小学校の同窓会開催の往復葉書が舞い込んだのは成人の日であったか。……モウというかマダというか 激動の時代を生き抜いて古稀を迎えました。「古稀お祝い同窓会」のご案内です。幹事長は6年間、級長を独占して来ました不肖蔵蔵が務めます……
成人の日は私の誕生日で血液が軽くドックンと波打ち、変哲もない挨拶文を意味ありげに読み込んでいた。級長の蔵蔵はクラゾウと読むが、蔵が二つも並ぶ面白い名前なのでダイジンとあだ名されていた。
学校は横浜の最北部の信じ難いようなド田舎であり、古文でいう鄙(ひな)を説明するような佇まいの村であった。横浜なのに海を見ないで生涯を終える村人がいたし、文字の読めない老人も何人かいた。多摩丘陵の谷間に拓かれた田と丘陵を開拓した畑からの農産物が何とか暮らしを支えた。
基本は路地物野菜の栽培であり特段の生産物があったわけではない。屋敷内で実をつける柿・栗・無花果・竹の子・梅などをそれらしく木箱に並べて出荷した。鄙とはいえ横浜・東京という屈指の消費地に近接地しているので小金が入ったのだ。戦後の食糧事情の悪い時期で何でも売れまくったという事もあるかもしれない。
何とか生き延びていた、と言うと少々大袈裟に聞こえるが、一年時のクラス集合写真をみると衣服や履き物など酷く粗末なもので「映画に見る浮浪児」の集団である。セピア色の写真はしっかりと星霜を重ね紛れもなく70年の生涯を刻んでいる。
その古里は高度成長、日本列島改造、バブル経済と戦後経済が何をしたのか、検証に値するような土地開発によって無残な変貌を遂げていた。利便と合理性を優先させた都市開発は人間と自然のあるべき関係を断ち切ってしまった。醜い資本の論理が醜いビール腹を持て余す昭和のジェントリーによって蹂躙されていた。
かって水俣の資本論理は徹底的に有機水銀説を叩きのめすし、伝染病として患者を隔離させた。水俣は半世紀の死闘の末にようやくチッソの論理を破綻させた。自然と人間性の破壊に通じる古里の無謀な開発も同じ性格のもであるが、些かの批判も反省もなく資本優先の開発が行われている。
激動の時代を生き抜いて古稀を迎えたか…。ダイジンの姿形がどうなっているか想像もつかない。多分、会っても分からないだろう。古稀お祝い同窓会の返信葉書に出席の○印をつけて投函した。
<もはや開発の槌音は幸せの尺度にはならない>
風邪のよなしつこい冬が抜ききれぬ古稀の外出頭に掌置く
春浅くビル風が舞うバス停は多摩丘陵の谷の辺りか
武蔵野の木立の森の湧水は生き物多し ヒトも一員
木漏れ日が揺れた小楢の武蔵野はコンクリの下で息を止めん
開発の尖兵ならん電鉄の田園都市線はただひたすらに
初恋の人とは言えず「忘れたよ」フォークダンスで足踏みし君
居残りで算数ノート見てもらう古稀の彼女の変わらぬ気配り
母娘のよな登ちゃん江ちゃん手を取って半世紀もの年輪を拾う
この出会い最期になるか盃タッチ「まだ現役だぜ」ガキの面影