶏氏の語調に、そこはかとない懐思の嘆きを聞き取ったのは、一瞬、私が見当違いな共感に襲われたせいだろうか。水鶏氏の表情は、二人のいる部屋の空気同様に静謐で穏やかだった。

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リラダン風な水夫の話(太宰治)

2017年04月02日 | 瓶詰の古本

   人間の眼玉は、風景をたくはへる事が出来ると、いつか兄さんが教へて下さつた。電球をちよつとのあひだ見つめて、それから眼をつぶつても眼蓋の裏にありありと電球が見えるだらう、それが証拠だ、それに就いて、むかしデンマークに、こんな話があつた、と兄さんが次のやうな短いロマンスを私に教へて下さつたが、兄さんのお話は、いつもでたらめばつかりで、少しもあてにならないけれど、でもあの時のお話だけは、たとひ兄さんの嘘のつくり話であつても、ちよつといいお話だと思ひました。
   むかし、デンマークの或るお医者が、難破した若い水夫の死体を解剖して、その眼球を顕微鏡でもつて調べその網膜に美しい一家団欒の光景が写されてゐるのを見つけて、友人の小説家にそれを報告したところが、その小説家はたちどころにその不思議の現象に対して次のやうな解説を与へた。その若い水夫は難破して怒涛に巻き込まれ、岸にたたきつけられ、無我夢中でしがみついたところは、燈台の窓縁であつた、やれうれしや、たすけを求めて叫ばうとして、ふと窓の中をのぞくと、いましも燈台守の一家がつつましくも楽しい夕食をはじめようとしてゐる、ああ、いけない、おれがいま「たすけてえ!」と凄い声を出して叫ぶとこの一家の団欒が滅茶苦茶になると思つたら、窓縁にしがみついた指先の力が抜けたとたんに、ざあつとまた大浪が来て、水夫のからだを沖に連れて行つてしまつたのだ、たしかにさうだ、この水夫は世の中で一ばん優しくさうして気高い人なのだ、といふ解釈を下し、お医者もそれに賛成して、二人でその水夫の死体をねんごろに葬つたといふお話。

 (『雪の夜の話』 太宰治)

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