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唐宋の社会経済 

2016年03月23日 | 高2用 授業内容をもう一度
 中国では唐代中葉から貨幣経済がしだいに活気を帯びるようになり、唐朝の支配体制が弱体化したことも手伝って、これまでのさまざまな経済に関する規制がゆるみ崩壊した。商品の売買は唐代前期までは城内の特定区画である【東市】や【西市】のみ許されていたが、唐末には市場は城内の各所に、さらに城外でも広く【草市】が開かれるようになった。
 宋代になると都市は都である【開封】や南宋の都になる【臨安】などの大都市のほか、草市から【市】や【鎮】に発展した。【青磁】や【白磁】の特産物を製造することで知られる【景徳鎮】もこのような地方都市のひとつである。これらの都市では商人が【行】、手工業者が【作】という同業組合を作って活動した。また、地方都市と地方都市とを結ぶ遠隔地商人の活動も活発になった。彼らを【客商】と呼ばれるが、都市には【酒楼】という宿泊施設があり、客商らによって利用された。
 日本が盛んに輸入した【宋銭】(銅銭)は大量に鋳造されたものの、その需要をまかなえず、紙幣が使用されるようになり、南宋では主要な通貨となった。紙幣は民間で重宝されていた【手形】が発達したもので、【交子】は北宋、【会子】は南宋の代表的な紙幣である。
 元が金にならって発行した紙幣【交鈔】は銀との交換を保証されたため広く流通し、ときには西アジアにまでおよび、遠くイル=ハン国の首都タブリーズでも同様の紙幣が発行された。元が発行したものにはにせ札を作るものは死刑に処すと書かれていた。
 また、対外貿易も繁栄した。とくに【広州】を中心に南海貿易が盛んとなり、【唐】代には広州には貿易事務をあつかう【市舶司】が設置され、やがて宋代になると、【広州】のほかに、【泉州】や【明州】(寧波)にもおかれた。
 東南アジアの商人や【ムスリム商人】の来航も多くなり、南宋の商船もペルシア湾にまでおもむいた。これには宋代に【羅針盤】が発明されたことや、従来は長江を行き来していた【ジャンク船】が改良されたことが大きい。南ヴェナムの国【チャンパ】(中国名は【占城】)からは【チャンパ米】が長江下流域に持ち込まれ、【長江下流域】は宋の穀倉地帯となった。中国、朝鮮、日本の3国の間では朝貢とは別に民間の貿易が盛んとなり、多数の宋船や新羅船(後には高麗船)が往来した。

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