宮応かつゆきの日本改革ブログ

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コミンテルン解散は、”コミンテルンのソ連共産党への吸収だった”「スターリン秘史」第22章(上)その1

2014年10月25日 | 党関係

 「前衛」誌11月号に、不破さん執筆の「スターリン秘史 巨悪の成立と展開」第22章は、「コミンテルン解散の虚実」(上)が掲載されました。 「スターリン秘史」の重要な解明テーマの一つではないでしょうか。

 「日本共産党の80年」(2003年1月20日 初版)は、コミンテルン解散について、次のように書いています。

 「(19)43年5月、コミンテルン幹部会は、スターリンの突然の指示にもとづいて、コミンテルンの解散を提案する決定をおこない、6月、31の党がこれを支持して、コミンテルンの解散が決定されました。 表むきは、その組織形態などが各国の党と革命運動の前進の障害となっていることを理由にあげましたが、 スターリンらは、アメリカ、イギリスとの協調関係を有利にしようとして、コミンテルン解散をにわかに計画したのでした。 しかし、スターリンは、各国の共産主義運動をその支配下におくという意図をすてずに、各国の運動を指導するセンターを、形をかえてモスクワに残しました」

 「そして、スターリンとソ連共産党が、この指導センターを直接その指揮下におくことにしたのです。 そのために、ソ連共産党の機構の一つとして、国際情報部をもうけてコミンテルン執行部の主要なメンバーをここに吸収し、コミンテルンの書記長だったディミトロフがその部長におさまったのでした」

 不破さんは、ディミトロフ日記をたどりながら、ズバリ、スターリンの「コミンテルン解散のねらい」を指摘しています。

 「一言でいえば、”ヒトラー一味は、各国共産党を『モスクワ』の干渉の道具だと言いたてて、反ファシズムの国際統一戦線にひびを入れようとしている。 コミンテルンの解散はこの種のデマ宣伝にとどめをさすものだ。 各国の共産党とモスクワとの組織的なつながりは一切なくなった。 さあ、国際的および各国での反ファシズム統一戦線の強化のために、総力をつくそうではないか”ーーこれが、コミンテルン解散の理由についての、スターリンの説明でした」(「前衛」誌212頁)

 「しかし、これらはすべて、まったくの偽りに満ちた説明でした。 スターリンには、各国共産党をその指導(あるいは支配)下に置いてきた『国際的な指導センター』を手放すつもりはまったくなかったのです。 『コミンテルン解散』という鳴り物入りの宣伝のかげて現実におこなわれたのは、『国際的な指導センター』をコミンテルンという表舞台から、ソ連共産党による水面下の支配という闇の舞台に移すことだったのです」(同頁)

 として、ディミトロフ日記を追跡していきます。 

 「コミンテルンが最後の執行委員会を開き、幹部会の解散決議が各国支部から『一致した賛成を受けたこと』を宣言し、6月10日以降、コミンテルンの諸機関が廃止されることを確認する『幹部会通知』を決定したのは、1943年6月9日でした。 この『通知』は6月10日の『プラウダ』に発表されました。 ところが、『プラウダ』でコミンテルンの活動の終息が公表されたその日、『ディミトロフ日記』には、次のような奇怪な記述が現れます」(同頁)

 「6月10日・・・・」(ディミトロフ日記の日付)

 「暗号化されたメッセージをわれわれの通信員に送った。 『従来通りのやり方で、今後のメッセージを送られたし』」(同頁)

 「コミンテルンはなくなったが、ディミトロフらモスクワ在住の幹部たちとの連絡を『従来通りのやり方』で続けろ、という指令です。 いったい、ディミトロフはどういう立場で、この指令を出したのか。 その謎を解く記述は、『日記』の続く部分にありました」(同212~213頁)

 「6月12日・・・・」

 「夜、スターリンのところで、(モロトフ、ウォロシロフ、ベリア、マレンコフ、ミコヤン、シチェルバコフが同席)ドイツ反ファシスト委員会、『自由ドイツ』設立にあたったわれわれの草案について討論。 草案は全体として承認された。 スターリンは、ドイツの抹殺や破壊の危険があること、この危険はヒトラーを打倒することによってのみ回避することができることの指摘が重要だと強調した。 誰もヒトラーと講和の調印をしようとはしないからだ。 ドイツを崩壊から救い、ドイツ人民の民主的権利と自由を回復し、議会的秩序を確立することなどーーこれらをドイツの愛国者たちの反ファシスト委員会の任務としなければならない」

 「-ソ連共産党中央委員会のもとに、諸国の反ファシスト委員会、秘密のラジオ放送、諸外国との連絡、無線通信、外国j語文献の出版などの指導を担当する特別の国際情報部[OMI]を創設することが決定された」

 「-この部がディミトロフを責任者としていることを敵が利用しないように、シチェルバコフをこの部の責任者とし、ディミトロフとマヌイルスキーを副責任者とすることが決定された。 この決定は公表されない。:この部の組織と活動は内部措置としておこなう」(以上、213頁)

 「6月14日・・・・」(引用ー省略)

 不破さんは、こうした、ディミトロフの「日記」をふまえて、次のように分析しています。

 「この決定は、国際情報部なるものの任務の第1に、諸国の反ファシスト委員会の活動の指導をあげています。 スターリンが、その発言の最初に、ドイツで設立される予定の反ファシスト委員会『自由ドイツ』の例をあげて解説していることからもわかるように、反ファシスト委員会の活動は、これからヨーロッパ諸国の解放闘争のなかで各国共産党の中心的任務となるべきものです。 その指導を新設の『国際情報部』が担当するということは、結局のところ、『国際情報部』が引き続き各国共産党の活動の指導にあたる、つまり、『国際的な指導センター』の役割をはたす、ということにほかなりません」(同214頁)

 「コミンテルン執行委員会、幹部会、書記局などの諸機関は解散しましたが、世界的な指導・連絡の役割をはたしていたコミンテルンの膨大な諸機構は、宣伝・出版などの機構ともども『国際情報部』の手に移りました。 この諸機構を動かす責任者にも、いままでどおり、ディミトロフが座りました。 しかし、そのディミトロフは、コミンテルンという国際組織の議長ではありません。 ソ連共産党中央委員会の一部門、国際情報部の責任者として、ソ連共産党の決定にもとづいて各国共産党の指導に当たる任務を負わされたのでした。 やがて、ソ連共産党の政治局で、国際情報部の活動を監督する任務には、モロトフが任命されました」(同上)

 「結局、コミンテルンの解散とは、コミンテルンをソ連共産党中央委員会に吸収し、各国共産党の活動を指導する『国際的な指導センター』の役割を、ソ連共産党が直接になうということにほかならなかったのです」

 

 

 


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