文中の(a)~(u)については( )内の最も適切な語句や数字を選んでその番号を解答欄に記入しなさい。また,文中の《 A 》~《 D 》については適切な語句や数字を解答欄に記入しなさい。04年同志社大学
15~16世紀においてフランドル地方のアントワープは国際商業の中心地であった。16世紀後半,スペイン国王(a)(1.カルロス1世 2.フェリペ2世 3.カルロス2世)がネーデルラントに(b)(1.カトリック 2.カルヴァン派 3.ルター派)の教えを強制し,都市に重税を課したため,貴族が自治権を求めて反抗し,これに商工業者が加わって,独立戦争がはじまった。(b)勢力の強い10州は途中で脱落したが,ホラント州など7州はユトレヒトにおいてユトレヒト同盟を結び,イギリスの援助を受けて戦いつづけた。そして,(c)(1.1571 2.1581 3.1588)年に独立を宣言し,独立運動の指導者《 A 》を総督(統領)とするネーデルラント連邦共和国,すなわち(d)(1.オランダ 2.ベルギー 3.ルクセンブルク)を成立させた。この国は後に《 B 》条約で正式に承認された。
ネーデルラント連邦共和国は,バルト海貿易や漁業で栄えたうえ,宗教的理由による商工業者の流入で毛織物業も繁栄した。さらに,同国は海洋の自由を唱えて,1602年,《 C 》を設立し,アジアへの進出を開始した。17世紀前半には繁栄を誇り,アムステルダムはアントワープにかわって国際商業と金融の中心地となり,独自の市民文化も生まれた。この文化のもとに(e)(1.グロティウス,レンブラント 2.ルーベンス,ファン=ダイク 3.フランシス=ベーコン,デカルト)らが活躍した。
なおルクセンブルク,ホラント,フランドルの3つの地方について北から南に順に挙げると,(f)(1.フランドル,ホラント,ルクセンブルク 2.ホラント,フランドル,ルクセンブルク 3.ルクセンブルク,フランドル,ホラント)となる。
イギリスでは,(g)(1.ヘンリ7世 2.ヘンリ8世 3.エリザベス1世)は強大なスペインに対抗してネーデルラント連邦共和国の独立を支援した。その死後,スコットランド王が(h)(1.チャールズ1世 2.チャールズ2世 3.ジェームズ1世)としてイングランド王に迎えられ,(i)(1.テューダー朝 2.ハノーヴァ一朝 3.ステュアート朝)を開いた。王は議会を軽視し,自由な経済発展を求める勢力である(j)(1.ピューリタン 2.カトリック 3.国教徒)を圧迫した。おりから国際商業の不況がはじまったが,王は有効な打開策をとらず,逆に重税を課したので,中産階級の不満が高まった。つぎの(k)(1.チャールズ1世 2.チャールズ2世 3.ジェームズ1世)も専制政治をつづけたので,議会は1628年に(l)(1.権利の請願 2.人身保護法 3.審査法)を可決した。しかし王は,一方的に議会を解散した。
王は,宗教的な強制に反発したスコットランドが反乱をおこすと,戦費調達のため議会を開いた。議会が王の暴政を非難すると,王は武力で議会をおさえようとし,1642年,王党派と(m)(1.国教派 2.議会派 3.長老派)の間で内乱がはじまった。クロムウェルは,鉄騎隊を中核にして軍を新たに編成し,ネーズビーの戦いで勝利した。このころ長老派と独立派とは対立し,さらに水平派(平等派)も形成された。独立派は,水平派と協力して議会から長老派を追放し,(n)(1.1647年 2.1649年 3.1653年)に国王を処刑して共和政を樹立した。
その後,クロムウェルは,オランダの中継貿易に打撃を与えるため,《 D 》法を発布した。これはオランダ商船がイギリスの港に出入りすることを禁じていたので,中継貿易を主とするオランダに打撃をあたえた。このため両国間に第1次の英蘭戦争がおこり,イギリス優勢のうちにおわった。クロムウェルは,内外の難局に対処するため,護国・となって軍事独裁を強めた。そのため,彼の死後,国民の不満が高まり,(o)(1.長老派 2.独立派 3.水平派[平等派])が中心となって王政復古を行い,(p)(1.チャールズ1世 2.チャールズ2世 3.ジェームズ2世)を王に迎えた。しかし,その王が絶対王政と(q)(1.ピューリタニズム 2.カトリック 3.国教会)の復活をはかったため,議会は,1673年に(r)(1.権利の請願 2.人身保護法 3.審査法)を可決して非国教徒が公職につくことを禁じた。このころ議会では,王権と国教会を擁護する(s)(1.トーリー党 2.ウィッグ党 3.自由党)と,議会の権利を主張する(t)(1.トーリー党 2.ウィッグ党 3.自由党)が生まれ,両党の対立が明らかになった。つぎに登位した国王はカトリックの復活をはかり,反動的な政策をとると,1688年両党は協力して,王の娘メアリとその夫オランダ総督(統領)ウィレムに援助を求めた。ウィレムが兵を率いてイギリスに上陸すると,王はフランスに亡命し,ここに無血の名誉革命が成功した。翌年,ウィレム夫妻は,議会が提出した宣言を承認して,ともに王位につき,その宣言は(u)(1.権利章典 2.人権宣言 3.大憲章)として制定された。
正解
(a) 2 (b) 1 (c) 2 (d) 1 (e) 1
(f) 2 (g) 3 (h) 3 (i) 3 (j) 1
(k) 1 (l) 1 (m) 2 (n) 2 (o) 1
(p) 2 (q) 2 (r) 3 (s) 1 (t) 2
(u) 1
《A》 オラニエ公ウィレム
《B》 ウェストファリア
《C》 東インド会社
《D》 航海
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