美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

昭和二十年十月の言説(石原莞爾)

2015年11月29日 | 瓶詰の古本

   日本民族ほど相談を好むものは少からう。万機公論に決するは高天原以来の慣習である。然るに欧州風の憲法政治によつて、国民が政治参与の権利と義務を課せられて以来の政治訓練は甚だしく不充分で、議会開設後の選挙は官憲の干渉と議員の買収運動に禍され、自由主義政党が藩閥官僚を打倒して政権を握つた頃には、既にその腐敗が甚だしく、国民の信望は頗る軽いものであつた。
   満洲事変の勃発は欧州大戦以来不人気のどん底にあつた軍部を忽然として国民大衆の絶対的信頼の対象に押し上げてしまつた。これは国民の大陸政策強行に対する隠然たる欲望の現れであつた。ここで自由主義政党は一朝にして没落の運命を辿つたが、当時やや発展を注目されて来た社会主義諸党も、一挙に勢力を失つて自由主義政党に代るべくもなく、軍は何時の間にやら政治の推進力と称せられて有頂天になつた。革新主義者は右翼のみならず左翼の人々までもいはゆる軍の中堅に取り入ることに専念して、真剣に独力で政治組織の結成に努力するものは暁天の星にも及ばぬ有様であつた。
   然るに多年政党に圧せられてゐた官僚、特にいはゆる新官僚は、この機に乗じ軍に便乗して政治力の獲得に努力し、その権威を保持せんがために、民間より盛り上る政治組織の結成をあらゆる角度から妨害し、翼賛会、翼壮、翼政会の如き鵺的組織を成立せしめ、政治はますます低調となり、特に大東亜戦争勃発以後は言論の圧迫を強化した。
   一方、西洋教育の形式を模倣せる学校は、学科の教授に偏して生活と遊離し、例へば農学士は農業を以て衣食し得ざる有様となり、知識人を甚だしく無気力ならしめ、軍閥官僚の専制に屈従せしめた。
   かくて国民の殆ど大部分は去勢されて面従腹背の徒と化し去るに至つた時に、戦争に伴つて急速に拡張された形式的官僚統制の不合理は、一億国民を駆つて闇に突進させたのである。

(「マイン・カンプ批判 新日本の建設」 石原莞爾)

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乱脈の古本を生きるよすがとする

2015年11月22日 | 瓶詰の古本

   古本が身の周りを埋めている、そのことがたった一つの生きるよすがになるということはある。未来を望み得ず、希望すべき何ものも失われた境涯に放り出されたとき、身の周りに犇々と群れ立つ乱脈限りない古本の山から一冊また一冊と抜き出し抜き出ししては、忘れ果てていた古い面貌に出会うたび湧き起こって来るなんとも表現し難い奇妙な所有欲の反芻と充足感。
   傍目からすれば、狩った獲物を前にしたあさましい餓狼の舌舐めずりか、はた又まがまがしい百舌の速贄とでも形容するしかないこの心の震駭は、自ら蒐めた古本に転移して存在し続ける過去という滴玉に映る無量の文字を生死の彩絢としてのみ幻視する心、病から闇討ちを食わされるなかで生まれ落ち育っていた心の狂風と相呼び交わしているかのようである。

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悩ましい亡霊の世紀(フォスカ)

2015年11月15日 | 瓶詰の古本

   十八世紀は、金銀財宝を盗むこととか美しき婦女子を怯やかすことをしか念頭に置かなかつた実践的猟奇家の世紀でもあれば、また特に『形而上的、』幻想家的、神秘派的、秘密結社員的、催眠術的猟奇家と呼び得る徒輩の世紀でもあつた。彼等の多くは実践的であると共に形而上的でもあつた。その一例として降神術及び妖霊退散呪法と称する妖術を以て知られてゐるカザノヴァとカリオストロを挙げることが出来る。十八世紀は世に啓蒙の時代と言はれてはゐるが、亡霊の而も往々にして悩ましい亡霊の世紀でもあつた。
   一七四〇年頃以後の西部ヨーロッパでは、空想性の要求と、精神的にも肉体的にも苦しみ苛まれ怯やかされたいといふ激しい欲望とが各所に生れるに至つた。イギリスではヤングの『夜の嘆き』(一七四二年―四五年)に続いて、ウォルポールの『オトラントの城』(一七六四年)、ベツクフォードの『ヴアセツク』(一七八六年)、ルイスの『修道僧』(一七九六年)、マテュリンが一八〇七年から一八二〇年に至る間に発表した数々の小説、マリー・W・シエリの『フランケンシュタイン』或ひは『近代のプロメテウス』(一八一八年)があり、更にフーセリーとブレイクの絵画がつけ加へられる。ドイツにはゲーテの『フアウスト』とシルレルの『ガイステルゼーエル』に次いでホフマンのコントが現はれ、イタリーにはピラネーシの『カルチェリー』が現はれ、イスパニヤではゴヤの『サバの情景』が現はれたのである。然るにフランスだけは、サード侯の書物は別として、以上の如き情勢の伝染を免がれたらしい。それは、当時フランスは革命期にあつたため恐怖を芸術に求めるまでもなく、政治的諸事件が充分恐怖を覚えさせて呉れたからであらうと思ふ。

(「探偵小説の歴史と技巧」 フランソア・フオスカ 長崎八郎訳)

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生死分かち難くとも文字を追えるか

2015年11月08日 | 瓶詰の古本

   「嵐が丘」を書いた作者の心底にある作意。主人公を幸せにするも不幸せにするも作者次第であるということを、読者ににべもなく知らしめるために書かれた小説。主人公の運命を自在に翻弄させることによって、作者の影をはっきりと頁に落とすための小説、と同時に、ひょっとすると幸せ、不幸せに左程の差異はないことに作者自身書き進めているうちに気が付いて行く小説。あるいは、自分に起こりつつある不条理を受け容れるしかないことが必ずしも誰にとっても苦悩であるとは言い切れないのではないかと告げる小説。
   病患を得て生死の分かち難いことを思うとき、再読に堪えるかどうか試してみたい小説。

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金力や威力を濫用して立派な男だと云われる(夏目漱石)

2015年11月01日 | 瓶詰の古本

   「かう自分と気狂ばかりを比較して類似の点ばかり勘定して居ては、どうしても気狂の領分を脱する事は出来さうにもない。是は方法がわるかつた。気狂を標準にして自分を其方へ引きつけて解釈するからこんな結論が出るのである。もし健康な人を本位にして其傍へ自分を置いて考へて見たら或は反対の結果が出るかも知れない。夫には先づ手近から始めなくてはいかん。第一に今日来たフロックコートの伯父さんはどうだ。心をどこに置かうぞ……あれも少々怪しい様だ。第二に寒月はどうだ。朝から晩迄弁当持参で球ばかり磨いて居る。これも棒組だ。第三にと……迷亭?あれはふざけ廻るのを天職の様に心得て居る。全く陽性の気狂に相違ない。第四はと……金田の妻君。あの毒悪な根性は全く常識をはづれて居る。純然たる気じるしに極つてる。第五は金田君の番だ。金田君には御目に懸つた事はないが、先あの細君を恭しくおつ立てゝ琴瑟調和して居る所を見ると非凡の人間と見立てゝ差支あるまい。非凡は気狂の異名であるから、先づ是も同類にして置いて構はない。夫からと、――まだあるある。落雲館の諸君子だ、年齢から云ふとまだ芽生だが躁狂の点に於ては一世を空しうするに足る天晴な豪のものである。かう数え立てゝ見ると大抵のものは同類の様である。案外心丈夫になつて来た。ことによると社会はみんな気狂の寄り合かも知れない。気狂が集合して鎬を削つてかみ合ひ、いがみ合ひ、罵り合ひ、奪ひ合つて、其全体が団体として細胞の様に崩れたり、持ち上つたり、持ち上つたり、崩れたりして暮らして行くのを社会と云ふのではないか知らん。其中で多少理屈がわかつて、分別のある奴は却つて邪魔になるから、瘋癲院といふものを作つて、こゝへ押し込めて出られない様にするのではないかしらん。すると瘋癲院に幽閉されて居るものは普通の人で、院外にあばれて居るものは却つて気狂である。気狂も孤立して居る間はどこ迄も気狂にされて仕舞ふが、団体となつて勢力が出ると、健全の人間になつて仕舞ふのかも知れない。大きな気狂が金力や威力を濫用して多くの小気狂を使役して乱暴を働いて、人から立派な男だと云はれて居る例は少くない。何が何だか分らなくなつた」

(「吾輩は猫である」 夏目漱石)

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