美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

曇った光

2014年08月31日 | 瓶詰の古本

   瀬盗りのためには、ある程度の目利きの術や知識の蓄積が必要と思われるかもしれないが、そんな目利きの修練なぞは、瀬盗りの浅ましさをいっそう際立たせるだけのものでしかあるまい。邪剣をいくら磨いたところで、磨けば磨くほど濁りの塵にまみれた曇った光しか放たなくなる。その光は、あるがままに納まったなまくら刀の鋼の光に遠く及ばない。
   ましてや、新古書屋や巷の古書展に入り混じり、人に先んじて金目のものを漁ろうと血眼になっている瀬盗り以前の徘徊者がいることは、一定割合で社会に淀む浅ましさの病弊指数を如実に露わにしているだけなのだろうが、そして、そんな陰鬱が今や古本界隈に付き物になりつつあるということは重々承知していても、現実として電子端末を用いて値踏みするあからさまに人も無げなその面貌には思わず吐き気を催さざるを得ない。相場やカジノといった世界にも受け入れられない不如意な輩が、ネット商売を目論んで古本にまで貪猥の手を伸ばすサマザマは、大袈裟に言うならば、この先文字に書かれるであろう世界の行末を予告しているかのようだ。

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死の海に泛ぶ生の美の象徴(横光利一)

2014年08月28日 | 瓶詰の古本

   佐々木君の所から支那哲学の書を買つて来たのを読み終つたが、少しも要領を得ない。孔子の次ぎの時代にギリシャのソフィストに似た一群の隠者たちの思想に、私のまだ知らなかつたものが多かつた。文明を支へてゐたこれらの名も知れぬ高度の知性は、その高級さのために滅んでいき、吾吾に残されて来たものは概念の強い平凡な骨だけだといふこと。しかし、この骨を叩いてみて肉の音を知るには、よほどの年月を必要とすることだらう。先日、佐藤正彰君が東京から見えた折の話だが、同君の父君は漢学の大家の正範氏で先年七十幾歳で亡くなつた学者―― この学者は専門七十年の漢学の末、説文と称する文字の起源を調べる学門に達して亡くなられたが、これはまだ殆ど誰も手をつけたことのない学門の部とされてゐる。
「あなたの専門のフランス語も七十年もかかりますか。」と私は訊ねてみた。
「そりや、かかるでせう。」
「ぢや、文学は一番かからないといふわけになりさうだが、かかるかな。」
「そりや、かかる。」
「ぢや、まだ僕は二十年だ。」
   よろし、もう二十年、と、こんなところでどちらも笑つてから、その後で久左衛門に会つたとき、農家の仕事のうちで何が一番難しいかと私が訊ねると、
「種を選ぶことだの。」と即座に答へた。
   どの田畑にどの種を選んで播くかといふことの難しさは、六十八歳になつた達人久左衛門も、これだけはまだ分らぬとの事だ。おそらく一生かかつても分りさうにもないといふ。私らも連作してはならぬ茄子だつたり、トマトだつたりしてゐるのであらうが、誰も訓へてくれるものではない。自分を工夫するとはどうすることか、それさへ誰も云つたものはない。いや、自分がトマトか南瓜かそれも分らぬ。七十年、百年たつても――。ただ一生の間にちらりと蝶の来てくれること、そればかり待つてゐるのだ。支那の隠者たちは空しく死んでいつたのであらうか。篆刻の美は、死の海に泛んだ生の美の象徴ではなかつたか。

(「夜の靴」 横光利一)

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同体の異態

2014年08月26日 | 瓶詰の古本

   夜分に文字を書く自分と昼間仕事机に向かう自分とは、一の同体であり、かつ、相互に渉ることのほとんどない異態によって分有されている。一方で生活意識の地盤を形造り、時にそこから跳び上がって暗闇から文字を掴んで来ると仮説すれば、それはそれで読みやすい話になる。しかし、この同体にはそのような共存関係というか、都合良く交感する能力はない。また、同体の内に任意の境界線を引いて棲み分けしている異態がある訳でもない。別世界の並行時間を複層的に経験している異態があるらしいというのが実情に近いのではなかろうか。
   かと言って、同体を一つの舞台として同時同刻に二つの異態が立ち現れるといった分裂した割り切り方ではない。書き始めない限り文字が滴ることはない。立ち止まって内心をなぞらない限り思考が文字に凝ることはない。筆を持たない時の自分こそが、筆に支配されない本来の自分のようでもあるが、筆を持った時から自分の時間が始まるのだと言いたがる声がある。いずれにしても、文字を書く自分は日給稼働者たる自分とはそもそもの異態であるのだから、両つを並べて詮議すること自体がナンセンスなのかも知れない。どちらかがどちらかの支持層や下部工の役割をになっているのではないし、相互に対象を意識することはできるが干渉することはできない。お互いの異態へ秘密裏にそっと忍び込み影響を及ぼすといったことは元々起こり得ないのである。
   わずかにお互いの意識を表立って交わすことのできる隘路なす時間と場所といえば、古本屋の均一台ということになってしまう。ここだけは、どちらの異態にとっても唯一嗅覚レベルで馴染んだ安息の栖家であり、同病相哀れむ宿痾の床なのである。

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先史時代の発見(清野謙次)

2014年08月24日 | 瓶詰の古本

   西洋でも昔は日本支那同様に石器は雷神の投下する天降物だと考へられて、之を所持する時は種々の場合に効能があるものだと信ぜられた。西暦千百年頃にレンヌ僧正は雷石が雷避け悪夢避け、海上安全、戦争勝利に効あるものと説いて居る。其後にも諸説が出たが大体之に似た程度のものであつた。一七二三年になつてジッシュが世界諸地方から旅行者の持参する石器が欧州石器と同一種類のものなる事を注意し、一七二四年にラフィタウが世界各地の自然民族の風俗と欧州古俗と類似せること多きを注意して、比較土俗学の端緒を得るに至つて石器人工説がぽつぽつ行はるゝに至つたが、此部分に就て深く考察することは宗教上の理由から邪魔せられた。それで先史学上の研究は一八五〇年頃までは公表をはゞかつたし、又場合によりては公表する事を禁ぜられた。
   然し地質学研究の進歩と遺蹟の実地発掘とはノアの洪水説を否定して先史時代の存在を承認するの外は無くなつた。一七七八年ブフォンの雷石の研究、一八二三年ブウェのライン川上流に於て発掘せられたる古人骨の研究、一八二九年コリストルのガルド洞窟の発掘、一八三三年スメリンの白耳義に於ける洞窟の発掘等は此時代に於ける研究の代表的なものであつた。
   地質学と博物学との進歩は遂に進化論を産んだ。そして之によりて自然科学は宗教から開放せられて、先史学の研究は自由なる立場を見出した。それで一八四七年ブシェドベルツ「ケルト人及洪水以前の遺物」、一八六三年のサー・チャーレス・ライエル「人類歴蔵の地質学上の証蹟」等によりて先史時代の存在は動かす可からざるものとなつた。

(「日本人種論変遷史」 清野謙次)

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桃花源への潜戸

2014年08月21日 | 瓶詰の古本

   どこやらでひょっと見出した潜戸を抜け、あるいは、とある道を辿って行くうちに、いつの間にか別世界へ入り込んでいたという言い伝えの記憶は、古今東西に偏在するもののようである。そこに道があるとするだけでもまだ多少の実意が感じられる。これが、気が遠くなるはずみとか渦に巻き込まれるとかして別世界へ至ったとなると、さすがに安直に思い付く模倣の粉飾と見えてしまう。
   この世界から異域・異次元の世界へと渡る手立て、非合理に興ざめすることのない流麗な手際を思いつくことは確かに至難の技であり、それを現実味のある言葉によって編み出すことができるとすれば、それだけで衆人の追随を許さぬ独創性の証しを立てたことになるというものだ。失われた世界や地底、海底深く高雅に栄える王国、あるいは遥か火星世界まで、そこへ至る道は、空想科学小説家の想像力の飛翔にとどまらず、まぎれもなく真正の物理学的原理に裏打ちされた実在の潜戸にあるのかも知れない。そんな妄想が一気に募るほど、その道若しくは潜戸の探索と創出は魅惑的な事業であり、かつ、生得的な頭脳の天才を凡愚から峻別する悪魔の不平等を正当化する有意義な発見となるに違いない。

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三つのものから組み合わされたもの(ノヴァーリス)

2014年08月19日 | 瓶詰の古本

   人間には自己以外のものとなる能力、意識的に感官の彼方にあり得る能力が欠けてゐるといふのは最も勝手な偏見である。人間はいかなる刹那にも超感性的な実在であり得るものである。この事ができないとすれば人間は人類でなくして、一箇の動物であらう。もとよりかかる状態に於ける自覚といふことは非常にむつかしい。何となればこの状態は吾々のそのほかの諸状態と絶えず必然的に結びつけられてゐるからである。しかしこの状態を自覚し得れば得るほど、これから生ずる確信、即ち精神の真の啓示の信仰がいよいよ旺盛に力づよく、争ふべからざるものとなる。それは見ることでも、聞くことでも、触れることでもない。この三つのものから組合せられたものであつて、これら三つのもの以上のものである。直接な確実さの感じであり、我の最も真実な、最も固有の生命の直感である。

(「ノワ゛ーリス」 小牧健夫)

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2014年08月17日 | 瓶詰の古本

   子供がベランダの手摺りから乗り出して大声で叫ぼうとしているので、あわてて止めさせる。しかし、考えてみると、ベランダの向うにはすぐ海が広がっていて、外にいる誰彼に迷惑がかかるということはあり得ないのだ。集合住宅は海のはたに突き出て建っているのだが、ほかには誰も住んでいる気配がなく、ただこの一家族が住んでいるばかりのようだ。
   海から風が吹いてくる。絶え間なくカーテンをはためかせて吹いてくる。すがすがしくてとても気持ちが良い。横になってテレビを見ていると、傍らに座っていた子供の鼻の穴から空色のかたまりがにゅーっと伸びて出てくる。枝豆の形をしたおもちゃで、長さが70センチ位はするだろうか。青いさやの中には、ソフトボール大の緑色の豆が三粒おさまっている。タオル地とスポンジ製の柔らかいおもちゃだが、小さい頃に鼻の奥へつめ込んだまま忘れてしまっていたのが、今頃になって出てきたものらしい。だから、そのせいで何となく頭がぼうっとしたまま来てしまったのかなあ、と子供が尋ねる。
   こちらが答えるのを待たず、母親に教えてくると言って、ふすまを開けっぱなしにして部屋を飛び出て行ってしまった。海から潮の風が吹いてきて鼻の穴を通り過ぎて行くのが、ますます心地良い。

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赤い笑の風(アンドレーエフ)

2014年08月14日 | 瓶詰の古本

   新聞紙は毎日軍隊輸送の必要を説く。更に血を流す必要があると云ふ。如何(どう)いふ訳だか、私は愈々分らない。昨日奇怪千万な論文を読んだ。その説に、国民中にも軍事探偵、売国奴、謀叛人が沢山有るから、銘々戒心して十分に注意しなければならんが、国民の公憤に照されては、此極悪人等も遂に其跡を晦ますことは出来まいとあつた。此極悪人等とは如何(どん)な人達の事で、如何な悪事を働いたのだらう?停車場を出て電車に乗つたら、車中で変な話を聞いた。大方其極悪人達の噂をしてゐたのだらう。
「さういふ奴等は裁判も何も有つたものぢやない、卒然(いきなり)絞罪に処しツ了(ちま)ふが好いのです。」と一人が言つて、胡乱さうに皆を視廻した序に、私の面(かほ)をも瞥(ちら)りと視て、「謀叛人は絞殺(やツつけ)るに限る。」「用捨なくな。」と今一人が合槌を打つて「もう散々用捨して遣つてますからな。」
   私は電車を飛降りて了つた。皆戦争には泣かされてゐる、彼人(あのひと)達も矢張然うだらうに、―― これは又如何(どう)した事だ?如何(どう)やら絳(あか)い霧が大地を包んで人の目を遮り、實に世界の破滅が近づいたやうに段々思はれて来る。兄が見たといふ赤い笑が是れだ。かなたの血みどろの赤黒くなつた野から、狂乱の風が吹いて来て、大気の中に其冷たい気息(いぶき)の伝はるを覚える。私は屈強な男だ、病で身体を壊した為に脳髄が溶(とろ)けて来たのではないが、病毒が伝染して私の心の半(なかば)はもう私の自由にならぬ。これはペストより悪い、ペストより怖ろしい。ペストなら、まだ何処へか躱(かく)れる法もある、何かしら予防法を施す事も出来るが、遠近もなく、障隔(へだて)もなく、何処へでも徹(とほ)る思想には躱れる道がないではないか?
   昼はまだ凌げるが、夜になると、私も人並に夢の奴になつて了ふ、―― その夢が又怖ろしい気狂染みた夢で………

(「血笑記」 アンドレーエフ 二葉亭四迷訳)

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この上なく勁い情念

2014年08月12日 | 瓶詰の古本

   純粋か、不純かには全くかかわりなく、この上なく勁い情念とは、この世界がある神意、ある目的の成就のためにつき動かされていると信じ生きようとする心に棲むものである。しかし、世界に遍く光明を照らし与える神威はただひとつきりしか存在し得ないという思念こそが現実を唯一正しく見透すのだと信じることができるほどに人間はお目出度く出来上がっているものだろうか。いつの日か、世界挙げてただひとりの神人の光波に浴し、その前に悉皆ひれ伏す。神人が言い遺した経典に則って寝起き飲食排泄をする。あるいは、無比の聖言を仰いで生涯を量られる時来たると告げ知らせる声音に酔い痺れ、感極まって昏倒する人々が地上に溢れ返る。そんな光景を、人間に賦与された根源的に得体知れぬ精神、何ものをも軽んずる不逞な精神に思い描かせることができるとでも言うのだろうか。
   神秘的で魅惑的な高調する精神の発露のようでもあるが、それは、あらゆる魂に通有するはずのない浮説から遠くない。世界をありのままに捉える人にとってみたら、あるいは底の割れた誣言にすら通じる想念になりかねないものだ。にもかかわらず、自ら仰ぎ見る価値観に地上あまねくがひれ伏し、その指教によってのみ汚濁の世界は救われ、人類の幸福は完整すると信念する人々がある。そして、不測の好機に巡り合って力を獲た人間は思うがままに負の妖力を振り回し、どこまでも人に及ぼし尽くし(滅ぼし尽くし)て来たというのが本当に起こったことである。事実は、無量の血文字の記録によって刻まれているが、しかし、血文字の記録は人に読まれなければ無いも同然であり、累々と山のように堆積されて伝えられる記録、追憶の文字は、言うまでもなくそれを直接読んだ人にしか訴えることができない。
   それ故にこそ、この上なく勁い情念は幾度となくこの世界を覆い、機会あるごとに何度でも同じ災厄を世界にもたらすことができるのだ。遺された血文字が一文字あれば一文字を消し、数万語あれば数万語を滅却するのがこの上なく勁い情念の宿願である。まして、文字以外の口承など自然の風化、忘却に追い遣るのは、これまた文字に記録されている通りである。そんなこんなで、起こった現実が生き延びるのはどうやら文字の記録の中だけであり、記録の文字は人に読まれなければ無いも同然、無かったも同然の運命を背負いつつ、自ずから否も応もなくかすれ廃れて行くことになる。これもまた、血書の中に記されてある通り。

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アラヂンの霊燈(高橋五郎)

2014年08月10日 | 瓶詰の古本

   魔術師といふ語については大に注意を要するものがある。古代の哲人は多くは魔術家と呼ばれたものであるが、其所謂魔術師(Magicians,Mages,Magi)は今日の所謂魔術師(魔法つかひ)ではないのである。此語は元波斯語より出たものでマグ(Mag…)であつた。然るに波斯語(従つて又希臘語)のマゴス(Mados)は決して元悪鬼を暗示したものではなく、実は大或は強といふ語より来た者で、司祭及び哲人を呼ぶ名称である。而して此哲人は即ち今の所謂哲学者の事であつた。新約聖書馬太伝第二章一節及び七節に『東方のマゴス』といふ字で波斯、亜剌比亜等の哲学者を暗示してあるが、英訳に之をWise men of the East と翻訳したのは尤も宜しきを得たものである、仏訳には之をDes mages d'Orien と訳して、彼等が特殊の東洋哲人或は僧侶たることを示してある。此ワイズ・メンは即ち哲人で、哲学者たることを示すことは前述の通りである。但しカアライルが英雄崇拝論中に云つた如く、彼等の知識も智慧も当時に冠絶してゐたので、凡人から見れば、如何にも『魔術』であつた。
   支那語の魔は多分梵語のマラ(悪魔)という語より出来たのであらうが、魔業魔障なぞいふ魔と魔術といふ時の魔は語源が違ふのである。即ち魔術は哲人の術で、魔業は悪鬼の業である。若し漢字の魔は元波斯のマグより出で、其後仏経の悪魔(マラ)をも表すものとなつたとせば、其趣は上説と少しく異るであらう。
   之を要するに、古代の魔術師は往々にして偉大なる直覚力を揮つた者である。亜剌比亜物語の中に出てゐるアラヂンの霊燈ランプは、取りも直さず今日の電気を予表したのである。彼は土中の穴に降つて、一種不可思議の金属燈ランプを獲たが、之を摩擦ると意の儘に其欲する物が現出したと云ふ。電気は摩擦に由て生ずるもので、点燈用としてはラムプとなり、牽引用としては千万鈞の重きを引いて躍進するのである。斯る霊妙の力が天地間に存する事をシエヘラゼイドてふ美女子の口を以て最も優美に説き出さしめた、真に大天才の著作である。

(「人生哲学茶話」 高橋五郎)

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長い槍と古い炎

2014年08月07日 | 瓶詰の古本

   長い槍と古い炎とが彼の体の中を動きまわっている。やがては大きな身震いをしながら彼から去って行く、長い槍と古い炎がある。いつかその後を見送る目に映るなみだの素足には、彼の時代のすべてがまつわりついて流れて行くことだろう。
   彼がかつて悲喜の池に棲む水であったことを憶えている人はいない。母親の掌に掬われて滴った、かつて一粒の水であったことは誰もが忘れてしまった。ある朝、彼の前に言葉が現われて、悲喜の池から沈黙の表面光を奪い、そして、ゆらぎ昇る陽炎を遮った。その時、彼の内奥に長い槍と古い炎が生れた。人がみな使いたがるような重宝な道具ではない。あとから見出されるといった秘法じみたものではない。内奥から突き上げ、焼き焦がすものであり、彼を彼たらしめる鋭く熱いものである。

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南北両族長の戦闘史(沼田頼輔)

2014年08月05日 | 瓶詰の古本

余輩は、大和民族の起源地なる謂はゆる高天原を以つて、これを蒼々の天と見做す能はず、さりとてまたこれを以つて国内にありとも思はず。其の高天原より降臨せられし到着点の日向なるより、高天原の霊地は、これを南方に存するものとなせるものありといへども、謂はゆる大和民族は、大陸より渡来せるものなれば、まづ、高天原の霊地は、北方韓土の方面に存することを知るべし。大和民族固有の風俗なる墳墓築造の方法、祭器として用ゐられたる土器等、風俗上の関係は、日向以南に存せざるを見るも容易にこれを否定することを得べし。
大和民族の渡来は、前後二回ありて、一は出雲の方面に来りしものと、一は九州の方面よりせしものと是なり。余は便宜上前者を出雲派といひ、後者を高千穂派といふ、この二派は、共に同一系統に属するものにして、各南北に雄峙せしものゝ如し。思ふに、我が神代史は、是等両派の衝突媾和を繰返せるものにして、我神代史は、太古に於ける南北両族長の戦闘史と見るも可なり。

(「日本人種新論」 沼田頼輔)

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形あるものとは何ものか

2014年08月03日 | 瓶詰の古本

   眼球の中ほどに、自分の影法師がぼんやりうずくまった形をして映し出される。その周りには暗闇の吐く息があるばかりだ。鬼となる思いによって自らの死を喫する者たちがいる。そのことが、意味を明かさぬ自己という存在をしてわずかながら、どこかある方角へ向けて目を上げさせるのである。かすれた声を絞って、分別の届かぬ彼方へ咆吼させるのである。
   いっそ具象、個別のことなどはことごとく滅びなければならないと願う者がいる。それも一瞬にして滅びなければならないと空しく願う者は言う。常軌の方途を見失った双腕によって得体の知れぬ豊穣と法悦をむさぼろうとする心念は、あくまで土中深くに埋めなければならない。土中に埋めたならば、何十万年、何百万年の果てに至るとも地上へ現われることのないように始末しなければならない、と。
   それは、具象、個別な事物が持つ絶対的実在性への嫉妬から生れた願いではない。むしろ、強い憧憬の心から思わず吐き出されたもの、夢幻を浮遊する余りに繊弱な魂が、論破することのできない実在性の証しに対して抱く恋情から呻き出された錯乱にも似た願いであるのだろう。
   ただ、それにしたところで、実在性の天地を外れて震撼する魂に存在を委ねきった者たちは、具象、個別な事物という実数の証しからは決して生まれ得ない言葉を捜し探しては、それらを書き遺して行くに違いない。

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