美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

スタンダールから得る痛切な教訓(谷崎潤一郎)

2018年09月23日 | 瓶詰の古本

「大菩薩峠」は次第に気分小説になつて来たので、筋が冗漫になり、組み立ての緊密さが欠けてゐるのは是非もないが、組み立てと云ふ点で近頃私が驚いたのは、スタンダールの“The Charterhouse of Parma”である。此の小説は英訳で五百ページからある。日本語にしたら千ページにもなる長篇で、ワーテルローの戦争から伊太利の公国を舞台にしたものだが、話の筋は複雑纏綿、波瀾重畳を極めてゐて寸毫も長いと云ふ気を起こさせない。寧ろ短か過ぎる感があるほど圧搾されてゐる。書き出しからワーテルローの戦場迄が幾らか無味乾燥な嫌ひはあるが、しかし元来スタンダールと云ふ人はわざと乾燥な、要約的な書き方をする人で、それが此の小説では、だんだん読んで行くうちに却つて緊張味を帯び、異常な成功を収めてゐる。若し此の内容を、くだくだしい会話を入れたり、叙景をしたりして、新聞小説的に書いたら恐らく「大菩薩峠」ぐらゐの長さにすることは何でもなからう。詰まりそれほどの長さのものを五百ページにきつちり詰めて、殆んど一ページ一ページに百ページもの内容を充実させてあるのである。だから寸分の隙もなく無駄もない。葛藤に富んだ大事件の肉を削り、膏を漉し、血を絞り取つてしまつて、ただその骨格だけを残したやうな感じである。而もその中に出て来る王侯宰相才子佳人の性格は皆悉く驚嘆すべき鮮明さを以つて浮き上がつて居るのだから偉い。主人公のフアブリチオは云ふ迄もないが、宰相のモスカ伯爵、此れが実によく描けてゐる。仮りにも一小国の宰相を捉へて、その幅のある大きな性格、機略、聡明、熱情、嫉妬、恋愛等の複雑なる種種相を書き分けることは大変な仕事だ。然るにそれが実に簡結に、所に依つては十行二十行の描写でさつさつと片附けられて行く。筋も随分有り得べからざるやうな偶然事が、層層塁塁と積み重なり、クライマツクスの上にもクライマツクスが盛り上がつて行くのだが、かう云ふ場合、余計な色彩や形容があると何だか嘘らしく思へるのに、骨組みだけで記録して行くから、却つて現実味を覚える。小説の技巧上、嘘のことをほんたうらしく書くのには、――或ひはほんたうのことをほんたうらしく書くのにも、――出来るだけ簡浄な、枯淡な筆を用ひるに限る。此れはスタンダールから得る痛切な教訓だ。

(「饒舌録」 谷崎潤一郎)

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偽書物の話(百五十九)

2018年09月19日 | 偽書物の話

 「ええ、左側の方だったと思います。けれど、もしも目を皿にして挿し絵の隅から隅まで探り回り、私の面差しを彷彿させる所がどこにも見出だせないとき、当事者を僭用する私が一方の人物をそれと名指しするのに意味があるのでしょうか。画面に二つの絵姿があって、第三者の目に私と相似た部分が全く映じないのであれば、そのどちらもが私に似ていると言って構わないことになってしまいます。私に似通って来る人物の容貌は、頁を繙いて対面するたびに挿し絵の中で変貌を遂げていますが、もう一人の人物を象る描線は(本来当たり前ですが)一寸一分変状がありません。
   挿し絵に顔が複数描かれているので、書物を繰る都度に変わる顔と変わらぬ顔があって怪態な現象が起きていると嫌でも気がつきます。しかし、たとえ一つの顔しか現れない絵頁であっても違和感が惹き起こされるのは同じで、紙の上に物した顔が变化し、しかもそれが私の風貌に近づいて来る、そのような二重に怪態なことが進行していると承了せざるを得ません。深い皺の褶曲する老人の面体に変遷の兆しのないのが私にとって幸いであるかないかは、思案の外にあります。みだりな贔屓目に晦まされて妄覚に沈んだと仄めかすのと裏腹に、男の顔立ちは私のそれへ似寄り来たって変相しているというのが、黒い本が仕組んだと懐疑される計略事なんです。」

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ダーウィンならではの謙徳(W・ジェームズ)

2018年09月16日 | 瓶詰の古本

ダー氏の簡単なる自叙伝中に、能く色々の場合に引用せらるゝ一節がある。夫れが此習慣の問題にも関係して居るから、茲に亦引用しやうと思ふ。氏は次の様に言つて居る。「三十頃或は其れ以上になる迄も、私は種々なる詩を大変に楽んで居つた。実に学童時代に於てさへ、私は非常にークスピーヤの戯曲が好きであつた、殊に歴史的のものが好きであつた。所が其の後多年の間、私は僅に一行の詩すら読むのが嫌ひになつた。近頃ークスピーヤを読まうとしても、夫れが誠に嫌で、吐気を催す位である。絵画や音楽に対する趣味も殆んど無くなつて了つた。………‥で余の晩年に於ける精神は、唯事実を沢山蒐集した中から、一般法則を抽き出す為めの一種の機械となりたるらしく思へる。併し何故に高尚なる趣味を司る脳髄の部分のみが萎縮してしまうたのであるか、其の理由は一向解らぬ。………‥余は今若し自分の生涯を更に造り直すことが出来るならば、少くとも毎週一度宛は詩を読み、音楽を聞くべき規則を作る様になると思ふ。何故かなれば、斯くすれば今萎縮して居る脳髄の部分は、平生使用の結果、生き続けて居ると思はるゝからである。此等の趣味をなくしたのは実に幸福を失つたので、而して此の趣味の失却は知識の害となるのであらう。特に人生の感情的方面を弱めるから、道徳的性格の上には一層害となると思ふ」

(「教育心理學講義」 ウイリヤム、ゼームス原著 福來友吉譯)

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偽書物の話(百五十八)

2018年09月12日 | 偽書物の話

   迷乱する机に現出した平滑面へ黒い本の裏表紙を安着し、水鶏氏は間髪を入れず扉を起こして見開きに不自由しないだけの封域を確保した。とりあえず本の重量から解放されたはずみで跳ね上がり、つま先立ちそうな体を持ち直し、机の縁へ腕木を食い込ませんばかりにして椅子を後ろ手で引き寄せ腰を下ろす。本の頁へおもむろに指を割り込ませ、挿し絵のある箇所へさしかかると、絵頁をゆっくり繙き層一層平たく展げた。
   私は目立たぬ程合の中腰になり、天地逆しまな挿し絵を窺った。水鶏氏が掌で押さえた絵頁には、二人の男の向き合った横顔、その遠い背景では湾へ突き出た岬へ続く砂路が霞の海に溶けている。男は若いのと年寄りのと二種類の顔があり、視線をはじめ何もかも両者の間に交錯するものはない。
   「あなたが似て来ていると思われるのは、例えば左側に描かれた若い方の人物の顔ですか。」
   にわかに返答できない頃刻の時間稼ぎのため、あからさまに偽書物へ近づいて首を思い切り傾げる。画面の天地はほぼ逆のままだが、右側にある男の顔には、額、目尻、口元と何本もの皺がはっきり刻まれ、私と似ても似つかない、むさい風貌と一擲するのが情理に最も適った決論である。

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大正十二年のロボット観(下中芳岳)

2018年09月09日 | 瓶詰の古本

ロボツト(Robot)

人造の人間。ボヘミアのある作家の作つた社会劇の名。資本家で科学者であるその主人公は人の如く働き、人の如く物言ふ、人の如く食事する人間、但し、子を産まず、魂をもたぬ人造人間を製造することを発明し、これを売出して大もうけをしたが、このロボツトが、いつのまにか魂を有するやうになり、人間に反抗するに至つた。然るに人間は既に永らくロボツトに働かせて、自分は働かないで、生きてゐた結果、すつかり肉体的勢力が退化してをり、ロボツトの反乱をどうすることも出来ないでほろぼされて了ふといふ筋。人間は、機械を利用するために製造するが、しまひには、反つて機械の力に征服されるとの意を偶したものである。

(「ポケット顧問 や、此は便利だ」 下中芳岳編著)

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偽書物の話(百五十七)

2018年09月05日 | 偽書物の話

   見るところ軽からぬ体躯と、それに本の重量が加わって、水鶏氏の背は自ずと丸まって来る。体腔に膨らむ想念の澱を勘定に入れれば猶のこと、佶屈した姿勢は不思議でも何でもないのだが、それにしても椅子の中へ潜り込み過ぎではなかろうか。あれは、黒い本の扉を開くに必要な最低限の隙間を得られないで暗黙裡に椅子と張り合っていると推定するのは、さほど礼を失した穿ちではない。
   黒い本を抱え両肘が椅子にスッポリ嵌まっている状況で、水鶏氏は腰の辺りをゆっくりと見回し、次にあきらめ勝ちな眼差しで机の右端から左端まで見渡した。最前、モーメントを無視してぐらつく起重機となった私が偽書物を吊り上げてできた跡地には、急場しのぎに仮積みしていた本が音もなく雪崩れかかり、段丘形に重なり合って卓上の稀少な平場を埋め尽くしている。
   水鶏氏の焦心は時をおかず正対するこちら側へ伝染する。私は思い切って腰を上げると、不可侵の領域へ声なく突貫し犇めく動乱に飢えた書物どもを机の縁端へ押し返しては馬鹿丁寧に積み直し、水鶏氏のため、ひいては偽書物のために千金の空き地を拓いた。水鶏氏は抱えた黒い本を斜めに傾げたり腹の上で踊らせたりして、しかもどの角も傷めず潰さぬよう細心を注ぎ、怪力雷電のかんぬきに挫けぬ必殺の気迫で椅子の剛腕から肘を振りほどき、地ならしした空間へしずしずと進み出た。

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極度に鋭敏な感覚の人たち(萩原中)

2018年09月02日 | 瓶詰の古本

   ゲーテには友人の危篤か死などは、いつでも少しあとにならなければ聞かされなかった。かれがあまりに衝激をうけすぎたからである。
 ドイツの天才的「詩人ヘルダーリンもまた異常に多感繊細な、庇護を必要とする感情素質をもち……その心情はすでに健康なときからほとんど常住的に傷ついていた。かれの繊細孤高な魂……と人間界の粗野な、人を傷つけやすい現実との間には深い溝がよこたわっていて、これを跳び越えることは彼の魂のなしえないことであった。」(クレッチェマー)
 ブラウンはゾラについていっている。
「ゴンクールの日記によれば、ゾラは大変病気勝ちで憂鬱症で、おそろしく神経質であった。かれはいらいらして小さなことを気にかける、大変熱中やすい、複雑な、まさしく謎のような人物であったらしい。」
 バルザックは自分の強い感受性についていっている。
「甚だ不適当にも才能とよばれているものの源泉は、多分わたしの極端な感受性や、わたしの孤独な生活や、わたしを絶えず迫害している不運のなかに求められるだろう。」
 ロンブローゾによればフローベルは、
「もし過敏な神経が詩人をつくるなら、わたしはシェークスピアやホメロス以上の詩人かも知れない。……わたしは戸を閉めていても三十歩以上向うで低声に話しているのを聞くことができるし、ひょっとするとその人たちの心臓の鼓動まで聞くことが出来るかも知れない。」
 ユゴーに関するデューマの演説に次のような一節がある。
「かれの目は万物を拡大した。かれは草を木のように高く見た。昆虫を鷲のように大きく見た。」
 あの容易に激動しなかったかに見えるゲーテも、
「わたしの性格はとかく極端に走りやすい。非常に喜ばしいと思うと忽ち悲しくなる。」といい「知識を増すごとに悲哀がふえる。」
 といった。かれは一生涯を通じて愉快な日をおくったのは僅か四週間だけであったと語ったそうである。

(「われらの天才問題」 萩原中)

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