年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

風林火山の里(1)

2007-10-28 | フォトエッセイ&短歌
 紅葉にはやや早いが甲斐の国、武田信玄のふる里に退職風来組がブラブラと出かける。大河ドラマ『風林火山』の放映中とあって「風林火山」の指物が所狭しと翻って観光バスが行き交っている。宿代も1割増で経済効果には捨てがたいものがあり誘致合戦も熾烈とか。
『これ勘助、川中島の合戦ももう終わりワシも長ごうはない。次はどの辺りと心得る』『ははア、お屋形様、軍師・山本勘助めの策は「夕張とか津軽辺り」かと存じまするが』
 それにしても「風林火山」。何か力強く語呂の響きがよく、上杉謙信の「昆」とでは勝負にならない。しかし、歴史は皮肉である。女を近付けなかった不犯の英雄:謙信、方や好色で子沢山の信玄。滅びたのは武田家であり、上杉は末代まで名を残す事になる。


「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」⇒<疾(はや)きこと風のごとく、徐(しず)かなること林のごとく、侵掠(しんりゃく)すること火のごとく、動かざること山のごとく>だから何だ。ナンカ意味ガワカランと思ったら、中国の古い「孫子(そんし)」という兵法の本の一説で前後があるのだそうだ。「戦いに勝つ方法は敵の結束を混乱させ裏をかき、自分に有利な条件を臨機応変(りんきおうへん)につくり物事を良く見計らって戦にのぞめ」という趣旨だそうです。正々堂々と真正面からの戦術では戦に勝てないというのだ!


 武田軍滅亡の後、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康に支配され武田一族の再興は無かった。甲州は都への街道筋であり、黄金の産出国で軍事・経済の重要な拠点であった。
 長篠の合戦で新兵器鉄砲に破れた武田の騎馬軍は土地支配も有力武士に一任という土豪を基盤にした古いやり方であった。軍師・勘助の時代は去っていたのだ。それはまた逆に領主と農民の繋がりを強固にしていたはずである。
 村境や路傍に多くの粗末な地蔵尊が祀られているのが目を引く。野に散った敗軍の我が主の密やかな供養でもあったのか知れない。「風林火山」の里は石仏の並ぶ里でもある。武田節である ~祖霊(それい)まします この山河 敵にふませて なるものか 人は石垣 人は城 情けは味方 仇(あだ)は敵仇は敵~

  
 秋には似合わない濃い色調の花が石仏の側で揺れている。石垣となって倒れた雑兵どもの血のりでも吸収したかのように…

目黒界隈-紅蓮の炎

2007-10-23 | フォトエッセイ&短歌
 行人坂大円寺から発した火事をその時の年号から明和の大火と呼び、明暦の大火;『振り袖火事』、文化の大火:『車坂の大火』とあわせて江戸三大火といわれている。有名なのは明暦の大火、1657(明暦3)年である。被災面積では『行人坂の大火』が1番大きく太平洋戦争での東京大空襲、大正12年の関東大震災に次ぐものだと主張している。
 大火災などというものは自慢にも名誉にもならないと思うがそうではない。一番でないと沽券に関わるのだ。「振り袖火事」派によれば江戸城天守閣を焼失させ死者10万人を数えるもので大空襲・大震災を除けば日本史上最大のものでロンドン大火・ローマ大火と並ぶ世界の3大火災の一つだという。行人坂か!振り袖か!
 行人坂派!振り袖派!実は話題性からいう2派閥を圧倒する強敵がいる。御存知「八百屋お七」(天和の大火)である。
 井原西鶴の『好色五人女』を初め浄瑠璃・歌舞伎の定番で百花繚乱、鈴ヶ森刑場で火あぶりの刑に処せられたという以外には史実が見えない。
 ~本郷の八百屋の娘お七は1682(天和2)年の火事で焼け出され円乗寺で避難生活をした。その時、寺小姓の吉三郎と深い恋仲に陥る。家の再建により寺を引き払うが「吉さん恋しや・恋しや吉さん」で想いは募るばかり、もう一度火事になれば会えるかも知れないと思い放火した。~<円乗寺も吉三郎も諸説紛々である。お七は放火ではなく未遂説もある。ここまでが前説>

    <八百屋お七が火あぶりの刑で処刑された品川の鈴ケ森刑場>        
ここからが本論。
 江戸市中引廻しの上処刑されたお七に心を痛めた吉三郎は諸国を行脚、僧「西運」となって明王院(大円寺の下の現:雅叙園)に落ち着いた。「西運」は此処でお七の菩提を弔うために目黒不動と浅草観音に一万日日参の悲願をたてた。
 雅叙園の前には「お七の井戸」があり念仏行の前に此処で水垢離(みずごり)をとったという。それから27年5ヶ月後お七が成仏を成し遂げたと夢枕に立ったという。こうして「お七地蔵尊」を建立した「西運」は更に市中行脚の日々を送り行人坂の石畳や太鼓橋の石橋を架けたとされている。

<左:西運が身を清めたお七井戸。右:お七火あぶりの刑で柱を立てた石の台>
 境内の隅に「お七吉三縁起絵巻」を描いた碑が建っている。木枯らしが吹きすさぶ凍える身体にむち打って、念仏鉦を力一杯たたき、念仏を唱えながら、日参する西運の姿が流麗な筆で描いてある。

   <「お七地蔵尊」と「お七吉三縁起絵巻」を彫った根府川の自然石>

目黒界隈-大円寺の石像

2007-10-18 | フォトエッセイ&短歌
 目黒通りの「権之助坂」は箱根駅伝の最初の難所でここら辺りで強豪校が引き離しにかかる。行人坂はその裏通りとなり、目黒の富士見茶屋から下っていくと左手に大円寺という面白い寺院がある。寺院の故事来歴は地方名士の家系図と同様に99%眉唾ものであるので詮索する事はできない。
 天台宗大円寺。江戸の初期、この辺りに巣くい住民を苦しめていた無頼の徒を放逐するため湯殿山の行人(行者)、大海法印を請い迎え大日如来堂を建立した。その甲斐あってか「不良ども一掃の功あり」という事で家康から「大円寺」の寺号を与えられたという。
 江戸に入る旅人を厳しい山坂で待ち構えて襲撃した山賊でもいたのであろうか。あるいは家康の支配を良しとしない抵抗勢力でもいたのであろうか。
 この大円寺、1772(明和9)年2月29日に放火によって焼失したが、76年後の幕末に薩摩島津藩主の菩提寺として再興された。

    <参詣客が絶えない。若いカップルが水子地蔵に黙して合掌>

 再建まで実に76年間も要した理由は、幕府によって出火の責任を問われたからである。「火事と喧嘩は江戸の華」などと云われているが、「華」ところではない。研究者によれば江戸時代を通して幕府の財政は火災による都市再建復興の為につねに「火の車」であったという。しかも、火災の最多原因は「放火」だったという。幕府は極刑をもって臨んだ。 
 大円寺の放火犯人が寺の僧侶であり、江戸市中628町を延焼させたというので寺の再建が許されなかったのだという。(多くのガイドブックは、犯人は真秀という盗人の放火説。しかし、真秀という名前や正午に火の手が上がったというから寺僧説をとりたい)。であるならば、真秀寺僧の火付けに至るまでの屈折した心理はなんであったのか。暗い眼差しが思われる。いずれにしろ逮捕・判決で2ヶ月後には処刑されている。

<石版に浮き彫りされた羅漢像で、珍しいタイプであるが石仏としては粗末なものである。石工不足か、急がせたか、財源不足か。石材の質も悪い(520体像)>

 目黒行人坂大円寺から発した火炎は春先の南西風に煽られて白金・新橋・銀座から江戸城のやぐらまでも延焼。更に神田、湯島、下谷、浅草千住に至るまで帯状に焼き尽くしてしまった。多くの死傷者が出たことが想像される。
 この大火の犠牲者供養のために、石工が50年の歳月をかけて完成したといわる石仏群(都指定文化財)が大円寺の東側の土手に並んでいる。「五百羅漢の石像あり明和9年の造立とす」という記載がみられる。
  
  <穏やかな微笑み、苦悩の頬杖、諦観の瞳、泣き顔、表情は様々である>



目黒界隈-行人坂

2007-10-12 | フォトエッセイ&短歌
 江戸八百八町。江戸には多くの町があった事を示す慣用的表現だが、それは5代将軍綱吉の頃の話である。その後も江戸城下町の開発・拡大は進み「暴れん坊将軍」吉宗の時期には1600町を越え、近郊の村境と接してしまうようになる。
 そうすると何処までが江戸町域なのかが問題になってくる。何しろ徳川政治は怪物のような強大な官僚政治体制だから、社会の変貌に対応出来ない。また縦割り行政だから町奉行・寺社奉行・大番頭等の解釈が違ってトラブルでもあったのであろう。
 1818年、目付;牧助右衛門は「御府内外境筋之儀」(江戸町域は何処までなのか政府の見解を示せ)という意見書を提出している。
 官房長官(老中:阿部正精)は閣議(評定所)を開き「別紙の通りだ。相心得よ」と通達している。それによると南側は<南品川を含む目黒川辺り>となっている。つまり、目黒川までを江戸八百八町として江戸町奉行の管轄下に入れた事になる。

<コンクリートでブロックされた目黒川の淀み。太鼓橋から桜堤の上流をみる>

 目黒駅は武蔵野の丘陵上にある。西口から目黒通りを越えた辺りが<江戸名所図絵>が描く<富士見茶屋>があり、ここからの富士を「佳景なり」と絶賛している。一際高い丘陵であった事を伺わせる。実際にここから雅叙園の方向に歩くと行人坂(ぎょうにんさか)という急坂になって、足許を注意しないといけない。
 江戸の初め頃、山形県は「出羽三山」の一つ・湯殿山の行者(行人)が切り開いた坂ということから「行人坂」の名がついたとか。下って行くと右側に大円寺の山門があり、更に下っていくと雅叙園(廃寺:明王院の所在地)にぶつかる。
 この街道は江戸市中から目黒不動尊参詣の道として大変にぎわった道で「江戸っ子の日帰りハイキングコース」として親しまれていた。

<この坂を登り切れば江戸市中である。旅人や遊客の難所で無頼共の悪行の地>

 雅叙園の門から50m進むと目黒川に架かる太鼓橋にでる。浮世絵:歌川広重の「雪の太鼓橋」で構造と雰囲気を知ることが出来る。太鼓のような丸い石橋であるが、現在の太鼓橋はタダの詰まらない橋である。
 しかし、ご存じ『鬼平』の一説…<目黒村の盗人宿の宗平が、行人坂を下って太鼓橋へかかると向こうから来た老爺がに会う。二人は、太鼓橋の傍の鰻屋へ入って旧交をあたためた>。太鼓橋の鰻屋は今でも健在である。
    
<目黒川を渡ると村里になり目黒不動尊の甍がのぞく。金木犀の香が一面に漂う>

終章-代官屋敷

2007-10-07 | フォトエッセイ&短歌
3代将軍:家光の頃に参勤交代・鎖国・5人組制など江戸幕藩体制が確立し、以後約3世紀に及ぶ封建体制を完成させた。その総仕上げとなったものが寛永年間(1624~1642)の領地替えである。旗本・譜代・外様の領地を変えたり減らしたりしながら徳川家の身辺を強固に固めたのである。
 この時、彦根藩は譜代でありながら更に「江戸賄料」として世田谷15ケ村を加増された。彦根藩は地元の豪族:大場市之丞を代官として取り立てた。すでに見たようにこれが世田谷代官の誕生である。この大場代官、一時期年貢引負で追放になるが、幕府滅亡までその役職を全うする。
 大場美佐は12代の当主であった大場与一景福の妻である。25才の時、中延村から嫁入りし代官夫人として大場家の家政に務め、代官所を支える賢夫人として評判の人であった。彼女の聡明さを知るものとして1860(安政7)年から45年の長きにわたって書き継がれた日記がある。


 大老:井伊直弼の「安政の大獄」は反幕急進派を激怒させその中心となっていた水戸脱藩浪士らの襲撃によって江戸城桜田門外で暗殺された。開国日本の壮大な夢を描き政治家としてこれからという早すぎた挫折である。その死さえ極秘にされた。世に云う「桜田門外の変」である。
                          

 没年46歳 笠石に「家紋の橘」を配した直弼の墓は豪徳寺にある。
 代官屋敷こだわりの理由はこれである。(安政7年3月の日記)
『三日雪ふり夕方よりヤミ。御節句例之通り祝ひ候事、九ツ頃、太子堂弁次郎以使御屋敷にて変事出来致候事申越候、夕方野良田、下もげ、小山名主三人之者御礼ニ行、帰り委細御様子相わかり夫より仕度被成御上屋敷へ御出府、…』
 三月三日、雪が降る。節句を祝った。九ツ、弁次郎が井伊家屋敷から直弼暗殺を知らせて来た…代官は直ちに武装した手兵を引き連れて井伊家屋敷に向かう。朝の襲撃事件が昼には世田谷領に伝えられ驚愕と混乱のなか領主が屋敷に向かうのである。歴史を動かした大事件を彼女の一筆がさらりと書き留めていた。  
        
 代官所の土間から裏庭に抜ける戸口。残暑の陽光の向こうに、百十数年前の春の雪がちらつき慌ただしく行き交う足音が聞こえてくるようだ。

羽州街道-泣いた赤鬼

2007-10-02 | フォトエッセイ&短歌
 安久津古墳群。この地域一帯の古墳群の総称で墳形:円墳:横穴墓など40程が確認されている。東北<みちのく>もヤマト政権との活発な交流を持ちながら古墳時代に入り、独自の文化を形成していたのである。しかし、奈良の都から遠く離れていた事もあって蝦夷(えみし)と呼ばれ異民族と恐れられた。征夷大将軍はこの蝦夷を征伐する将軍の職名である。
 また近くの「日向洞くつ」(国指定遺跡)からは縄文時代の最初の頃(1万年前)の土器が発見され、厳しい東北にも長い人々の生活があった事を物語っている。狩りの時代から農耕の時代に、そして権力を持つ豪族達の社会に緩やかに発展していたのだ。
 復元家屋は縄文時代の竪穴式住居で全国的に均一の設計である。山の麓の日当たりの良い湧き水の出る場所に位置している。鴨が長閑に細波を立てている。
 

 高畠町はマツタケの産地であった。「松茸狩り」は2,000円也で取り放題である。松茸が出ていそうな松林(松茸山と云うのだそうだ)に入山する権利(入山券)を購入し、「松茸狩り」を楽しむ。イチゴ狩り・ナシ狩りを連想したらトラブルのもとです。マツタケがポコポコ出ている錯覚に陥ったらおしまい…。「松茸探し」と心得るべし。そもそも素人には枯れ草と松茸の区別さえつかないからマア無理でしょう。
 しかし、権利金2,000円の代価として「松茸探し虎の巻」が与えられる。
①日当たりが良い場所は、採れるらしい。②雨の日の次の日は採れるらしい。③群生している可能性があるらしい ④松の木の根元だけでなく、広範囲に探すといいらしい ⑤松の根と岩が入り組んでいる所がいいらしい。
 敵もさすがですネ。<採れるとは云わないで⇒らしい!>
     

 「まつたけブドウロード」を越え九十九坂を登ると山形と福島の県境となる鳩峰峠である。これで高畠町ともお別れか… 峠の展望台に登ると米沢市街が煙って見える。そして雑木に隠れるようにして現代日本児童文学の先覚者、日本のアンデルセンと称えられた浜田広介氏の文学碑がある。広介氏が高畠町の出身であること知る。1921年28歳で最初の童話集『椋鳥の夢』を刊行。
 『ないた赤おに』(浜田広介作)……<わたしは、おにに生まれてきたが、おにどものためになるなら、できるだけよいことばかりしてみたい。いや、そのうえに、できることなら、人間たちのなかまになって、なかよくくらしていきたいな> 心優しき赤おにの物語を思い出す。まだ人間が「鬼になっていない」頃の話で子供たちが子供たちとして輝いていた時代の事である。<羽州街道:終>