年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

三四郎池今昔:東大

2009-05-24 | フォトエッセイ&短歌
現在の東大本郷キャンパスのある地域、江戸時代には加賀藩前田家の上屋敷のあったところである。加賀藩以外にも富山藩・水戸藩などの屋敷で人通りもなく森閑とした大名屋敷地域であった。夜ともなれば狐火の出る漆黒の闇である。
幕府滅亡と同時にほとんどが明治新政府に収公され官有地となった。1877年、その跡地に東京医学校を移転、次いで東京開成学校を移転統合するなど「東京大学」が設立され1886年の帝国大学令公布により「東京帝國大學」と改称。

<苔むした工学部3号館が聳える。凡人には不明な数字が並んでる事だろう>

大名屋敷をそのままキャンパスにしたのだから赤門や「三四郎池」など当時の遺構が残っている。「三四郎池」は1638(寛永15)年、風雅を好んだという四代目藩主、前田利常の時に大築造されるなど歴史は古く育徳園心字池と称した。
今から100年前、夏目漱石が朝日新聞に『三四郎』を連載した。……赤門を入って、二人で池の周囲を散歩した。その時ポンチ絵の男は、死んだ小泉八雲先生は教員控室へはいるのがきらいで講義がすむといつでもこの周囲をぐるぐる回って歩いたのだ……かくして、三四郎池として親しまれている。

<関東大震災では避難場所、消火用水として利用。三四郎池も多忙だった>

工学部前(旧制第一高等学校)には弥生門があり、近くには弥生貝塚遺跡ある。明治時代に弥生土器が発掘された地で弥生時代という名称はこの地に由来する。
言問通りに抜ける細い路地風の道に面して弥生美術館、竹久夢二美術館、立原道造記念館が並んでいる。
~まてどくらせどこぬひとを宵待草のやるせなさ~木々の若芽が萌える。大正ロマンの夢二美人画が黒御影石に彫り込まれている。甘ったるい情緒的な美人画の夢二として有名でだが……実は反戦画も多く大逆事件で憤死した大杉栄とも親交がり官憲の尾行監視がついていた。

<大谷石の塀に埋め込まれた竹久夢二の美人画が何を語りかけているのか>