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燕雲十六州

2016年03月23日 | 高2用 授業内容をもう一度
五代十国時代の中ごろ、【石敬塘】(トウは王ヘン)が【後晋】を建国する際に、モンゴル高原の【遼】に援助を頼みました。【契丹】族の遼はこれに応じて援助しましたが、その代償は大きなものになりました。中国人居住地域で、万里の長城の南側にある燕州や雲州など16の都市を遼に譲り渡すということです。それ以後、【燕雲16州】の奪回は中国人の大きなテーマになりました。
 この結果、遼は自国であり契丹族が住むモンゴル高原と、万里の長城以南にあり中国人居住地域の燕雲16州の両方を支配することになりました。遼はモンゴル高原の契丹族には【北面官】を設置。一方、燕雲16州には【南面官】を設置し、【二重統治体制】をとりました。
 このように、【異民族が自らの出身地域に対する支配を維持しながら、中国の一部または全域を支配した王朝】、を【征服王朝】と名づけたのは、【ドイツ】人歴史家【ヴィットフォーゲル】です。したがって、【華北】を支配したものの【494】年に【孝文帝】が漢化政策をとった【鮮卑族】の【北魏】は征服王朝には当てはまりません。征服王朝は、【遼】(【モンゴル高原】+【燕雲16州】)・【金】(【満州】+【華北】)・【元】(【モンゴル高原】+【中国全土】)・【清】(【満州】+【中国全土】)の4王朝です。

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