「家」 @ 鎌倉七里ガ浜 + 時々八ヶ岳

湘南七里ガ浜(七里ヶ浜とも)から発信。自分の生活をダラダラと書きとめるブログ。食べ物、飲み物、犬の話題が多い。

街道をゆく・・・なんちゃって(3) 十二所(鎌倉市)ってモンタナ州みたい

2022-02-28 18:41:29 | あちこち見て歩く
長い散歩だ。

やっと我々夫婦は鎌倉市十二所(通常十二所の読み仮名は「じゅうにそ」とし、声にだす時は最後を少し長めに「じゅうにそぉ」みたいに言う)の平坦なところまで降りて来た。


梶原景時が太刀を洗ったとされる太刀洗の水を前回ご紹介した。

その水は、朝夷奈の切通あたりを源流とする流れに注ぎ込み、それが太刀洗川と呼ばれるようになる。


しかし下の図に説明があるように、この太刀洗川はすぐにまた別のところから来た滑川と合流してしまう。


ここ(↓)がその合流点だ。


こうして他の川と一緒になり流量が増して、滑川は徐々に大きな流れとなり、鎌倉の中心部を通って由比ヶ浜で海に注ぐ。


ここが十二所の住宅地だ。


私はこの十二所を「鎌倉市のモンタナ州(米国)」と思う(暴論?、雑な例え?(笑))。

だって十二所は、鎌倉市の東の外れにあって、鎌倉市以外の自治体と延々と接していて、内陸部なため海に縁はなく周囲は山ばかりで人口密度が低い。本当に山ばかりだ。

モンタナ州もご覧のとおりの位置(黄色で囲ったところ↓)で米国の北のはずれで、北側は延々とカナダとの国境をなし、モンタナなんて名前が示す如く高い山だらけで、海とは縁がない内陸部で、人もまばら。ワイオミング州同様、人口が希薄なことでは有名だ。十二所とそっくりでしょ。



白色人種の移民の子孫だらけで、アジア系やアフリカ系なんてゼロに近い。

十二所がモンタナなら、我が七里ガ浜はカリフォルニアかフロリダかハワイ。

だって、鎌倉プリンスホテル前の坂道はサンフランシスコのよう(^^;;



海沿いのショップはサンタモニカのそれのよう(笑)。


我が住宅街の中心部は、まるでキー・ウェスト(フロリダ州)のよう(爆)。


海を見下ろすテラスでは、ハワイのハンバーガー食べてるし。



Teddy'sってハワイから来たハンバーガー屋さんの七里ヶ浜店があるよ。

あまり書いていると十二所の人たちに怒られそうだが、先に指摘したことはみなウソではない。

下の地図でご覧のとおり、十二所(ピンクの線で囲った地域)は鎌倉市の東端にある。

そして北と東は延々と横浜市と接している。南は逗子市だ。

モンタナ州が米国の北辺(アラスカを除く)にあって、延々とカナダと国境を接しているのと似ている。


しかも山ばかりで、人は希薄だ。それも似ている。

そんなこと言うとまた叱られるかもしれない。

「だって、さっき住宅がいっぱいの画像が見えたじゃないかー、稲村ケ崎の谷戸と変わらないじゃないかー」という人もいるだろう。

たしかにちょっと前、この画像(↓)を掲載した。



しかし冷静になって、鎌倉市十二所全体を俯瞰してみましょう。

これがそうだ(↓)。ピンクの線で囲ったところが十二所だ。

面積的に言って、ほとんどが山だ。


より正確に言うと、「山と墓」である。

「えぇ!」と驚くかもしれないが、ご覧のとおり、それが十二所だ。

周りは全部山。そして中央に巨大な墓地。

これ(↓)が墓地だ。西武が開発した鎌倉霊園である。


上の図で、我々は古来からの道を②⇒④⇒⑤と来た。

鎌倉時代からの美しい六浦道(路)だ。

現代では、横浜市金沢区から鎌倉市に直接的に入るには、99.9%以上の人が横横(横浜横須賀道路)の朝比奈IC近くから始まる①⇒③⇒⑤の二車線舗装道をクルマで通り、楽々と鎌倉市内に入る。

しかしその道路が開通したのは、なんと1956年のことだ。わずか66年前のことなのだ。それまでの何百年もの間、現在の横浜市金沢区から距離的に最も近く鎌倉中心部へ入るには、我々が今回徒歩で入って来た道しかなかった。

なんて詳しい解説でしょ(笑)

鎌倉は自然の要害。東、北、西は山に囲まれ、南が海。だから外から入るの大変で、陸路をつくるのにいくつか切通が造られた。そのひとつが今回ご紹介した切通のある道だ。

南側の海、由比ヶ浜や材木座海岸はかなり遠浅で、小さいドガティ君でも簡単に遊べる(↓)。

遠浅だとドガティ君は喜ぶだろうが、街の発展には不都合だ。近接した海が港湾施設に適さないのだ。だから人々は和賀江島(港湾施設)を沖合に作った。

下の画像で沖合に見える。


見えない? 

見えないよねぇ~(笑)

ではライフジャケットを着て、颯爽と(?)泳ぐドガティ君ではなく、その沖合をご覧ください(↓)。

これが和賀江島だ。


しかしこの港湾施設も不完全なもので、ここに繋いだ船は荒波が来るとすぐ破損してしまったようだ。

そんなわけで、多くの物資を積んだそれなりのサイズの船は、三浦半島の東側にある天然の良港、六浦(東京湾側)に入り、その物資は我々が今回歩いた六浦道(路)を通り、朝夷奈の切通を抜け、鎌倉に運び込まれた。

六浦の塩田で生産された塩も同じ道を通り、運び込まれた。

それらを運ぶ人々が「やっと鎌倉側に入ったぞぉ」と実感したのが、この十二所のあたりだ。まだ先は長いのだけれどね。

で、話をもとに戻そう。

私の言う「十二所が山と墓しかない」というのは、おおむね事実だ。画像を再掲すると、緑でない部分はほとんどが墓地である。



しかしこの墓地が、とんでもない墓地なのである。

ここでまた西武が出て来る。

我々夫婦が住む住宅地その他、鎌倉の歴史にやたら出て来るパワフルな企業グループ西武がこの鎌倉霊園を開発、分譲したのだ。

【Source: 鎌倉霊園HP】

広大でバブリーな墓地で、著名人も眠る。

私は見に行ったことはないが、西武の創業者である堤康二郎氏の巨大な墓もここだ。その広大な面積を誇る墓は、Google Mapsを衛星写真に切り替えるとすぐにわかる。PCで誰でも真上から見られるよ。

管理は、我が住宅地内の最大の駐車場、あるいは七里ヶ浜の海岸部の大きな駐車場、あるいは都内でも紀尾井町ガーデンテラス等々巨大なビルをたくさん管理している西武プロパティーズ。

【Source: 同社HP】

この墓地は昭和以降のものではあるが、この墓地に著名人が多くお入りになった。

杉原千畝さんがそうだ。リトアニア在カウナス日本領事館領事代理 。

第二次大戦中、当時の日本政府の意図に反し、のちに「命のビザ」と呼ばれるビザをユダヤ人に発給し、国外に逃し続けた外交官だ。

したがって今もイスラエル政府高官、大使がこの墓地を訪れる。

【Source: イスラエル大使館】

先述のとおり、七里ガ浜や七里ガ浜東が海に面し明るくカリフォルニアやフロリダ的で開放的であるのに対し(笑)、十二所は内陸部であり山と墓ばかりだが、海外に、特にイスラエルに向かって開かれていたのでした。

実は、それだけではない。鎌倉霊園は、鎌倉という土地柄か、あるいは昭和の開発だからか、政財界というよりも比較的文人や芸能人が多く眠る。

例えば川端康成さんなんて人もいれば、あの青江三奈さんもそうだ。

ドゥドゥビ・ドゥビドゥビ・ドゥビドゥバウワァ~♪

 伊勢佐木町ブルース/青江三奈 

 

ちょっと疲れたので、十二所の記録の続きは次回ね。

こんな適当なブログでも、書くのは結構疲れる。。。

【つづく】
コメント (15)
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