文字がてんでに集って書物という底知れないものが生まれると私は考えています。そのことを解き難い謎であると畏怖している人間であり、我々の起居する現世界と等価の確実性をもって書物に記された別世界の実在をそのまま受け入れている人間です。新たな別世界が意表をついて現存したとき、驚きうろたえて、心神が錯乱しただの、悪夢に誑かされただのと月並みな理屈をこじつけて、なかったことにしてしまうと思いますか。まさにその逆で、書物の声をしかと目にし耳にして、別世界の時間の流れにひたすら浸っていました。無心の赤ん坊のようにその世界を受容していたのです。」
水鶏氏が推考するには、文字は、現世界に対置し得る別世界を顕現させる目的の下に、書物という物理的な形相を得て現世界の一廓を領することになった。書物の語る声、趾、徴は実存し得る別世界を予告し、現に形造りもするという考えで透徹している。水鶏氏に驚きうろたえる理由がないのは、容易に頷けることである。それに引き替え、本に対して不純な愛着心を蔵しているのはまだしも、畏怖の念を懐いたためしのない私は、師の境地に中々到達できずにうろちょろしている不肖の弟子に近い。
私の保有していた本が、よりによって水鶏氏に初めて声を発し深切に語りかけた。書物に眷恋する水鶏氏は、所有主ではないのに巧まずしてそれを感受したのである。古本屋の帳場で相対した時、本の漂わせている妖しい息吹を感知していたのは私である。その私が、水鶏氏の感受した書物の声をあれこれ想像してみても、声を捉える機縁が天から失われているのでは、幻妖も厳粛もあったものではない。身の程知らずに水鶏氏の話に愚問を投げかける私は、茶番の一歩手前にいるのである。
西洋諸国では相当古くから東洋に一寸法師の国があると考へられて居たのであるが、その一寸法師の国とは、一体何処であつて、且つその一寸法師とは今日何人種に属するものであるだらうか。西洋に於ける一寸法師棲息説はジヨナサン・スヰフト及びマルコ・ポーロの旅行記を読んだ人々がその文中の記述を其儘信じた結果であらう。ガリーヴァー旅行記中にあるリリツパツトの小人島に関する事実は、何を根拠としたものか見当がつかぬが、ポーロの『一寸法師の乾物』の記事には寧ろ相当の根拠がある、従つて大体これは事実と考へてもよいと思ふ。ポーロの紀行中には南洋のスマトラ島にはその面貌人間に酷似した矮小な猿類が居る、土人はこれを捕へて『侏儒の剥製』の原料となし、印度を始め諸国の商人に売りつけるのだと書いてあるが、これは決して空想的な記事ではない。この人間に似た猿と云ふのが今日の動物学者の所謂類人猿であつて、オランウータンの種族と推定される。これならば、正しく猿と人間との中間に位するもので、猿よりも、もつと人間に近いものである『侏儒の剥製』の原料がこれであつた事は、今日では殆ど疑ひをいれる余地はない。処で、どうしてそれを剥製にするのかと云ふと、今日スマトラの土人でもこの方法を覚えて居るものは極めて稀である為めに、ハツキリ分かりかねるのだが、大体こんなものだらうとさる好事者は発表して居る。
その方法は先づ蹄係を以てオランウータンを捕へて絞め殺し、頭部、頬、顎、胸部、陰部等、人体で云ふと自然に毛の生えてゐる部分のみを残し、全体の毛を悉く剃り落し、然る後、これをよく天日で乾燥して剥製にし、サフランの花及び種々の絵の具を以て、其面部を隈取り、さながら一個の人間の面貌に仕上げるのである。かくして出来上つたものは、腐敗を防ぐため樟脳其他の薬品を添へて箱に納め、高価に売りつけたものらしいと云ふのである。成る程かうすると、全然小さい人間の乾物になつて猿類とは殆ど別種のものと思はれるに相違ない。今日では欧州でもかゝる残酷なものを商品として歓迎せぬから、自然産地の方でも製造を中止するに至つたのだが、この『侏儒の剥製』は欧州ばかりではなく、昔は矢張り密貿易船により、長崎あたりを経て日本にも輸入されたものらしい。これが今日尚各地に稀に残つてゐる『天狗のミイラ』だとか『鬼の死骸』だとか称し、屠浮氏や香具師のインチキの種となつてゐるものと考へられる。
(「國史異論奇説新學説考」 藤井尚治)
椅子の前まで進んだ水鶏氏は挨拶する風にかがみ込んで、丁重に大きな書物を持ち上げると、二本の腕に抱え込んで机まで運んで来た。あいにく机には大柄な書物を置くに足る空き地が用意されていなかった。水鶏氏は其処此処に散らばった古本を片手で掬っては、机の縁すれすれにあわや崩落せんばかりの不均衡な本の山を築き、かつがつ捻出した平面を手の甲でさっと一払いした後、胸に抱えた書物をそこへ横たわらせた。
常日頃から書物を大切に扱う扱い方が自然に流れ出る一連の所作は、水鶏氏の書物に注ぐ愛情がうやうやしいまでの段階に至っていることを如実に伝えている。のみならず、特異な書物との間で見神的な反応がこの人に生じるとして、それを人並み外れた書物信仰から誘発された幻影だなどと一笑に付すのは的外れもはなはだしい。書物と合流して躊躇する暇もなく別様の世界へ連れて行かれたのも、この人ならではのことだろう。
あらためて正面に戻り腰を下ろすと、水鶏氏は顔を横にそらして暫く半身の格好で机の傍へ脚を伸ばしていた。さっきまで指を接していた石は氏の庇護のもとに安座していると思われたが、今ぼんやりと視線を遊ばせている氏の姿を見ると、中央に座して部屋を丸ごと守護しているのは、ほかならぬ石の塊であったという気がして来る。
「先ほどお話ししたか忘れてしまいましたが、初めて私を拉し去った書物が偶々あなたのご本であったのは動かし難い事実です。これがほかの書物にも敷衍される現象であるかはこれから穿鑿して行くことでありますが、さてどうなりますか。
米国人から見ると、日本人がハリマンを裏切つたと謂ふ感が起らぬでもなからうが、併し少しく反省するならば、日本と戦はずに済んだと謂ふことは、一利権と比較にならぬ程大きな福祉であつたと悟り得るであらうことを私は疑はぬのである。若、当時ハリマンが成功して、米国人が満州に乗り込み、日米共同経営でも行はれたとすれば、その後如何になり行つたであらうか、当時に於ける日米間の資本、技術、人的要素等の差から考へて見て、米人が必ずや勢力を占めたであらうし、又彼等の無邪気な傍若無人の気質から考へて、其の勢は非常なものとなつたであらうことは想像に難くない。そこで満州は事実上重要なる米国の植民地化した、若くは化せんとしたであらうことも想像に難くはあるまい。斯かる事態が招来された時に、日本人は果して黙して之を座視し得たであらうか、私は否と答ふるに躊躇しない、露西亜の満州占拠は排撃するが、米国のそれは許すと謂ふ事があり得ようか。
我が生命線たる満州に横暴を働く国は、其の何国たるを問はず、日本は等しく排撃するのである。それが露であらうが、米であらうが、英であらうが、結局は之と戦ひ之を斥くるにきまつてゐる。何人が如何やうに意識しやうが、さうなるのが運命であり、歴史的必然であるのである。即ち小村侯の一挙が図らずも日米戦争を予防したのであつて小村侯は実に米国民からも感謝されてもよいと思ふ。
(「興亜の大業」 松岡洋右)
文字めいた外形の解読に気を取られていたが、書物は書かれた文字の声を運ぶだけでなく、文字との呼応を差し置いてそれ自身として声を発することがあるのだと水鶏氏は説いている。文字を書き記した人の思念や想像をかけら一つ残さず袖にして、書物が秘かに編み上げている別世界を直に物語ることがあるという。水鶏氏に別世界を展開してみせた書物は、その世界が実在する証跡を留めるために、半醒半睡の雲霧の中で見聞きしたことを脳裡に固着できる氏の感官を殊更選んだのだろうか。
書物の声が水鶏氏にしか見えない、聞こえないものであると認めるのは吝かでないのだが、一方で、そのもの(書物とも偽書物とも判然としないもの)を手許で温めて飽かず向き合っていれば、もしかして私にも見えたり聞こえたりするのではないかと、根拠のない望みが油然と湧いて来た。私も選ばれてある存在に含めてほしいなんぞと、あきれた自惚れがうかつにも顔を覗かせてしまったのである。凡庸な人間をねらって期せずして台頭する過剰な自負心を恥じて、即座に苦い自己嫌悪の感情が胸に逆流して来たのはせめてもの救いだった。
空回りする私の葛藤を知るべくもなく、水鶏氏はゆっくりと体を移して机を回り込むと、私の後方に当たる部屋の隅へ向かった。ドアのある壁面伝いの右隅に、流線型をした背もたれがついた華奢な椅子が一脚据えられていた。赤いビロード張りを施した座部には、私の送った書物が静粛に鎮座している。その沈着の佇まいは、明かりの行き届かぬ部屋の片隅で、いずれとも利害を共にしない賓客が、目を伏せて私たちのやり取りにそっと耳を傾けていたかのようである。
◯露伴に「竹頭」といふ随筆集があり、漱石に「木屑録」があるが、元々竹頭木屑といふ成語があるのを、漱石は木屑を擇み露伴は竹頭を採つた。曾て雑誌「革新」から頼まれて露伴翁と対談した夕、たまたま竹頭木屑の字義から、話は陶侃(かん)の事に移つていつたのだつた。翁の言ふところを聴くに、
陶淵明の前人に陶侃といふ人がゐました。これは大層立派な、心掛けのよつぽど違つた人ですね。……小吏から軍人に、後には大司馬までになつた、正しい、そして立派な、まあ豪傑ですね。……それで陶侃運甕といひまして、閑なときは自分の家で百箇の甕を、あつちにやつたり、こつちにやつたり、朝に夕に。……それはただ躯を安逸に馴れさせないためだつたのです。だから、甕そのものには意味がないんですが、まあさういつた心掛けの人で、よつぽど面白い偉い人ですね。さういふ人でして、船を造つたときの竹頭木屑を、そんなつまらぬ竹の切れ端や鋸屑(おがくず)を拾つておかせて、そして役所の前が雪解で道の悪い折、その鋸屑を撒き散らして出入に困らぬやうにし、竹頭はまた竹針にして、桓温が蜀を伐つときの小船早作りの用に立てました。役に立たないものも役に立つこともあるといふやうな訳も搦んで、竹頭木屑といふ字面は晋から用ゐられてゐるのです。……
(「續露伴翁座談」 鹽谷贊編)
なるほど、肝心の書物を送り付けたのは私である。ただ、書物の由来、来歴について何一つ知るところのない私は、表紙の肌触りに魅了され、そこに敷きつめられた文字の如き黒い徴を眺めるにつけ、字書にない文字を単純に面白がり、どこのどいつがこんな書物をいたずらにでっち上げたのか知りたいものと漠然と思っていたに過ぎない。あいにくと言うか、順当と言うか、そこに声を感じ取り、水鶏氏が経験した別世界を垣間見ることがなかったせいで、この書物が内包しているであろう喚起力とやらにはついぞ気が付かないで日を送って来たのである。
その立場からすると、水鶏氏の挙げた疑念にもう一つ、そのような別世界の発現は水鶏氏に限って起きたことなのか、誰にでも起こることなのかもできれば付け加えてもらいたいものである。もっとも、自分が愚かな奴だと判明したからといって、人一般が愚かな存在であると論理的に帰結できるものではない。それと同じで、水鶏氏に起きたのだから私にも起きるのでしょうかと水鶏氏本人に尋ねるのは、相当間抜けな質問を浴びせることになりかねない。声に出す前に良く吟味する必要があるだろう。
変梃な書物であればこそ身近にあることを喜ぶぐらいの書物愛は備わっているつもりだが、書物と感応する能力がこちらにない場合は文字で読み取る想像世界のほかにある別世界に参入することができないのというのであれば、いくら無比の書物が私の掌中にあっても宝の持ち腐れである。なにやら水鶏氏だけが宿命的に選ばれた人であるとなると、私はその事実を導くためのただの一駒に落ちぶれてしまうことになり、なんとも残念でたまらないのである。
レオナドの生涯は実に高潔にして、悲惨である。語らぬ恋の力が老死に至るまで一貫してゐるのは云はずもあれ、渠を師とするものゝうちには、師の発展のはかばかしくないのをまどろツこしく思つて、その対抗者の方へ裏切りしたのもあれば、また、師の人物が大き過ぎて、悪魔か聖者か分らない為め、迷ひに迷つて縊死したのもある。また、師の発明工風中の空中飛行機を――まだ乗つてはいけないとの師の注意に反して――熱心の余り乗り試み、墜落負傷して一生の片輪になつたのもある。そしてレオナドその人は国籍もなく一定の住所もなく、きのふは味方、けふは敵国の為め、たゞ労働神聖の主義を以て、その科学的な多能多才の応ずるところ、築城、建築、設計、発明、彫刻、絵画など――殊に絵画は渠をして後世永久の名を残さしめた物だが、殆ど凡て未成品だ――を平気で、あせることなくやつてゐる間に、後進または弟子であつて、又対抗者なるミケランジェロやラファエルなどに圧倒されてしまつた。
僕はその大エネルギと絶対忍耐性とを身にしみ込むほど羨ましく思つたが、死に至るまで古典的な態度を以つて安心してゐたのを物足りない様に思つた。デカダンは寧ろ不安を不安のまゝに出発するのだ。
こんな理屈ツぽい考へを浮べながら筆を走らせてゐると、どこか高いところから、
「自分が耽溺してゐるからだ」と、呼号するものがある様だ。またどこか深いところから「耽溺が生命だ」と、呻吟する声がある。
いづれにしても、僕の耽溺した状態から、遊離した心が理屈を捏るに過ぎないのであつて、僕自身の現在の窮境と神経過敏とは、生命のある限り、どこまでもつき纏つて来るかの様に痛ましく思はれた。
(「耽溺」 岩野泡鳴)