年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

三渓園・光

2008-05-28 | フォトエッセイ&短歌
 <原 三渓>のコレクター力は桁外れのもので、平安時代仏画の代表作である
「孔雀明王像」(国宝、東京国立博物館蔵)をはじめ、国宝級の美術品を多数所蔵。のみならず、室町時代の旧燈明寺三重塔をはじめとする京都や鎌倉など各地の古建築を購入して移築、庭園も含めて整備を進めたのである。
 ちなみに、園内には、国の重要文化財建造物12棟(移築元:京都5棟、神奈川2棟、和歌山3棟、岐阜1棟、東京1棟)、横浜市指定有形文化財建造物3棟を含め、17棟の建築物を有する。

<燈明寺三重塔の見事な九輪(相輪)。天辺の宝珠(ほうじゅ)がキラリと光る>

 それにしても、凄い財力である。政商絡みだと思うがなかなか名前が出て来ない。
明治新政府の国づくりのスローガンは「富国強兵策」である。資本主義経済の導入と確立を果たし欧米列強に追いつかなければならない。そのために産業の近代化が急がれ官営・富岡製糸工場を操業したが、経営的には軌道にのらない。
 民部省→大蔵省→内務省→農商務省とたらい回しにされた末に民間に払い下げとあいなった。
払い下げを受けたのは最大の政商三井財閥で31万円の富岡製糸工場を4万3千円で手に入れた。三井はそれを横浜の生糸商:原合名会社(原富太郎)に譲っている。
 <原 三渓>が巨万の財を成したきっかけであるといわれる。なるほどナ~やはり。

<縁切り寺の名で知られる鎌倉東慶寺にあった禅宗様古建築物に注ぐ5月の陽>

 原善三郎(三溪の養父)が三溪園の南端、本牧海岸寄りに山荘:松風閣を建てる。眼下には松籟にたゆたう漁民の磯舟が影を落とす。その先には東京湾の海原が続き、指呼の間に房総の富津御崎が見えた。
 しかし、それも今は昔の風景。海岸線は埋め立てられ石油コンビナートが海を被っている。それでも小学生の頃の春の遠足といえば本牧海岸の潮干狩りが定番ではあったのだが。

<三渓は嘆くだろうか。明媚な海を新日本石油が独占私有してしまった事を!>

三渓園・池

2008-05-25 | フォトエッセイ&短歌
 横浜の本牧にある国指定名勝の三溪園は<原 富太郎>が屋敷を横浜市に寄贈(昭和28)した事から始まる。譲り受けた横浜市は戦災で荒れた広大な屋敷を復旧再興して市民の公園とした。約18万㎡の日本庭園は、四季折々の自然の景観のなか、歴史的建造物が巧みに配されている。
 古く外苑は明治39年には一般にも公開され大池に映る三重塔はランドマークとして壮麗な日本庭園を象徴する。現在は、財団法人三溪園保勝会が管理維持している。

<京都:燈明寺から移された三重塔は関東地方では最古の塔。1457年建築>

 <原 富太郎>は何者なのか。書画骨董に造詣が深く、茶人で絵を描いたりし、岡倉天心と交流を持ち<原 三渓>と号した。また、新進芸術家の育成や支援も積極的に行い、前田青邨の「御輿振り」、横山大観の「柳蔭」、下村観山の「弱法師」など近代日本画を代表する多くの作品もこの園内で生まれた。
 1892(明治25)年に、跡見女学校の教え子であった実業家:原善三郎の孫娘、屋寿(ヤス)と結婚し、原家に入籍。生糸の生産・輸出を近代化すなど経営の国際化に力を入れ、経済人としても辣腕をふるい実業家として成功をおさめた、とある。

<原三渓は岐阜県の人(本名:青木富太郎)。白川郷の庄屋の合掌造を移築>

 1906(明治39)年、外苑が完成すると「明媚なる自然の風景はみだりに私有すべきではない」と一般公開したというのが面白い。本人はセッセセッセと私有化に奔走したであろうに…

<内苑出入り口の睡蓮池。中には京都の桂離宮と対比される臨春閣がある>

根津神社・団子坂

2008-05-22 | フォトエッセイ&短歌
 根津神社は花の中にある。境内の左側の傾斜地は一面のツツジの植え込みである。赤・白・ピンクの花が盛り上がって咲き誇っている。仄かな甘い香りが漂う花園を歩けば過ぎ去った青春の一ページが蘇って来るだろう。
 夏目漱石や森鴎外など多くの文豪が思索しながら散策したのがこの根津神社の境内である。水飲み台の裏面には:明治37年建立・建立者:森林太郎(鴎外)の銘が見える。

<ツツジの花も終わりに近づき緑に変化する季節。最後の花見客で賑わう> 

 根津裏門坂を日本医大病院に沿って右側が深い谷になっている本郷台地の傾斜地を団子坂に向かって歩く。100mも進むと夏目漱石が住んでいた貸家(居跡の碑)がある。『我が輩は猫である』『坊ちゃん』等を執筆した家で「猫の家」と親しまれていたとか。実は漱石の前には鴎外が住んでいた(現在は明治村に移築保存)。
 その後、森鴎外は少し離れた団子坂に居を構え60歳で没するまで、30年間ここに住み『舞姫』『阿部一族』等を書いた。彼はその自邸から東京湾が一望出来る事から、「観潮楼」とよんで歌会などを催した。現在は「鴎外記念図書館」として公開されているが、火災と東京空襲で建物は焼失。当時を偲ぶものはイチョウと庭石だけである。

<史跡:「観潮楼跡」と記念図書館。その壁面の碑は『沙羅の木』の一節>

 団子坂は潮見坂とも呼ばれている。現在、団子坂下を見れば不忍通りは廃ガスで曇り、その先は住宅が密集し更にその先は都心の高層ビルが林立している。漱石・鴎外の頃は汐の香りが届きそうな海原が望めたという。
 この団子坂は多くの文芸作品に登場する。江戸川乱歩の「D坂殺人事件」、森鴎外の「青年」、二葉亭四迷の「浮雲」、宮本百合子「田端の汽車そのほか」などの他、夏目漱石の作品には、しばしば団子坂の名前が出てくる。
◇ 森鴎外『細木香以』
「団子坂上から南して根津権現の裏門に出る 岨道に似た 小径がある。これを 藪下の道と云う」

<明治時代には二間半の狭い急坂道。転ぶと泥まみれの団子のようになったとか>

根津神社・赤鳥居

2008-05-16 | フォトエッセイ&短歌
 チョットしたボタンの掛け違いから思わぬ人生を歩むことになる歴史上の人物がいる。江戸幕府6代将軍:徳川家宣(いえのぶ)もその一人である。甲府藩主:徳川綱重の長男で家柄としては特級だが、綱重19歳の時に身分の低い26歳の女中に生ませた子では家督を継ぐどころか、世間体も悪いと家臣の新見家に預けられ、新見左近と名乗った。
 封建社会の家制度確立の頃だ。彼の人生はこれで決まった!
 ところが綱重に男子が産まれないので、呼び戻されで家督を相続。更には将軍綱吉にも世嗣がないので何と将軍の養子に迎えられ、江戸城西の丸で次期将軍の番を待つ。この時すでに43歳。ようやく綱吉が亡くなり家宣が将軍職についた時は48歳の晩年で在職3年後の1712(正徳2)年、51歳で死去。「正徳の治」といわれる江戸幕府安定期のお殿様も流転の生涯だった。
 根津神社は甲府藩の江戸屋敷でその彼:徳川家宣の生誕の地といわれている。唐門(からもん)は国指定重文、屋根に独特の唐破風があることから呼ばれる。

<神社の正門。唐門、両妻に唐破風:弓を横にしたような形を備えている>

 そんなこんなで、並みの「氏神・根津神社」は5代将軍綱吉のお声掛かりで「世に天下普請」と言われる大リニューアルが行われた。権現造りの本殿・幣殿・拝殿・唐門・透塀・楼門などは未だ現役で国の重要文化財に指定されている。
 ところがルーツが氏神だから、まさに八百万の神々がいるわけで、大変賑やかな境内である。駆け込み稲荷は狛犬の代わりに使い狐が社を守護するという変わり物。何ともロマンチックな乙女稲荷(名前の由来は不明)。

<鮮やかな長~い朱の鳥居をくぐり抜けるといかにも狐にバカされたようで爽やか>

 大消費地である江戸の近郊は、新鮮野菜や穀類の生産地で村々の経済も豊であった。そのために早くから「庚申講」などのコミュニティー活動も行われていたのであろう。区内最古の庚申供養塔(こうしんくようとう)や賽の大神が祀られている。都市化の過程で放り出された庚申塔をコンクリで固めたものだが。
 庚申信仰は庚申の日に夜通し眠らないで天帝や猿田彦を祀って宴会などをする風習。庚申講を3年18回続けた記念に塔を建立することが多い。申は干支で猿、村の名前や庚申講員の氏名を記す。

<「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿の上に青面金剛を彫るのが定番>

立夏・寛永寺

2008-05-12 | フォトエッセイ&短歌
 家康と二代将軍秀忠の葬儀は芝の増上寺で行われ、徳川将軍家の菩提寺は増上寺に定着するはずであったが、三代将軍家光は秀忠との確執から葬儀は上野の寛永寺で執り行う事を遺言した。こうして、徳川将軍家の菩提寺は<芝の増上寺>と<上野の寛永寺>の2寺が並立し、家綱・綱吉・吉宗・家治・家斉・家定の6人は寛永寺に眠っている。
 家康の信任を得た天海僧正は江戸城鎮護の祈願寺として寛永寺を創建。それが菩提寺となったのだから、天台宗の関東総本山に格上げされご威光は絶大になった。

<柔らか若葉を透して立夏の木漏れ日が寛永寺山門に降り注ぐ>

 それから約250年、幕府の鎮護を託された寛永寺の神通力も外様の田舎大名には効力を発揮せず、戦わずして投げ出された。江戸城の無血開城である。しかし、気骨のあるというかラストサムライがいたんです。彼等はここ上野寛永寺に立て籠もり戦意高揚。
 しかし、最早、ラスト侍もお上に楯突く賊軍、幕府体制のバリケードである寛永寺に立て籠もった訳だから、薩長官軍は此処を先途とばかりに襲いかかる。1868年の彰義隊による上野戦争である。
 意気はともかく歴史の流れには勝てず彰義隊はわずか半日で潰滅、壮大な規模をほこった寛永寺の堂塔伽藍もこの戦いでそのほとんどを焼失した。官軍は寛永寺を旧体制の象徴とみて必要以上に徹底的に焼き払ったと伝えられる。祠堂32宇,子院36坊,伽藍7堂など主要伽藍を焼失した。
 
<大名達は忠誠の証しとして巨大な灯籠を競って奉納した。春日型の石灯籠>

 上野戦争で焼け残ったいくつかの貴重な文化財も第二次世界大戦時の東京空襲で殆どが灰燼と化した。それでも、二つの戦災をまぬがれた古建築が上野公園内の各所にわずかに点在している。
 如何なる理由を付けようとも正義の戦争はない。原爆はそれを象徴し我々に訴えているのである。碑の文<20世紀の伝言:共に平和と人生を語りたい。百年後の人々よ ここに私たちの手紙を埋蔵します。『百年後の人々の手紙』実行委員会>
   
<「永遠に平和を誓う広島・長崎の火」が鳩の胸の中で燃え続けている>

立夏・牡丹傘

2008-05-08 | フォトエッセイ&短歌

 5月5日、端午の節句は立夏(りっか)の日。『暦便覧』によれば「夏の立つがゆへなり」、要するに夏が始まる日で草木の新緑が萌え夏の気配が感じられる頃となる。
 五月晴れの空にバタバタと音たてて翻る「鯉のぼり」が陽に輝く新緑によく映える。がこの時期、高気圧と低気圧が交互に通過するので晴天続きのGWという期待はできないという。そう言えば今年も日本晴れは無かったナ~。

  立夏:白堂翁書 日本 初候 蛙初めて鳴く
                 次候 みみず出ずる    
                  末候 筍生ず
    中国 螻蟈鳴(ろうこくなく) *アマガエルが鳴き、産卵を始める
        蚯蚓出(きゅいんいず) *ミミズが地上にはい出る
        王瓜生(おうかしょうず) *カラスウリの青い実がなり始める

 亀は万年!長寿の秘訣はストレスをため込まない事。そんな風情ですね。あくせくすることなく、長閑に立夏の陽を浴びて寂として動かず。群れてひなたぼっこをする習性でもあるのか。
 公園や寺社の池をはじめ一般家庭で飼育されるのはクサガメというからこれもクサガメなのか?しかし、有名なイソップ童話のカメさんはセッセセッセと地道に勤勉に働く人間像(亀像)として描かれていたと思うが……。ために足は速いが怠惰なうさぎさんが負けてしまうお話。

         


<タニン様の背中に乗り上げての甲羅干しとは。水苔が白く乾いている>

 原産地中国では牡丹を花の王様といい富貴の花とする。日本へは奈良時代に弘法大師が持ち帰ったという。優雅で華やかな美人のたとえに使われる『立てばシャクヤク,座ればボタン,歩く姿はユリの花』とか。日傘が似合います。



<嗚呼、富貴なる牡丹よ!傘を差し出したくなるぜ。寛永寺のぼたん園>


丹沢・古代杉

2008-05-05 | フォトエッセイ&短歌
 丹沢湖を中川に沿って6kmも北上すると箒沢(ほうきさわ)集落の入口にどっしりとそびえ立つ箒杉 (ほうきすぎ:国指定天然記念物:全国名木百選)の威容に圧倒される。胸高周囲12mは圧巻だが樹齢2000年というのがなんとも凄い。付近に縄文・弥生の遺跡があるから古代国家の成立と共に人々の生活をうかがい知りながら2000年間も生きて来たのだ。
 この地域は、江戸時代は幕府直轄の「御料林」として、杉 (スギ) ・桧 (ヒノキ) ・欅 (ケヤキ) ・樅 (モミ) ・樛 (ツガ) ・榧 (カヤ) の6種は「宝ノ木」として伐採が禁じられ、この集落を宝木沢(ほうきさわ)と呼んでいたという。いつの頃から「宝木杉」になり転じて「箒杉」となったとか。
 1972年7月、集中豪雨にみまわれ箒沢集落では家屋の大半が流出したが、箒杉は土砂崩れをぐっとくい止め踏ん張った。

<「箒杉は残った!」と集落再建の感動的シンボルになったという>

 山北町を中心に県北西部は茶の産地である。山間の気候条件がよく茶の栽培に最適という事でその歴史は古いが、本格的な栽培は関東大震災後の産業復興策として大正12年以降、全村一致で茶の導入を決定。ブランド名を「足柄茶」という。
 山霧が立ち込める丹沢山ろくの、天と地の恵みをさずかって生まれ育った足柄茶は深い香りとコクのある味で全国茶品評会一等の連続受賞とか。そろそろ夏も近づく八十八夜、茶摘みの時期である。

<耕して渓谷に下る茶畑。遙か下方に中川の渓流が覗き見られる>

 箒沢集落から更に3km上流に西丹沢自然教室がある。西丹沢登山の拠点で畦ケ丸路の登山道入口となっている。その吊り橋から渓流の瀬音を聞きながら対岸の若芽の萌えあがる息吹を眺める。山が笑うという。
 この先の犬越路を越えると山梨県の同志村であるが、林道工事はストップして車は通れない。正解である。もう自然破壊の道路は絶対いらない。

<「春山淡冶而如笑」(早春の芽吹きはじめた華やかな山の佇まい)である>

丹沢・影法師

2008-05-01 | フォトエッセイ&短歌
 労働者が企業戦士と言われていた頃、退職ともなると人生の終焉という感じだった。現在では、雇用形態や退職システムの多様さから退職もそれほど深刻ではなく、「第2の人生」の節目として語られるようになった。とは言え、60歳半ばまで勤め上げた退職は奇妙な感慨をもたらす。ヤレヤレと肩の荷を下ろしたような軽さとサテサテどうすんだという長くはない先々の重い終着駅の思いもある。そんな退職会で「秘湯めぐり」を行っている。
 孫のお守りか、町内会の世話役か、世界漫遊旅行か、語学の60の手習いとかいろいろある。まだらボケだの腰が痛いだの四十路の娘が嫁にも行かぬだのヌカしながら今を語る。かっての職場では3人の出社拒否が話題になっているとか。
 何か、明るさに立ち向かうような影法師がいいナ~。

<丹沢湖の上流・中川川東岸の隧道をウグイスの鳴き声が響き渡る>

 丹沢湖の水面の標高320 m 、流域面積 159 km²。この湖底に三保村が眠っている。
むかし昔・・・
西の「世附(よづく)川」、北の「中川」、東の「玄倉(くろくら)川」に沿って村が立ったんだと。明治42年、平和を保つという意味で三村が合併して「三保村」となった。その「三保村」にはこんな昔話があったのだと。
『ある男がヤマメを3貫も取って帰ったら、狐にみんな取られて、蕎麦畑の中で投網を打たされていたトサ』
『鉄砲撃ちの長七が丹沢山で夜中、糸を引く娘に出あった。化物だと思い撃つが、効かない。行灯を狙うと消える。翌朝見ると、毛の白い大きなムジナであったトサ』

<トンネルを出るとそこは新緑の深い湖面であった。ボートが揺れている>

 中川温泉は、今から約400年前に武田信玄が北条氏康との合戦で負傷した将兵を入浴療養させた事から、「信玄の隠し湯」と言われている。泉質はアル力リ単純泉でPHが高く、胃腸病、傷の回復などのほか、美容効果も高く、お肌がつるつるになる「美人の湯」と親しまれている。
 今日のお宿は、「蒼の山荘」。露天風呂は裏丹沢の山々を借景にした、野湯の趣である。

<「信玄の隠し湯」っていうのは実にどこにもあるんだ。別に隠すこともあるまいに>