年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

台場・砲台の址

2008-09-24 | フォトエッセイ&短歌
 1853年6月、ペリーがフィルモア大統領の国書を携えて開国を迫って来た。「困った!困った!」で幕府は翌年回答する事を言い含めて日本を去らせたが、年明けを待つかのように1854年1月、今度は軍艦7隻を率いて再び浦賀に来航した。
 この間、約7ケ月余り、幕府は海岸防備に死力を尽くし、砲台築造を突貫工事で進めた。想像を絶する修羅場の工事現場となった。海中に石垣を築き埋め立てて人工島を築く。その上に台場上部の工事をし、軍事施設の整備をするわけだ。
 石垣の石は伊豆や真鶴から運ぶ、土は八ツ山、御殿山、その辺の山を切り崩して小舟で運ぶ。建築費用は80万両(700億円)という。予定の7カ所のうち6カ所の台場を完成させたところで予算が底をついたが、日米和親条約が締結された事もあって「品川御台場」の工事は中止された。

<土手に掘り込まれた武器庫。汐を含む涼風が舞い西日が柔らかく照らす>

 ともあれ6つの台場は完成し、江戸湾に入港する異国船に標準を合わせて大砲が据えられた。十字砲火を浴びせられる強力な要塞として設計したとあるが実際はどうだったのだろう。
 「与力の中島三郎助が黒船を見て、今の我々が持っている大砲ではだめだ。役に立たない」と言ったという。和流の砲術でペリー艦隊に立ち向かうのは到底無理な相談だったのか。後に来たイギリス公使のオールコックや、いろんな外国の人が「日本の台場は全然怖くないよ。」といったという記録も残っているのだが、使用したことがないから威力の程は分からない。

<復元された台座だが大砲はない。攘夷の嵐が国中を吹き荒れる前夜である>

 研究者によって江川太郎左衛門英竜(ひでたつ)の築造計画はオランダのエンゲルベルツの築城書、フランスのサヴァールの築城書が参考にされていることが明らかになった。蘭学者にして博学多識であるが、そればかりではない。伊豆韮山(いずにらやま)の名代官として領民の信頼も厚く、優れた地方行政官でもあった。7ケ月という短期間に80万両の予算を駆使し、人工島を築いての大土木工事を陣頭指揮した手腕は並大抵なものではない。

<大谷石を刻んだかまど。焚き口が6つもあり同時に多くの炊飯が可能である>

台場・幕末の騒

2008-09-18 | フォトエッセイ&短歌
 1792年、江戸時代も終わりに近づいた頃に林子平(はやししへい)という経世家が『海国兵談』という本を出版した。「…長崎の港に石火矢台(いしびやだい=砲台の事)を設けている。…思へば江戸の日本橋より、唐・阿蘭陀まで境なしの水路…」(海に囲まれている日本なのに、長崎だけに砲台を造って、大事な江戸湾に砲台を造らないのはどうしたことか。
 単純明快なこの疑問に、幕府は「お上の御政道に口出しするな」と出版禁止のうえ禁固処分の言論出版弾圧事件。翌年、憤懣やるかたない失意のなかで死去。『親も無し妻無し子無し版木無し、金も無ければ死にたくも無し』子平の人柄が伝わってくる時世の句である。

<江戸から唐・阿蘭陀(中国・オランダ)まで海原は繋がっている。一衣帯水。>

 2隻の黒船の軍事力を背景に、司令長官ペリーが領海を侵犯して江戸湾に入って来たのは林子平処罰後しばらく経ってからである。
 幕府は慌てふためき為す術もなくてんやわんやの大騒動。当時、異国船が来航したら有無を言わずに打ち払え(無二念打払令:むにねんうちはらいれい)であるが、撃退のしようがない。幕府は伊豆代官の江川太郎左衛門に命じて、洋式の海上砲台の建設を急がせた。
 異国船を正面から側面から十字砲火を浴びせられるようにと7基の石火矢台(砲台)の建設となった。何とか、2度目の黒船来航には一部を完成させ、黒船を横浜沖で食い止める事が出来たが、日米和親条約が結ばれ計画は中断された。

<一度も火を噴くことがなかった正方形の第3砲台。石垣は修復されている>

 その後、お台場は撤去されたり、埋め立て地に埋没したり数を減したが、第3・第6台場が国の史跡として保存された。第3お台場が「台場公園」に整備され、「お台場海浜公園」と一体になって開放された。第6お台場は上陸禁止で当時の様子がそのままだと言われている。
 「お台場」のいわれは2説ある。幕府に敬意を払って<台場に御をつけた><御砲台場の砲の字が欠落した>。
 周囲を石垣で囲み、その縁を高い土手にして、鍋底のように中央を低い構造にしている。1辺が160メートルの正方形。北側には石組みの船着場跡があり、火薬庫・玉薬置所などが土手に掘り込まれている。司令官や兵士の駐屯する陣屋なども整い、軍事要塞化されている。

<土手に囲まれた鍋底型台場遺跡の全景。芝生広場の中央に陣屋があった>

台場・白露の陰

2008-09-12 | フォトエッセイ&短歌
 木陰の風が少し涼しさを運んで来るようです。白堂翁の揮毫と一句で参りましょうか。 ~ 逝く季へ別れ惜しむか蝉時雨 ~
 白露    日本      中国
   初候  草露白し    鴻雁来(こうがんきたる)
   次候  せきれい鳴く  玄鳥帰(げんちょうかえる)
   末候  つばめ去る   群鳥養羞(ぐんちょうしゅうをやしなう)
       註:玄鳥‥つばめ  養羞(ヨウシュウ)‥食べ物を蓄える
 残暑厳しいとは云え去る7日は白露(はくろ:しらつゆ)。秋の気配が見え始める時節、ミクロ的には、草に降りた露が白く光って見える時季という。季節感を失った都市砂漠では想うべくもないが、朝靄の中に幽かに色付き始めた稲穂に宿る露など見ると、秋近しの感慨に浸れる。
 昇りゆく陽射しの強さに追い立てられるように、ここを先途と啼き騒ぐ蝉時雨も、言われれば夏の終わりを詠っているようにも響いてくる。
    
<ガンが飛来しツバメが去る。多くの鳥たちは食を蓄え冬に備える>

 9月12日は水路記念日であるが、あまり知られていない。海上保安庁水路部の設置を記念して「水路業務の重要性について国民の理解と協力を求めるための記念日」という事だ。水路部の業務は航海の安全に関する事であるが、近年は海峡架橋・海底トンネルなどの工事のための調査から海底資源の開発・海水汚染の調査など極めて地味だが広範囲の仕事を担当している。
 取り敢えず、水路記念日に因んで「海浜」を訪れる。海上保安庁水路部が総力を挙げて取り組んだであろうレインボーブリッジも客船の大型化が進み、東京港に寄港する客船数は減少。首都圏での「海の玄関」の座は横浜港に奪われた。水路部の沽券のために言えば、近くの羽田空港のために高さの規制があったためで設計ミスではない。

<レインボーブリッジが白露の西日に陰を落とし波間に揺らせている>

 ♪♪われは海の子、白浪の /さわぐいそべの松原に、…… 文部省唱歌の「我は海の子」で懐かしい詞と曲である。がズーッと歌っていくと、ヤッパリという詞に出会う。 ♪♪いで大船を乗り出して、/ われは拾はん海の富。/ いで、軍艦に乗り組みて、/ われは護らん海のふ國。
 最も、「水路記念日」制定の議論のなかで「海軍記念日」の継承という意味が込められたと言う。いざ軍艦に乗って帝国を護る気概を歌う。
 ともあれ、東京湾は埋め立てが進み「海の子」は姿を消した。これはイカンと、模造ミニチュアの砂浜を造り上げた。磯辺の松原の変わりに臨海副都心のビル街が屹立する。

<模造の砂浜を散策する家族の風景。少年の声に犬が海に飛び込む>

 

智恵子惜別・会津

2008-09-06 | フォトエッセイ&短歌
 「智恵子記念館」に等身大の長沼智恵子の写真が架かっている。『智恵子抄』の心身を病んだ智恵子のイメージしかない者にとってはアッと驚く迫力で迫って来る。色白のふっくらした丸味を帯びた健康的な東北美人で青春そのものである。
 女性解放運動のはしりともなった『青鞜』創刊号の表紙絵を描いたブルーストッキイングの「新しい女」と喧伝されるのに不足なき雰囲気を持っている。そして云う。『世の中の習慣なんて、どうせ人間のこしらえたもんでしょう。それにしばわれて一生自分の心を偽って暮らすのはつまらないことですわ。わたしの一生はわたしがきめればいいんですもの…』まさに先駆的な発言である。智恵子は明治19年の生まれ、22年に大日本帝国憲法が発布される。

<長沼智恵子の生家の台所土間から玄関に向かう。福島県安達郡油井村>

 彼女の発言は大正デモクシーの民主主義思想による女性解放の波に後押しされたのかもしれない。しかし、『青鞜』創刊の年には「特高」が設置され、主義者が弾圧され、治安維持法が公布されている。
 この事に彼女は多くを語っていない。1923(大正12)年、38歳の時に関東大震災がおこり、東京は廃墟と化し社会不安が起こるなか社会主義者の大杉栄・伊藤野枝夫妻と甥橘宗一が憲兵隊で虐殺された。
 彼女は「婦人の友」に寄せている。『もとより、かかる事件の忌わしい事は、法律にもとるからだけではありますまい。… 他人の生命に手をかけるなんて、何という醜悪な考えでしょう。暴力こそ臆病の変形です。』と国家権力の本質を突いて厳しく批判している。
 彼女は極めて寡黙で口の中で呟いてそれを飲み込んでしまうような話し方をしたという。そんな智恵子の発言だけに、彼女の生涯の光と陰を時代の中にあぶり出している。

<街道から部屋越しに裏の坪庭が見える。当時、使った織機が時代を映す>

 <あれが阿多多羅山 あの光るのが阿武隈川>智恵子はしばしば光太郎の元を離れてふる里の二本松に戻っている。彼女はそこで心からの安らぎを求めていた。
 彼女は慢性的な湿性肋膜炎を抱えていた。更に精神分裂症の兆候があらわになるのは1931(昭和6年) 46歳の時と云われる。
 症状は悪化の一途をたどる。大きな声で話す事もなかった智恵子が「東京市民よ、集まれ!」交番の近くで大勢の人を前に大声ワケのワカラヌ演説をする。隣家の塀を乗り越えて大声でわめく。連日連夜の凶暴状態が続いたとも記録されている。光太郎は困却し外出するときに戸や窓を厳重に釘づけにして出かけた。
 しかし、この壮絶な狂気に苦しむ智恵子の姿は『智恵子抄』に書かれる事はなかった。1938(昭和13)年、粟粒(ぞくりゅう)性肺結核が進行し最期を迎える。 享年53歳である。
   
<智恵子写真:パンフより。家は清酒「花霞」を醸造する酒造家。屋号は米屋>


智恵子青春・会津

2008-09-01 | フォトエッセイ&短歌
 二本松城跡から2km離れた旧奥羽街道に沿って「智恵子記念館」がある。高村光太郎の妻・長沼智恵子の生家跡で『智恵子抄』で知られている。
<智恵子は東京に空が無いといふ、/ほんとの空が見たいといふ。…/智恵子は遠くを見ながらいふ。/阿多多羅山(あたたらやま)の山の上に/毎日出てゐる青い空が/智恵子のほんとの空だといふ>
 御存知『智恵子抄』は近代詩集の中でも、まれに見る美しい純愛の詩集として、余りにも美しい愛の形を歌い上げた詩集として多くの人々によって愛読されて来た。

<精神分裂症(統合失調症)のなかでも忘れ難きふる里の安達太良山の空>
(残念!霧雨で安達太良が望めず。土産物屋の写真を拝借しています)

 長沼智恵子は1886年5月、ここ安達郡油井村の資産家<造り酒屋>の長女(二男六女)として生まれた。福島高等女学校から日本女子大学に進み、女性洋画家(当時としては極めて珍しい)の道を歩む。才媛才女としての芸術的感性と経済的地位に恵まれて破格の青春を送った事になる。
 智恵子のデビューもまた衝撃的である。雑誌『青鞜(せいとう)』の創刊号の表紙絵を描き若き女性芸術家として注目されたのだ。平塚雷鳥が著した「元始、女性は太陽であつた」の創刊の辞は、家父長制度下、封建制の桎梏から女性を解き放すという日本における婦人解放の宣言として注目された。
      
<1913年、文部省の提唱する良妻賢母の理念に反すると発禁処分を受ける>

 大正2年、長沼智恵子は28歳。光太郎の後を追って上高地に行き、一緒に絵を描くなど深い信頼と愛情を確認し、翌年に駒込のアトリエで生活を始める。光太郎は云う「私はこの世で智恵子にめぐり会った為、彼女の純愛によって清浄にされ、以前の退廃生活から救い出される事が出来た」と。
 二人の結婚生活は「お互いの自由を束縛しない」という理念から、高村家に入籍せず夫婦別姓、別居結婚の形態をとり、「愛と芸術」の理想を追求しようとした。
しかし、この新しい男女形態を模索した試みも智恵子の心の病から挫折を余儀なくされる。
 <狂った智恵子は口をきかない ただ尾根や千鳥と相図る もう人間であることをやめた智恵子に ……(風にのる智恵子)>光太郎は庇護者なしには生きられなくなった智恵子を入籍した。共棲生活を始めて20年近い歳月を経て高村智恵子は誕生したのであったが、智恵子がその事を認識する事はなかったかも知れない。

<明治初期の面影を残す油井村の智恵子の生家。造り酒屋の杉玉が見える>