宮応かつゆきの日本改革ブログ

●日本共産党
総選挙で市民と野党の共闘で政権交代を、共産党の躍進をめざします。

”コミンテルンを「邪魔物」としたのはスターリン自身だった” 「スターリン秘史」 第22章ーその2

2014年10月26日 | 党関係

[ソ連崩壊直後の不破の経験から]

 不破さんは、自らの経験を次のように語っています。 

 「私が『ソ連共産党中央委員会国際情報部長』としてのディミトロフの活動にはじめて触れたのは、ソ連崩壊後の1992年12月、野坂参三問題にかかわる一連の疑惑をめぐるソ連共産党の秘密資料に目を通している最中でした。 この疑惑は、崩壊後に流出しはじめた秘密資料をもとに、ある週刊誌が提起したものでした」(「前衛」誌11月号214頁)

 「事実調査のためには、私たち自身が関係資料を十分研究する必要がありますから、党の調査団を旧ソ連に派遣し、膨大な関係資料を入手して、ことの真相の解明にあたったのです」(同前)

 「日本語に訳されたこの資料を読んでいるなかで、『ディミトロフとポノマリョフ』の署名による、『スターリン同志、モロトフ同志、マレンコフ同志』宛の1945年8月10日付の手紙に出あったのです。 ソ連につながる関連文書を読んでゆくと、ディミトロフらのこの手紙は、”戦後の日本でソ連に忠実な工作者として活動できる人物を探せ”というスターリンの指示にたいする回答であることが分かりました」(同誌215頁)

 「ディミトロフは、この手紙で、その適任者として、中国の延安にいる岡野(野坂参三のこと)を『日本における新体制樹立にさいし、利用可能かもしれない』人物として推薦していました。 これがスターリンに承認されたあと、ディミトロフらが、野坂が延安から日本に帰国の途中、秘密裏にモスクワに飛ぶように手配したのでしょう」(同前)

 「野坂は10月はじめにモスクワに到着しました。 しかし、野坂に対応したのはコミンテルンで旧知のディミトロフではなく、赤軍参謀本部次長で情報総局の責任者であるクズネツォフ大将でした。 モスクワ滞在中の話し合いにはポノマリョフなど共産党の国際関係の人々も顔を出しますが、モスクワを出発するさい、帰国後の報告先として野坂が指定されたのは、やはり赤軍情報部の機関でした」(同前)

 「結局、ディミトロフがやったのは、赤軍の情報機関に直結する工作者として、野坂を日本に送り込む仕事でした」(同前)

 「国際情報部長というディミトロフの肩書は、普通の国際的な政治活動ではなく、スターリンの覇権主義、干渉主義の道具としての役割につけられたものだな、というのが、この事実を知った時の実感的な評価でした。 そして、コミンテルン解散当時の具体的な経過はまだわかりませんでしたが、コミンテルンの解散の真相とはなんであったか、おおよその推測を可能にする出来事だったのです」(同前)

 [コミンテルンを『邪魔物』としたのはスターリン自身だった]

 不破さんは、次のように論を進めます。

 「1943年5月という時期にコミンテルンを『妨害物』とした事情は、米英ソ大連合の相互関係のなかにではなく、実は、スターリン自身の側にありました。ソ連の覇権主義的国策の遂行にとって、コミンテルンの存在が邪魔になる諸条件が熟し始めていたのです」(同誌218頁)

 「ヨーロッパ全域が、いつ誰の手によって解放されるかは、戦争の今後の推移にかかりますが、米英軍の第2戦線が予想以上に遅れている状況からいっても、東ヨーロッパの大部分をソ連が解放する地域となり、西ヨーロッパが米英軍によって解放される地域となるだろうことは、容易に予想されるところでした。 スターリンは、ドイツとの39年条約で自国領とした東ヨーロッパだけでなく、ソ連軍が解放するであろう東ヨーロッパの全領域を、ソ連の『勢力圏』に組み込み、そこにそれにふさわしい政治経済体制ーー 『衛星国』化の体制を築くことを、当然の国家目的としていました」(同誌218~219頁)

 「そして、その目的の達成のために、対米英関係でも、あらゆる外交的術策をつくしてゆきます。 一方、東ヨ―ロッパの『勢力圏』化を既成事実として米英側に承認させるためにも、西ヨーロッパその他の地域については、米英側の言い分を可能な限り認め、革命勢力をおさえて、戦前の資本主義的な政治・経済体制の復活の問題などでも、弾力的に対応して必要な譲歩をするつもりでいました」(同前219頁)

 不破さんは、これを、具体的にスターリンの”使い分け”政策として、次のように説明しています。 

 「(1)ソ連軍が解放する東ヨーロッパ諸国では、ヒトラーの占領体制からの解放と同時に、ファシズムを許した旧体制勢力の基盤の一掃の名のもと、スターリンが構想する社会的経済的改革の実行によって、資本主義体制から離脱させ、その国の共産党の実力の強弱にかかわらず、ソ連に従属する共産党中心の政権をつくり、国の『衛星国』化をめざす」(同前)

 「(2)米英軍が主力になって解放する諸国では、共産党が解放運動で有利な地位を占めている国でも、連合国の亀裂を引き起こすような社会改革は問題にせず、資本主義体制のもとで、民主主義的な議会体制を復活させ、共産党が戦後政治においてしかるべき政治的地位を得ることを現実的な目標とする」(同前)

 「スターリンの『勢力圏』構想に応じて解放政策をこういう調子で、”使い分ける”ことは、至極当然の政策とされます。 しかし、社会変革による各国人民の解放をめざして組織されたコミンテルンという国際組織にとっては、この種の戦術指導の”使い分け”はまったく筋の通らない話になります」(同前)

 「この”使い分け”をスターリンの思い通りにすすめることは、ソ連自身ーーもっとはっきりいえば、米英両国指導部との外交交渉にあたっているスターリンその人が、それらの国々の状況に応じて、ソ連の国策にあった指示を当該の共産党に与える、このような体制をつくりだすことによって、はじめて可能になるものでした」(同誌220頁)

 「こういう意味で、戦局の大きな方向が見えてきて、ソ連と西側諸国のあいだの『勢力圏』の分割とそこでの戦後体制の樹立が問題になってきたこの段階で、スターリンにとっては、コミンテルンが邪魔物になってきたのです。 各国の反ファシズム解放闘争の方針を統一した基準で問題にする国際組織ーーコミンテルンの執行委員会、幹部会、書記局などの国際機関がスターリンの『勢力圏』分割政策をすすめるうえで、文字どおりの『妨害物』となってきたということです」(同前)

 「この『妨害物』をとりのぞいて、コミンテルンを、スターリンが各国の共産党を直接指導する水面下の『国際センター』に変えるーーここに、スターリンが、この時期にコミンテルン解散を強行した最大の理由がありました」

 

 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿