年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

安田講堂攻防:東大

2009-05-27 | フォトエッセイ&短歌
 正門を入ってモスグリーンに輝く銀杏並木を進むと東大のシンボルとなっている安田講堂の時代がかった玄関に出る。安田財閥の創始者、安田善次郎が匿名を条件に寄付した赤レンガ4階建の大講堂で1925(大正14)年に竣工した。
 安田善次郎は安田財閥の祖で前衛芸術家オノ・ヨーコの曽祖父で、ショーン・レノンの高祖父にあたる。1927年に大磯の別邸で右翼に暗殺されるという非業の死を遂げる。

<関東大震災による工事中断を経て竣工する。古色蒼然としたステンドグラス>

 政治の年である。キャンパスでも学園闘争が燃え上がり火炎瓶やバリケート封鎖など過激な戦術がエスカレートしていた。東大医学部がインターン問題で無期限ストに突入すると各学園のセクトが東大に集結し、全学共闘会議(新左翼系)の学生ら250人が安田講堂をバリケードで封鎖。
 機警視庁機動隊により強制排除が始まるとマスコミは東大安田講堂攻防戦として報道。講堂は荒廃状態のまま20年間以上も閉鎖。旧安田財閥系企業の寄付で改修工事がすすめられた。

<学生達が政治を語らなくなった。格差社会の到来で授業料が払えなくなった>

 安田講堂の南側、三四郎池を背に椅子にどっしりと座った巨大な銅像がある。東京帝国大学の草創期、第3代総長の濱尾新(はまおあらた)で東大の生みの親と言われている。
 1900(明治33)年、伊藤内閣に加藤高明が、帝大出身として初めて外務大臣に就任した時、「内閣はことごとく帝国大学の出身者で占めることになるだろう」と側近に話したという。浜尾の構想は今も健在であり東大官僚政治は揺るぐ事はない。

<濱尾総長の前で将来の日本を背負う閣僚達が元気に汗して遊んでいた>

三四郎池今昔:東大

2009-05-24 | フォトエッセイ&短歌
現在の東大本郷キャンパスのある地域、江戸時代には加賀藩前田家の上屋敷のあったところである。加賀藩以外にも富山藩・水戸藩などの屋敷で人通りもなく森閑とした大名屋敷地域であった。夜ともなれば狐火の出る漆黒の闇である。
幕府滅亡と同時にほとんどが明治新政府に収公され官有地となった。1877年、その跡地に東京医学校を移転、次いで東京開成学校を移転統合するなど「東京大学」が設立され1886年の帝国大学令公布により「東京帝國大學」と改称。

<苔むした工学部3号館が聳える。凡人には不明な数字が並んでる事だろう>

大名屋敷をそのままキャンパスにしたのだから赤門や「三四郎池」など当時の遺構が残っている。「三四郎池」は1638(寛永15)年、風雅を好んだという四代目藩主、前田利常の時に大築造されるなど歴史は古く育徳園心字池と称した。
今から100年前、夏目漱石が朝日新聞に『三四郎』を連載した。……赤門を入って、二人で池の周囲を散歩した。その時ポンチ絵の男は、死んだ小泉八雲先生は教員控室へはいるのがきらいで講義がすむといつでもこの周囲をぐるぐる回って歩いたのだ……かくして、三四郎池として親しまれている。

<関東大震災では避難場所、消火用水として利用。三四郎池も多忙だった>

工学部前(旧制第一高等学校)には弥生門があり、近くには弥生貝塚遺跡ある。明治時代に弥生土器が発掘された地で弥生時代という名称はこの地に由来する。
言問通りに抜ける細い路地風の道に面して弥生美術館、竹久夢二美術館、立原道造記念館が並んでいる。
~まてどくらせどこぬひとを宵待草のやるせなさ~木々の若芽が萌える。大正ロマンの夢二美人画が黒御影石に彫り込まれている。甘ったるい情緒的な美人画の夢二として有名でだが……実は反戦画も多く大逆事件で憤死した大杉栄とも親交がり官憲の尾行監視がついていた。

<大谷石の塀に埋め込まれた竹久夢二の美人画が何を語りかけているのか>

朱塗りの御門:東大

2009-05-20 | フォトエッセイ&短歌
 赤門といえば東京大学。歴史的には旧加賀屋敷御守殿門(東京大学赤門)と呼ばれるように加賀百万石といわれた前田家の屋敷の門である。
 1827(文政10)年、加賀藩13代藩主前田斉泰(なりやす)は、11代将軍徳川家斉(いえなり)の娘溶姫(やすひめ)を正室に迎えた。このように、大名が将軍家から迎えた妻を御守殿(ごしゅでん)と敬称し、朱塗りの門を創建するのが慣例であった。

<御守殿門を赤門と称するゆえんである。明治10年、東京大学に移管される>

 将軍:家斉の正妻は薩摩藩の島津重豪(しげひで)の娘寔子(ただこ)であるが、その他に側室・侍妾60人という豪腕である。生ました子女の数も50人以上というから、マア常識ではとても考えられない。
 問題はこの子供たちの落ち着き先を見つける事である。なんと言っても将軍の御落胤だからツマラナイ処にくれる訳にはいかない。由緒正しい大名家への押し付けや養子、政略結婚など婚活は困難を極めたが、水野忠成が奮闘して「永久就職先」をさばいた功績で将軍の信任を得て権勢をふるったという。赤門の内側。

<白羽の矢が立った大名家は断る事もままならず赤門建立に四苦八苦したとか>

 前田家に配属された溶姫(やすひめ)の母は将軍・家斉に特段の寵愛を受けたお美代である。父は下総の法華経寺の祈祷僧日啓。お美代が寵愛を受けるに及んで雑司ヶ谷に3万坪の土地を与えられ将軍の祈祷を担当するなど大奥にも絶大な影響を及ぼす。
 家斉の死後、怪しげな祈祷・妖言の責任を問われ遠島処分、お美代も溶姫の住む加賀屋敷に「押し込み処分」となった。そんな江戸の一コマを残った楠の木が語りかけている。

<幕府財政を窮地に陥れた将軍家斉。以後、幕府は弱体化し消滅に向かう>

白石城下・武家屋敷

2009-05-16 | フォトエッセイ&短歌
 戦国大名には名将といわれる軍師が、重厚な・時には軽妙な戦略戦術を提起して勝利を手中に収めていく。戦国時代に彩りを添える影の武将としてしばしば実態以上の評価が与えられ、その時代を楽しませてくれる。武田信玄に山本勘助、上杉景勝に直江兼嗣などなど。
 伊達政宗の片倉小十郎もその一人。伊達氏の仙台藩(青葉城)を守る拠点・白石城主になったのが、1602(慶長2)年である。3度あった伊達家存亡の危機を片倉小十郎が見事に裁き、これぞ軍師とさている。

<その片倉家の家臣小関家の屋敷が「武家屋敷」として文化財に指定される>

 屋敷の解体修理の時に1730(享保15)年の墨書が発見され、270年前の古建築物であることが判明した。庭樹に被われた川は生活用水となっていたが、白石城三の丸の外堀も兼ねたというから見事な地割りである。
 白石の有名な三白(葛・うーめん・和紙)など産業にも力を注ぐなど、現在でも片倉小十郎は伝説の軍師として圧倒的な人気である。

<屋敷の前面・側面を蔵王山塊からの清冽な沢端川が流れ、魚影が群れる>

 小関家は白石城(片倉氏)の中級武士であったというが、なんともこじんまりとした農家風な佇まいである。下級武士や農民の家がどんなに粗末な物であったのか推して知るべし。士農工商の士といっていっても貧窮の極みであった事がうかがれる。

<農家と変わらない小さな間取。武家住宅に変化する過渡期的な武家屋敷>

白石城下・片倉城主

2009-05-11 | フォトエッセイ&短歌
 白石城(しろいしじょう)は白石川の清流に沿って南蔵王を仰ぐ白石市の小高い丘の上にある。白石城は「みちのくの重要拠点」として位置付けられているように戦国時代から明治維新まで権力争奪の攻防地となった。
 1615(元和元)年の一国一城令後も例外的に存続が認められた城であったが、明治7年に民間に払い下げられ解体されるという数奇の運命を辿る。

<120年ぶりに白石城の本丸の一部が復元され、益岡公園のシンボルとなる>

 大河ドラマ「天地人」でお馴染みの上杉景勝の家臣・甘粕備後清長が白石城を居城にしたが、1600(慶長5)年、徳川家康が会津上杉征伐の軍を起こすと、伊達政宗が徳川方に呼応して白石城を攻略し伊達政宗の支配下にはいる。
 そして伊達家の重臣・片倉小十郎景綱が仙台藩・青葉城の守りとして白石城主に着任し、以降、明治維新まで片倉一族が城主として白石を治める事になる。

<本丸の天守閣(三層櫓)から新緑の葉越しに白石の城下町を眼下に見る>

 江戸時代を平穏に過ごした、ちっぽけな白石城が再び激浪の歴史に登場するとは誰が想像しただろうか。明治新政府に対抗する旧幕府勢力は戊辰戦争を戦っていたが、会津藩を支援すべく仙台藩・米沢藩などが白石城に会して反幕府軍事同盟を結成した。そして約20藩による奥羽越列藩同盟が結成されるも歴史の流れには勝てず新政府軍の前に解体した。
 国敗れて山河あり。兵どもの夢が石垣の間からゆらゆらと立ち昇る。

<政府軍に占領後、同盟を離脱した盛岡藩(南部氏)の管理下に置かれる>


江戸散策:千束の大池

2009-05-06 | フォトエッセイ&短歌
 中原街道は南千束の信号で環7と交差するが、その手前の左側に「洗足池」がチラリと見える。車両の多い排気ガスの酷いところでボートでもあるまいにと見過ごしていた。
 実際には非常に奥行きが深く、水面40000㎡もある風光明媚な森林浴も出来る大きな公園である。

<洗足池は流れ込む川はなく武蔵野台地の4つの湧水を堰き止めた池である>

 その昔「千束の大池」と呼ばれ灌漑用水として重要な役割を果たしていたので稲千束分の税が免ぜられていた。鎌倉時代、日蓮がこの地に寄って足を洗ったとの伝説から、千束は「洗足池」と呼ばれるようになったとか。その時に袈裟を掛けたという「袈裟掛けの松」もあるから如何にも本当っぽい。

<三連の太鼓橋「池月橋」。佐々木高綱の愛馬「池月」の馬像も近くにある>

 江戸幕府の軍艦奉行と陸軍総裁を兼任した勝海舟は、洗足池の風光を愛で晩年に千束軒という別荘を建てた。西郷隆盛との江戸城無血開城の談判もしばしばこの地で行われている。
 西南戦争で隆盛が戦死すると、その死を悼んだ海舟は南葛飾郡の浄光院に碑を建てている。
 海舟は洗足池に墓所を造れ、と遺言して亡くなった。池畔の海舟の墓の隣りに西郷隆盛の留魂碑がある。

<死してなを二人は何を語らっているのか。国のあゆみはあれで良かったのか>

塩田平:未完の塔

2009-05-01 | フォトエッセイ&短歌
 真言宗智山派の木造萱葺の古刹、独鈷山前山寺(ぜんさんじ)の本堂。塩田城の鬼門に位置し祈祷寺として武将の信仰も厚かったという。
 塩田平は広大な平地であるが、降水量が少なく飢饉に見舞われた。それが原因でもあろうか、有数の百姓一揆の多発地帯でもある。村人達は首謀者を義民として祀りながら、苦難の末に大小百を越える「ため池」を造り美田を作り上げていく。
 本堂の縁側から名物の「胡桃おはぎ」を食べながら平野の民衆のエネルギーを眺める。

<歴史を彩る寺社や支配階級である武士を支えたのも結局は民衆の力である>

 境内には国の重要文化財に指定されている三重塔がある。建立年代は不明だが和様・禅宗様の折衷様式から室町時代と推定されている。
 ところが、二層・三層の窓や扉、廻縁・勾欄が、何かの事情で工事が中断したままという珍しい建立途中の塔。それがかえってスッキリしていて調和がとれてるとかで「未完成の完成の塔」と呼ばれ評判となった。

<美しい未完の三重塔。竣功に至らなかった原因はミステリ-のままである>

 黒門を潜ると約200mの山門に至る参道が続く。両側には二抱えも三抱えもある見事な桜や松の巨木がある。圧巻は樹齢800年といわれる周囲5~6mもある欅の威容。まさに風雪に耐えた樹肌からは木の精が放たれているかのような感動を覚える。
 「参道を通ってこそ静かな、そして厳かな心になり仏や塔を拝観する心を養える」とか。

<参道を静かに見下ろすケヤキの妖樹。黒門の後には塩田平は開けている>