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ヘレニズム国家の変遷

2014年06月14日 | 高2用 授業内容をもう一度

 【前330】年アケメネス朝が滅亡してから【前30】年に【プトレマイオス】朝エジプトが【クレオパトラ】の死によって滅亡するまでの約【300】年間をヘレニズム時代といいます。この間、【アンティゴノス】朝マケドニア、【プトレマイオス】朝エジプト、【セレウコス】朝シリアなどギリシア人が支配者として君臨するヘレニズム国家が成立しました。
 このうち、【前146】年にアンティゴノス朝マケドニアは属州マケドニアをしてローマに併合され、【前31】年の【アクティウムの海戦】の敗北で、前30年いプトレマイオス朝エジプトもローマ領に併合されました。
 一方、セレウコス朝シリアは、辺境地域が次々に独立したため、広大な領土は減少し、前200年ころにはシリアの都【アンティオキア】周辺を支配するだけの弱小国になりました。
 その経過は以下のようでした。まず、【バクトリア】王国の独立によって中央アジアを失いました。バクトリア王国は【ギリシア】人が支配階級を構成するヘレニズム国家です。ギリシア文化をインドに伝えたという文化的功績を残しました。ついで、イラン人がセレウコス朝シリアの東方で独立。【前248】年に【アルサケス】がパルティア王国を建国しました。中国人はこの王国を「【安息】」と呼びます。【ゾロアスター】教を国教とする【遊牧イラン】人の国家ですが、はじめのうちは、ギリシア人の活動や行政能力を無視できず、ギリシア語である【コイネー】を共通語としました。パルティアが拡大するとセレウコス朝シリアはアンティオキアに遷都しています。
 セレウコス朝シリアの衰退はさらに、【小アジア】の【ペルガモン】王国の独立を促し、パレスティナの【ユダヤ】人もアカベアに率いられた【アカベア】戦争で独立を達成し、【ハスモン】朝を建国しました。しかし、ペルガモン王国、ハスモン朝、小国となったセレウコス朝はともにローマ併合されています。
 このようにほとんどのヘレニズム国家は最終的にはローマに併合されました。このことを後の歴史家は「【すべての水はローマに流れる】」といいました。この言葉は文化的にもヘレニズム文化をローマが継承したことも含めて言い表しています。以上の結果、ローマはイランのパルティアと軍事的衝突を繰り返すようになりました。
 


ヘレニズム国家

2014年06月14日 | 高2用 授業内容をもう一度

 アレクサンドロスの東征は【インダス川】流域までおよびましたが、部下の反対に合い、アケメネス朝ペルシアの都【スサ】に帰還して終わりました。マケドニア王国の都【ベラ】ではなく、スサに帰還した意味は大きいと考えるべきです。すなわち、アレクサンドロスは官僚制度の上に国王が君臨するオリエント風の政治体制を採用するつもりであったということです。結果的にも、ギリシア的民主政治はその後に成立するヘレニズム諸国家では採用されることはありませんでした。

 【アレクサンドロス】が【バビロン】で急死すると、その子アレクサンドロス4世も暗殺されました。その結果、帝国の後継者はいなくなり、【ディアドゴイ】戦争とよばれる後継者戦争が勃発。【前301】年の【イプソスの戦い】で帝国の分裂が決定的になりました。すなわち【アンティゴノス】朝マケドニア、【プトレマイオス】朝エジプト、【セレウコス】朝シリアが帝国を統治したわけです。
 これらの王朝の支配者層はギリシア人であったので、ギリシア語【コイネー】が公用語とされ、政治、経済、文化にかかわるギリシア人の比率は圧倒的に大きかったわけです。もちろん、支配者であるギリシア人の人口のほうが、全人口に占める割合においては圧倒的に少ないので、単純にギリシア文化がオリエント世界に浸透したわけではありません。オリエント世界が培ってきていた文化や社会制度は非常に優れていたので、統治機構などはオリエントの方法が採用されたようです。すなわち、ギリシア文化を基準にしてオリエント文明をうまく取り入れた【ヘレニズム文化】が繁栄したのです。
 また、【バクトリア】では一般のギリシア人で定住する者がおおく、一般の現地民にも大きな影響を与えました。とくにギリシア人の偶像信仰は写実性にとみ、リアルに表現された神々の像は、オリエント世界やインド世界の人々に驚きをもって受け入れられたようです。



ヘレニズム時代

2014年06月14日 | 高2用 授業内容をもう一度

ペルシア戦争ののち,ペルシア軍の再攻にそなえて,諸ポリスは【デロス】同盟を結成したが,盟主【アテネ】が,同盟をてこにほかのポリスを支配するようになった。【スパルタ】は,アテネが急速に勢力をひろげたことに対抗して,みずからを盟主とする【ペロポネソス】同盟を強化した。【前431】年デロス同盟の盟主アテネとペロポネソス同盟の盟主スパルタは,全ギリシアの覇権をかけてたたかった。これを【ペロポネソス】戦争という。
 この戦争のあいだにアテネは疫病の流行で【ペリクレス】をうしなってから政治が混乱し,ついにペルシアの支援でスパルタが戦争に勝利した。しかしまもなく前4世紀なかばには,【エパミノンダス】が率いる【テーベ】にとってかわられた。
 ペルシアの干渉による有力ポリス間のたえまない争いは,ギリシア社会を荒廃させてしまった。そして【前338】年アテネ・テーベの連合軍は,北部ギリシアの【マケドニア】王国の【フィリッポス2世】に敗れた(【カイロネイアの戦い】)。その結果スパルタをのぞく全ギリシアのポリスはマケドニア王国支配下の【コリント】同盟に集められ支配された。
 フィリッポス2世の子の【アレクサンドロス大王】は,前336年に即位した。そして,前334年に大王はギリシアとマケドニアの連合軍をひきいて,アケメネス朝ペルシアを討つため【東方遠征】に出発した。アケメネス朝との3回の戦いによって,大王は【ダレイオス3世】治下のアケメネス朝を【前330】年に滅ぼし,さらにインダス川流域まで侵入したが,部下の反対にあったため兵を引き返した。ここに,西はギリシア・エジプトから東はインドの【インダス】川流域にわたる広大な帝国が建設された。大王は東西文化の融合をはかったが,その実現をみることなく,【前323】年に【バビロン】で急死した。
 そののち,大王の部下の将軍たちはそれぞれ【ディアドコイ】(後継者)と称して争いを続けた。その結果、前3世紀前半には帝国は【プトレマイオス】朝エジプト,【セレウコス】朝シリア,【アンティゴノス】朝マケドニアの3国に分裂した。前334年にはじまった大王の東方遠征から【前30】年の【ローマ】による地中海世界統一までの【約300】年間を【ヘレニズム】時代という。分立した3国のなかで最も繁栄をとげたプトレマイオス朝エジプトは,専制国家として強盛を誇り,とくにその首都【アレクサンドリア】は,研究所【ムセイオン】が設置されるなど、経済・文化の中心地としておおいに繁栄した。


アレクサンドロスの東征

2014年06月14日 | 高2用 授業内容をもう一度

 【前334】年に【アレクサンドロス】に率いられたギリシア人は、【前333】年【イッソスの戦い】でアケメネス朝ペルシアの【ダレイオス3世】を破り、さらに【前331】年【ガウガメラ(アルベラ)の戦い】でその勝利を決定的なものにしました。アケメネス朝ペルシアの最後の国王になったダレイオス3世は、部下に暗殺され、帝国は滅亡しました。アレクサンドロスはダレイオス3世を尊敬していたので、その暗殺者を処刑したそうです。
 アレクサンドロスはさらに東征を続け、【インダス】川にたどり着きました。インドの象軍に苦戦しながらも、彼自身はさらに東を目指そうとしたのですが、部下たちが帰還を要求したため、前324年やむなく【スサ】に引き返しました。しかし、まもなく【バビロン】で熱病のため、【前323】年に急死してしまいました。
 


サラミスの海戦とアテネ市民

2014年06月14日 | 高2用 授業内容をもう一度

アテネは国家財政をもっていませんでした。それは市民が「税」を払うという習慣がなかったからです。税がないということは、国家として「軍隊」を保持できないことでもあります。それは、武器を買う国家予算がないからです。
 ではどのようにしてアテネは国や市民を守ったのでしょうか。市民は武器を自分で購入して戦争に参加するしかなく、そのようなポリスに対する奉仕を行えることは、市民にとって誇りであり名誉でありました。貴族や富者はそのような意味で、多くの市民たちから、尊敬を受けていました。このような精神文化は現在の西欧社会にも受け継がれているように思います。そのような名誉ある人々が政治や裁判や立法行為を委託されていたのは当然でしょう。
 サラミスの海戦は、財産もなくその日暮らしの日雇い労働に明け暮れていた無産市民にも、誇りと名誉と与えてくれました。しかし無産市民を含めたすべての成年男子市民3~4万人が、政治や裁判や立法行為に従事させるには制度改革が必要です。ペリクレスがその重責を担ったのです。


クレイステネスの民主政治

2014年06月14日 | 高2用 授業内容をもう一度

【僭主】の出現を防ぐために、港に落ちている割れた陶器の破片を紙代わりにして、僭主になりそうな人物の名前を刻む。【6000】票以上集まった人物のうち、最多得票の者を【10】年間アテネから追放する。このような方法を【オストラシズム】(【陶片追放】)といいます。【クレイステネス】が【前508】年に行った政策です。なお、陶器の破片は港での積み下ろし作業中に割れてしまったワインのカメの破片です。  
 さらにクレイステネスは重要な政策をとりました。それまでアテネには4大貴族が実権を握っていました。貴族とのつながりでポリスに住み着いた平民たちは、貴族の言いなりだったわけです。しかし、クレイステネスは貴族を中心とする4部族制をやめ、ポリス内の住まいなどを基礎とした「【10部族制】」に改革しました。10部族の中から50人の代表を選び、500人評議会を開催し、そこで物事を決定します。将軍職も1部族ずつから1人ずつ選び、戦争を担当しました。貴族がすねてを決めていた時代が終わったのです。


前6世紀のオリエント世界とギリシア世界

2014年06月14日 | 高2用 授業内容をもう一度

【前550】年にアケメネス朝ペルシアの【キュロス2世】が【メディア】から独立すると、【前538】年には【新バビロニア】王国の都バビロンを攻略し、その地にいたユダの人々を解放しました。前521年に即位したダレイオス1世のころが、アケメネス朝ペルシアの全盛期で、【小アジア】の【サルデス】まで「【王の道】」が建設されました。
 そのころギリシア世界では、前530年ころに僭主ペイシストラトスが活躍。【ダレイオス1世】のころに【クレイステネス】が民主政治をはじめていました。
一方、小アジアの【イオニア】地方もアケメネス朝ペルシアの支配を受けていましたが、前500年、中心都市【ミレトス】はアテネの支援を受けて反乱を起こしました。
 この2つの世界はまったく異なる政治の手法を取っています。オリエントで発達したのは特権階級による官僚制度で、ギリシアで発達したのは身分制の廃止による民主政治です。この2つの制度は、現代では混ざり合って政治手法に生かされています。