「案外、犯罪者なんかにそちらの問題を実感できる人間がいるのかも知れんね。そりゃ、罪を犯す奴にはピンからキリまであるだろうよ。それこそ切羽詰まって人を殺そうかという惑乱の渦中で、思いも掛けず自分と向かい合ってしまう、そして、それがなんともかんともあろうはずのない自分であったというような。止むに止まれぬ思いの末に殺人者となってしまった奴の中には、そんな人間がいそうな気がしないかい。懐かしい自分というものとは違うとしてもさ。」
「昔、この世に一本しかない本を得るために某大学者の家に忍び込み、目当ての書物を奪いがてら主人を殺害して火を放った。そして、その場を逃げ去ろうとした丁度そのとき、燃え盛る炎を背にして、両手一杯に抱えた大きな書物の頁の間に鼻を突っ込んだ影法師、あわててこけつまろびつしながら駆け出そうとしている影法師とバッタリ対面してしまう。どこか見覚えのある姿形、まさに火を放って学者宅から出て来たばかりの己自身と出くわしてしまった。そんな話がある。」
須川は辞書を元の棚に返すと、別の本を物色しながら話を続けた。
「それはそれとして、人は、妄想の中では何でもできる。人を殺すことができる。犯してはならない罪を犯すことができる。しかし、たとえ妄想の中であっても、おそらくは自分の肉体を離れることはなかろう。他人の体に宿って、何かをしでかすことはないだろう。他人になろうなどとは思いもよらぬことなんだ。自分自身と他者との分別は、妄想の世界の中にもれっきとして存在している。これは、どんなことを意味するのか。」
今度は、藍色の褪せた薄い本を棚から引っ張り出して表紙を眺め始めた。
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