美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

ないところにあるもの

2011年08月31日 | 瓶詰の古本

   神を知らなくても、理不尽な現実が到底受け入れ難く、天へ向かって呪う人間は幾らでもいる。神を信じなくとも、返らぬ昨日に何故を問いあぐね、螺旋の絶望に埋もれて自分自身を無益に責める人間は世界に満ちあふれている。理不尽を理不尽と知らしめる根源のあるところへ降りて行ったとき、絶対者の意思を見る者はいざ知らず、やり場のない悲嘆に沈み込む者には、求める救いというものがこの世にあろうとは思いもよらないことではないだろうか。悲しみに等級はなく、ただ無限の悲しみがあるばかりだ。
   絶対者こそ知らね、最愛の者を喪失した人間にとって、死は決して不吉、不浄なものではあり得ないではないか。理不尽な死に出会った者にとって、死は、それらや自らの死を包含しての生を生き生きとなすべき、存在ないところに存在ある帰一の始終点ではないだろうか。かつて時を共にしていたが故にすべての時を受け入れられない大きな悲しみが一旦はそこにあろうけれども。

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神を知らない痴言

2011年08月20日 | 瓶詰の古本

   仮に人間に自然死が訪れず、災害、事故、戦役、犯罪等による他動の死のみが存在するとしたら、愛する人の死を受け入れることは永劫にできないだろう。自分の死を招来するかもしれない世界の悪意を直視することなどさらにできないだろう。
   有限とされる生にとって、万人が死を迎えるというそのこと自体が、死という絶対的な深淵を臨みながら幾たびか生々とした朝を回復し得る唯一の救いになっているのではないかと思いたい。そうでなければ、理不尽で不条理な喪失ひとつでもって生々たる生は明日の朝を見ることなく息絶えてしまう。

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幻影夢(三)

2011年08月16日 | 幻影夢

   それあるが故に、抱えた本の包みを一刻も早く開きたい一心で、下宿目指してまっしぐら、空を飛ぶが如く足を運ばせている折も折り、「おい。」と背中に呼びかける声があった。まさにどんな声にも応えたくない状況の真っ只中にいるのであるから、当然、耳をどこかへ置き忘れたふりをして、ズンズン前に進むしかなかった。
   「おい、おい。」予期した通り、背中に追いかけて声が轟く。こちらに負けじとばかり小走りに迫ってくる気配である。知らん振り、知らん振りとばかり悪魔の鉤爪を振り切る気合いで、こちらもいよいよ走り始める。汗だくになりながら、猛り立って駆けているうちに、どこをどうしたことか舗道の縁石に足を滑らして、道路の真ん中へずでんどうとひっくり返ってしまった。

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化粧の精神

2011年08月11日 | 瓶詰の古本

   本日付けの東京新聞。梯久美子という人が連載中の『百年の 手紙』に引用している尾崎秀実の娘への手紙の一節。
   「学問は人を幸福にはしないかもしれませんが、人としてどうしても必要です」
   死を見つめながらこんなことが書けた人、こうした言葉を掬い上げることのできる人にむかっては、ただ頭を垂れる以外、恥知らずの矜持を保つ(姑息な)手立てはないのである。
   怖れることなく信念を為す人、きっとその魂を見出す人は、いずれも自己の名声を求めるなんどという化粧の精神から最も遠いところを歩んでいるに違いない。

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いっそ酒壜の中へ

2011年08月10日 | 瓶詰の古本

   知らないこと、また、いかに何も知らないかということが次から次に顕われ来たると、今更ながら、眼前の世界が極めて相性の悪い、組みしにくい相手だと得心しつつ眩暈の止まない気分に陥るのである。止まない眩暈は、つまりは、このちっぽけな、たまゆらの存在に実は占めるべき一片の地上も許されてはいないという、極めて通俗的な事実の反照に過ぎないのだが、それにしても、やがて嘔吐に至るであろう行く末を思えば、いっそのこと手に一冊の古本を掴んで酒壜の中へともんどり落ちるのが最も恥を知った始末のつけ方ではなかろうか。

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幻影夢(二)

2011年08月07日 | 幻影夢

  もともと、本というものに目がなくて、その中でも古本を見ると無条件に引き寄せられ、魅せられてしまう生活を、もう二十年以上も続けて来たのだ。手紙一本書くにしても、わざわざ大正年間に発刊された手紙文例大全といった類の本を、埃を払って引っ張り出して使わずにはいられないのである。漢字を書くといっては、何十年も前に絶版になって久しい、名も知れぬ日用字書の千切れそうな頁を嬉々としてめくり返すのである。傍目からすれば、なんとも奇っ怪な病癖、他人が持っていない玩具で遊ぶことに無上の喜びを見出している幼児の玩物趣味と映るに違いない。 
  まあ、そんな人種にとっては、隠秘学めいた話とか不可思議な事象とかが詰まった古ぼけた本なんぞは、底無し沼と分かっていながら、そこにもんどり打って飛込んでゆかねば止まぬ童話の森の女神が棲む神秘の青沼、最大級の魅惑の湖としかほかに見えないのだ。

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幻影夢(一)

2011年08月04日 | 幻影夢

  最近、幻影を見るようになった。それが、何時の頃からかはよく覚えていない。しかし、あるとき気がつくと、目の前に確かに幻影が現れ、そこいらを歩き回っていたのだ。それが自分自身のときもあれば、遠くにいるはずの母親だったり、あるいは、ずっと昔に死んで顔も名前も知らない、放浪熱にとらわれた祖父だったりするのだ。徐々に自分が近づいて行くところ。どことは分明でないが、確実に自分が向かっているところがあると分かって来た、そんなときに出会ったのが、あの本だった。その本は、古本屋の棚で長い時間を費やして、おれの手に取られる日を待っていたのである。店晒しになっていたとも思えないような、いかにもた易く手に取られるところに本はあった。
  おれは、まったく意識しないままに、その本を棚から引き出すと勘定を払って店から外に出た。外はもう陽が落ちかかっていた。ちょうどかはたれ時といった時刻になろうとしているようだ。町の風景が、光量を落として写した写真のように、ものの細部の輪郭に至るまでくっきりと目に入ってくるのだ。

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