おせんさんは、二十歳のとき軍人さんと結婚、三年経つか経たないで死別した後、花を習いに通う真言宗の寺で一時居候していた放浪画家と出会い、女と男の二児をもうけた。絵描きは理由明らかでないが突然姿をくらまし、おせんさんは子らを引き連れて、街場を形成する地方城下町で呉服屋や質屋など手広く商いを展開していた父親(子供らにとっての祖父)の膝下で暮らす。田舎町なれど、おせんさんはそれなりのお嬢だったわけだ。
実際に子供の世話をしてくれたのは、親父さんが北陸から連れて来たお妾さんで、カラッとした男勝りな気性の美人だったという。いくつかあった店の切り盛りも一部まかせていたようである。
やがてお嬢は、父親の店のうち呉服屋の番頭さん(おせんさんより十一歳年下)と手に手を取って東京へ駆け落ちしてしまった。当然、二人の子供は置き去りにされたのだが、まあ、面倒見てくれるお妾さんは、実の親実の子同然に接してくれていたから、また、祖父の商売が傾くこともなかったから、子供的には何不自由なく育てられたと言っていい。ただ、捨てて行った母親に対する思いは、人の親となっても胸にわだかまり続けていたはずで、死に目と伝えられて会いに行くことはなかった。十年前夫に先立たれ娘と二人して暮らし、そこで亡くなったスラム式アパートの一間へ線香を上げに行ったのが一体いつ頃のことなのか、今となって語り得る人も絶えてしまった。
おせんさんの愛読書は漱石作「合本三四郎、それから、門」(春陽堂)だそうだが、子らとともに実家に残されたのは「合本彼岸過迄、四篇」(同)一冊で、分厚いその本は、恋に捨て身の女の読みグセがついて斜めに断層ずれしていた。
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