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中世キリスト教史

2023年02月16日 | 高2用 授業内容をもう一度

キリスト教世界では,宗教界の権威(教皇)と俗社会の権威(国王)が並立し,いわば権力の二重構造とでも呼ぶべき状態が続いてきた。教皇は,【ローマ=カトリック教会】における最高権威であり,二大使徒の1人である【ペテロ】の後継者として位置づけられている。
 ペテロは,イエスの死後,ローマ帝国暴君と称される皇帝【ネロ】に迫害され殉教したのだが,彼の墓所には【聖ピエトロ大聖堂】が建立された。そもそも,キリスト教が帝国内部で迫害されたのは,キリスト教徒が,俗世間では絶対的な皇帝の権威を受容しようとしなかったからであった。
 時代は下り,教皇【グレゴリウス7世】と【ハインリヒ4世】皇帝の間で【聖職叙任権闘争】が激化した。この対立では教皇が皇帝を屈服させたが,【1122】年【ヴォルムス協約】では,新教皇【カリクストゥス2世】と新皇帝【ハインリヒ5世】の間で一定の妥協が図られた。
 教皇権の全盛期は,13世紀初頭を中心に統治した【インノケンティウス3世】の頃と考えられる。彼は当時の教皇権と皇帝権の関係を【】「教皇権は太陽であり,皇帝権は月である」という言葉で例えた。しかし,教皇権の絶頂期も長くは続かず,【教会の腐敗】や【十字軍の失敗】などが原因となり,14世紀に教皇権は衰退へと向かうことになった。とりわけ,【1378年から1417】年の【大シスマ】はその傾向に拍車をかけた。
 宗教改革の時代には,ドイツはローマ=カトリック教会に搾取されていると考えられており,自国の従属的な立場は【「ドイツはローマの牝牛」】という言葉に象徴されていた。そのような中,ルターは【贖宥状(免罪符)】の販売行為を問題視し,教皇特使と公開論争の末,教皇の権威に挑戦した。【ルター】は【1520】年【「キリスト教者の自由」】を著し,【「人は信仰によってのみ義とされる」】という【信仰義認説】を主張した。反宗教改革勢力と宗教改革勢力は鋭く対立しながら,次第に後者が力を得ていった。



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