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中国諸王朝の対西欧関係 2008年 早稲田大学  社会科学

2011年07月31日 | 復習用入試問題

次の文章を読み,問1~3については,適切な語を記入し,問4~10については,選択肢の中から適切な解答をそれぞれ一つ選び,その記号をマークせよ。

 現在確認できる中国最古の王朝殷を滅ぼした周は,紀元前11世紀頃から,今の西安市付近に都をおいて華北を支配した。続く(A)春秋・戦国時代には,戦乱こそ絶えることはなかったが,域内諸国に共通の文化が拡大し,秦の始皇帝による中国統一の基礎が築かれた。(B)漢の時代に,周辺地域との交流が盛んに行われた結果,域外の情報も中国に伝わるようになり,たとえば,遠いローマ帝国の存在が漢に知られるようになったほどである。
 漢代後の分裂の時代において,中国の諸王朝は周辺の新興国家と積極的に朝貢の関係を結び,みずからの権威を高めることに努めた。三国時代の魏が(イ)邪馬台国の朝貢使節を迎え入れたことや,5世紀に中国の南朝が倭国の王の使いを頻繁に受け入れたことは,中国大陸と日本列島との関係を象徴する出来事であった。
 唐の政治社会制度と仏教文化の影響を強く受けた東アジア地域では,中国を中心とした文化圏が形成された。朝鮮半島では,(C)新羅が唐と結んで百済と高句麗を滅ぼし,仏教文化を繁栄させた。また,日本は遣唐使を中国に送り,唐の文化を積極的に取り入れた。平城京で栄えた天平文化には唐の影響が色濃く残っている。チベットに建国された吐蕃はしばしば唐に侵入したが,9世紀前半には唐と会盟を結んだ。このほか,8世紀の前半に(ロ)雲南地方を統一した南詔は漢字を公用化し,仏教を奨励した。ベトナムも古くから中国と密接な関係にあり,唐はハノイに大総管府と安南都護府をおいて,この地方に対する支配を行った。
 鄭和を指揮官とするインド洋方面への遠征は,明朝の威勢を世界に誇示し,南海諸国の朝貢体制への加入を促した。その結果,中国とインド洋諸国との朝貢貿易が活発になり,中国はこの形式の交流のなかで世界に関する情報を多く入手することができた。しかし,貿易が拡大する一方,明朝はいわゆる倭冠の被害に悩まされた。(D)洪武帝が室町幕府にその対処を求めたことを契機に,日本は中国への朝貢を復活させ,1404年に勘合貿易を開いた。明の重要な朝貢国となった朝鮮は明にならって科挙を整備し,朱子学を導入した。また,ベトナムの黎朝も明と朝貢関係を結び,明の制度を取り入れながら支配を固めていった。やがて世界は本格的な大航海の時代を迎え,16世紀には中国の周辺でも国際商業が繁栄した。貿易の利益を求めるヨーロッパ勢力の進出と新興の交易国家の台頭が本格的に始まると,明を中心とする朝貢体制は著しく動揺した。
 しかしながら,(E)直轄領と藩部に分けて広大な領土を支配した清朝は,相変わらず周辺諸国を属国とみなしていた。一方,これらの国々のなかには,清朝との朝貢関係を維持することによって,清朝からの支持を得ることが得策だと判断したものもあった。朝鮮は,正統な中国文化の継承者を目指し,儒教の儀礼を厳格に守った。薩摩の攻撃を受けた琉球は,島津氏に税を支払う一方,清朝にも朝貢を続ける (ハ) 体制を選んだ。このような東アジアの国際情勢のなかで,(F)インドシナ半島の諸国は,清朝に対する服属関係を認めながらも,清朝による実質的な支配を受けることはほとんどなかった。
 交易を求めて東アジアに進出したヨーロッパ諸国に対する清朝の姿勢は,周辺諸国への対応と基本的には変わらなかった。ヨーロッパ人の交易を朝貢とみなした清朝は,来航地・品目・数量などを厳しく制限した。清朝がこのような中華思想に基づく世界認識と政策を見直すようになったのは,1840年に始まる(G)アヘン戦争以降のことである。

問1 下線部(イ)に関連し,魏が卑弥呼に与えた称号を漢字で記入せよ。

問2 下線部(ロ)に関連し,南詔の滅亡後,937~1254年にこの地方を治めた国の名前を漢字で記入せよ。

問3 空欄(ハ)に入るべき最も適切な語を漢字で記入せよ。

問4 下線部(A)に関連し,この時代には諸子百家と総称される多数の学派や思想家が登場した。以下の組み合わせのうち,最も不適切なものはどれか。
a.陰陽家 ―― 李斯 b.農家  ―― 許行
c.名家  ―― 公孫竜 d.縦横家 ―― 蘇秦
e.法家  ―― 韓非

問5 下線部(B)に関連する次の記述のうち,最も適切なものはどれか。
a.高祖は皇帝の位につくと,秦の統一政策を継承し,郡県制を全国に施行した。
b.武帝は統治の安定を図り,漢を圧迫していた匈奴に対し和親策をとった。
c.武帝に派遣された張騫は,大月氏との同盟交渉に成功した。
d.武帝の時代に滅亡した衛氏朝鮮は,中国からの亡命者が建てた国である。
e.朝鮮半島南部に設置された楽浪郡は,漢の政治・文化を東方に広める拠点であった。

問6 下線部(C)に関連する次の記述のうち,最も適切なものはどれか。
a.新羅は唐の威力を借りて,676年に統一国家をつくった。
b.朝鮮半島の大部分を支配した新羅は,慶州に首都をおいた。
c.木造多宝塔を有する仏国寺は新羅時代の代表的な寺院である。
d.新羅は唐と冊封関係を結んだが,律令を取り入れなかった。
e.新羅は唐の骨品制を参考に,独自の官僚制度を整備した。

問7 下線部(D)に関連し,明代の日中関係についての記述のうち,最も不適切なものはどれか。
a.明を苦しめた倭寇は,元代にも見られた。
b.勘合貿易の結果,倭寇が減少した。
c.永楽帝以後,海禁政策が緩められ,日中の民間貿易が盛んになった。
d.将軍足利義満は,朝貢貿易の利益を目的に,遣明船を送った。
e.室町幕府の勢力が衰退すると,倭寇が再び力を増した。

問8 下線部(E)に関連し,清朝が直轄領として統治した地方はどれか。
a.青海 b.チベット c.新疆 d.モンゴル
e.台湾

問9 下線部(F)に関連し,18世紀後半以降の出来事に関する記述のうち,最も不適切なものはどれか。
a.ベトナムでは,西山党の反乱によって黎朝が滅ぼされた。
b.阮福暎はフランスの支援を得て,ベトナムを統一し,阮朝を樹立した。
c.ミャンマーでは,コンバウン朝が原住民の反乱で倒れた後,トゥングー朝が興った。
d.タイのアユタヤ朝を滅ぼしたのはコンバウン朝である。
e.タイのラタナコーシン朝を建てたのは,ラーマ1世である。

問10 下線部(G)に関連し,次の記述のうち,最も不適切なものはどれか。
a.1830年代,中国へのアヘン密輸が増大し,銀が暴騰して清の財政を圧迫した。
b.清はアヘン取締りを強化するため,1839年に林則徐を広州に派遣した。
c.南京条約で,広州での外国貿易を独占した特許商人の組合である公行が廃止された。
d.南京条約で上海,天津,福州,厦門,広州の開港が決まった。
e.アヘン戦争の後,イギリスは中国の行政権が及ばない租界を設けた。


【解答1】 
問1 親魏倭王 問2 大理 問3 両属 問4 a
問5 d 問6 b 問7 c 問8 e
問9 c 問10 d


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