年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

隅田川<34>新大橋親柱

2010-10-27 | フォトエッセイ&短歌
 隅田川新大橋は明治18年、文明開化の風潮の中で新しい西洋式の木橋に架け替えられた。さらに、明治45年にはアールヌーボー風の高欄に白い花崗岩の親柱を持つハイカラな鋼製トラス橋として生まれ変わり、市電も開通した。使用した鉄材は全てアメリカ (カーネギー社) からの輸入品であった。
 それも、重量車輌の増加で破損が酷く修理補強を行いながら使用していたが、ついに大型車の通行が禁止され橋の機能を果たさなくなった。昭和52年に現在の橋に架け替えられた。老橋は消えゆくのみ!

<歴史を眺めた老橋の面影は、左岸橋詰広場に保存された親柱が物語る>

 江戸時代には新大橋のすぐ上流は中州になっていて「三また」と呼ばれ、月見・花見・夕涼み・花火見物の名所であった。全盛期には江戸一番の繁盛を見せたといわれる。
 「三また」は隅田川・神田川・竪川の合流点のことで、流れの関係で大きな島(中州)が形成されたのだろう。

<中州など想像もつかない隅田川の流れ。高速道路が川岸に沿って延びる>

 旧隅田川新大橋は貴重な建造物であるとして愛知県犬山市の博物館明治村に保存される事になった。中央区日本橋側の橋詰めにあたる部分で全体(全長180m)の八分の一、25mほどが移築された。
 中央に車道を通し、両側には歩道を張り出し、路面は厚い鉄板の上にコンクリートを打ち、仕上げにアスファルト板を敷いていた。

<威風堂々。現代の橋のデザインとは異なる。ガイドブックのコピーで失礼だが>

隅田川<33>あたけの橋

2010-10-22 | フォトエッセイ&短歌
 浮世絵師:歌川広重は名所江戸百景の中に新大橋を「大はしあたけの夕立」として描いている。当時、新大橋付近が俗に「あたけ」と呼ばれていた。
 「あたけ」は史上最大と言われる安宅丸(あたけまる)と呼ばれた船の名称からきている。1632(寛永9)年に徳川家光が向井 忠勝(むかい ただかつ)に命じて新造させた軍船形式の御座船(ござぶね=大名などが乗るための豪華船)、安宅丸の船蔵がっあったので新大橋の東岸を一帯を「あたけ」と呼んでいたのだ。
 絢爛豪華な巨船で実用性がなく将軍の権威を示す船であったが、幕政も安泰し、維持費用が掛かり過ぎるという理由でこの地で解体された。

<新大橋の河岸になる幕府の御船蔵跡。ここで御座船:安宅丸は解体される>

 江戸時代の「木橋」は洪水による流出や火災による焼失などを繰り返していた。明治45年には鉄橋に生まれ変わり、市電が通るようになり、災害にも打ち勝った。関東大震災の時に隅田川の橋がことごとく焼け落ちたが、唯一被災せず、避難の道を確保して多数の人命を救った。
 大震災の復興後、新大橋は「人助け橋(お助け橋)」と称される。橋の西詰にある浜町交番敷地裏に「大震火災記念碑」、および「人助け橋の由来碑」がある。

<浜町交番敷地裏の首都高向島線の下にある惨状を伝える「大震火災記念碑」

 有名な画家ヴィンセント・ヴァン・ゴッホは浮世絵を愛した。そして『私の好きな日本人は、自らが花であるかのように自然にふるまう素朴な人々だ。相互の友情に支えられ、自然の中でつつましく生活している』とも言って、400点以上の浮世絵をコレクションした。
 特にゴッホが影響を受けたとされる歌川広重の「大はしあたけの夕立」(「雨中の大橋」)、彼はこれを模写するなどして印象派を創出したと言われる。
  
<広重の浮世絵:新大橋「大はしあたけの夕立」を模写したゴッホの作品>

隅田川<32>新大橋建設

2010-10-18 | フォトエッセイ&短歌
 日本橋浜町から江東区新大橋にかかる橋が『新大橋』である。現在の新大橋は、昭和51年に架け替えられたもので、名橋といわれた新大橋の歴史や名声を汚さないようにデザインに力を入れたとある。が素人目にはシンプルで橋の持つ風情や存在感に迫るものがない。
 初代の新大橋は1693(元禄6)年に完成。『千住大橋』と『両国橋』の2橋では不便だと当時「大橋」と呼ばれていた両国橋の下流に3橋目がかけられた。ゆえに新大橋と命名された。こうして、江戸:隅田川に第三番目の『新大橋』が完成し、『千住大橋』『両国橋』の3橋が出現した。

<新大橋は中央に二本の大きな主塔を配した2スパンの斜張橋で風情もなし>

 当時、橋の東詰に住んでいた松尾芭蕉は架設中の橋を見て『初雪や かけかかりたる 橋の上』と読んだ。完成した新大橋を渡って『ありがたや いただいて踏む はしの霜』とも読んでいる。
 しかし、江戸時代の橋は「木橋」であったため、破損、洪水による流出、火災による焼失を繰り返した。その回数は20回を超えたと言われる。幕府財政が苦しくなった享保年間、ついに幕府は橋の維持管理をあきらめ、橋の廃止を決めた。
 江戸っ子は怒った!民衆は嘆願を繰り返し、橋の維持管理の諸経費を町方が負担することを条件に、1744(永享元)年に新大橋の存続を認めさせたという。
        
<新大橋下のコンリートテラスに描かれている、芭蕉の橋を見上げている絵>

 町人たちは橋の維持・管理費の確保に知恵を絞った。橋詰で市場を開いたり、カンパなども集めたという。また「此橋の上においては、昼夜に限らず、往来の輩、やすらうべからず、商人・物もらひ等とどまり居るべからず、車の類一切引き渡るべからず(橋を渡る者は、休んだりせず渡れ。商人も物乞いもとどまるな。荷車は一切通行禁止)」の高札も掲げられたという。
 重量オーバーによる橋の損壊や大惨事を起こした江戸時代の木橋の様子がうかがい知れる

<川や橋の惨事は昔も今も変わらない。新大橋の下にスタンバイする消防艇>

みちのく<11>湯殿山

2010-10-14 | フォトエッセイ&短歌
 羽黒山神社から月山神社と続き最後は湯殿山神社である。月山から湯殿山までは僅かの距離であるが、車は通れない。一度平野に戻って122号線を南下し湯殿山有料道路を走って駐車場に至る。
 湯殿山神社参籠所駐車場から修験者の境地に入る神域なのだが、参詣用シャトルバスがガンガンと登っていくので清浄神秘の世界という訳にはいかない。

<湯殿山神社本宮参詣口に建つ朱の大鳥居から、コンクリの道路が頂きに続く>

 湯殿山神社は出羽三山の奥の院とも呼ばれ、五穀豊穣・家内安全の守り神として崇敬される。月山・羽黒山で修行をした行者がここで仏<大日如来>の境地に至るとされる、イレギュラーな神社である。
 谷底に湧出(ゆうしゅつ)する温泉の沈殿物に覆われた岩石の温泉塔を御神体としている。

<写真撮影禁止、土足厳禁という厳しい規制があるが、子供らの声で賑々しい>

 神秘のヴェ-ルに包まれた御神体は、茶褐色の巨大な岩で古来から口外禁止とされ「語るなかれ、聞くなかれ」と戒められて清浄神秘の神の住み家となっているのだが…。その為に普通神社に見られる、本殿、拝殿などは存在しない。素朴な自然崇拝の原形である。
 裸足になって受付で、お守りと人形(ひとがた)を購入し御祓いを受ける。そして人形に身体の穢れを移して水へ流すのだ。人に語ってはいけない霊場の儀式とか…。
 松尾芭蕉は『おくのほそ道』で「語られぬ湯殿にぬらす袂(たもと)かな」と詠んでいる。近くに名も知らぬ真っ赤な実が鮮やかに揺れていた。

<2010年・夏の「みちのくシリーズ」はこれにて終わる。次は隅田川・新大橋>

みちのく<10 >月山

2010-10-09 | フォトエッセイ&短歌
 時間がないので超急ぎの出羽三山神社めぐりとなった。羽黒山の石段でおかしくした膝を気遣いながら月山に向かう。深田久弥氏は「羽黒(418m)と湯殿(1500m)は山として論じるには足らない。ひとり月山だけが優しく高く立っている」と言っているように、月山は標高1984mで最も高く、岩が露出している山頂は荒々しい。
 つづら折りの深山を自動車で八合目駐車場まで一気に走る。登山道の入口である八合目駐車場は生憎と一瞬の深いガスに覆われた。ここから弥陀ヶ原(みだがはら:御田ヶ原)を経て山頂の月山神社(がっさんじんじゃ)に至ることになるが…。

<ガスの八合目駐車場。快晴なら庄内平野・最上地方が一望なのだが、残念>

 月山は高山植物の宝庫としても知られ、八合目から広がる弥陀ヶ原には、クロユリ、チングルマ、ニッコウキスゲなどの高山の花々が咲き誇る。弥陀ヶ原は湿地帯で木道が敷かれ、様々な高山植物の花、池塘、雪渓を目にすることができる。山頂にかけては国の天然記念物に指定されている。弥陀ヶ原から1時間半で月山頂上に到達できる

<木道脇の羽後薊(ウゴアザミ)の群生。淡い紫の花が霧に揺れる>

 記録によれば月山は神仏習合の古い形をとり、月山神は阿弥陀如来とされていた。明治維新により、神仏分離令が出され出羽三山は廃仏毀釈の激しい波に晒され、僧侶や山伏には還俗して神官となる者もいた。また多くの貴重な仏像、仏具、経巻が破壊によって失われたり、売り払われて散逸したりもした。
 今回は月山神社は次回に期す事にして残念ながら弥陀ヶ原の一周で戻る事になった。

<弥陀ヶ原の湿地帯を一周する木道が長く続く。コツコツと靴音が響くのみ>

みちのく<9>羽黒山:五重塔

2010-10-05 | フォトエッセイ&短歌

 随神門(ずいしんもん=旧山門)をくぐって参道を進むと樹齢1000年と伝えられる巨杉:爺杉(じじすぎ)がある。それを過ぎると東北地方:最古の塔といわれ、国宝に指定されている羽黒山五重塔(はぐろさんごじゅうのとう)が忽然と現れる。平安時代中期の平将門(たいらのまさかど)の創建と伝えられているが定かではない。
 純和様の伝統的な手法による塔は、高さ約29m、三間五層の柿葺(こけらぶき)素木造(しらきづくり)である。均整の整った古色蒼然とした五重塔は立ち去り難い姿で時代の光芒を放っている。

<「五重塔」は通称で、正確には「千憑(より)社」。祭神は大国主命である>

 五重塔を過ぎると「一の坂」上り口でいよいよ2446段の石段が待ち構えている。仙人のような修験者ならいざ知らず、俗人・凡人には心臓破りの石段である。しかし、世は高齢化社会、有料自動車道路が山頂まで伸び、じいさんばあさんもお参りできるようになっている。
 「涼しさやほの三か月の羽黒山」芭蕉の句もある。さすが「奥の細道」を踏破した芭蕉さんは健脚であったのだ。

<杉の参道。実際の樹齢はわからないが、かなりの古木であることはわかる>

 なぜ、山門が「随神門」、五重塔が「千憑社」なのか。明治政府は神仏分離令(神と仏を切り離す)で山内の寺院や僧坊をほとんど破壊・廃止したが、仏と神を入れ換えて存続させたものもあった。
 五重塔の本尊は聖観音像であったが、これを焼き払い大国主命(オオクニヌシノミコト)を祀ったのはその一例である。歴史は権力によってしばしば改竄(かいざん)されるのである。
              
<仏様であれ神様であれ平和が一番。鐘楼堂の前に建立された世界平和の塔>

みちのく<8>羽黒山:出羽神社

2010-10-01 | フォトエッセイ&短歌
 月山・湯殿山・羽黒山を「出羽三山神社」というが、推古天皇の頃に創建された羽黒山神社が最も古く出羽三山神社の中心となっている。月山と湯殿山が冬には雪のために司祭や参拝が困難なこともあって、羽黒山の社殿に出羽三山の神々が合祭されている。
そのため、歴代領主だけでなく朝廷や幕府などの中央権力からも崇敬され社領の寄進や社殿の造営などが繰り返され多くの寺社建造物が残された。
 現在の三神合祭殿は1818年に再建されたもので茅葺の入母屋に特徴を持つ「合祭殿造り」と称する独特な建築様式と云われる。桁行13間2尺(24.2m)、高さ2丈3尺(28m)と壮大なもので、国指定重要文化財に指定されている。

<杉の巨木に聳える出羽神社の三神合祭殿。茅葺の重厚さとうねりが圧巻だ>

 多くの文化財の中で存在感を示す建造物が鐘楼堂である。厚い茅葺で柱や梁、垂木などは建物の規模以上に太い材料が使用されている。雪や厚い茅、鐘の重量に耐えさせるためでスタイルはよくないが、どっしりとした力強さと存在感を感じさせる。
 鐘楼堂の鐘は「建治の大鐘」と呼ばれ、鎌倉時代の蒙古襲来の際、元軍撤退の祈祷を行った鐘として尊ばれている。

<不格好に見える鐘楼堂の堂・鐘ともに国指定重要文化財に指定されている>

 鳥居を潜って社務所を通り神殿に向かうのだが、奥の院と呼ばれる三神合祭殿は羽黒山の頂上にある。その山頂までは参道約2㎞、2446段の石段が天に向かってそびえ立っている。参道は樹齢300~600年の杉585本によって守られている。この杉並木は国の特別記念物に指定(森林浴の森:日本100選)されている。

<杉林をぬって続く羽黒山表参道石段、往復3時間はみないといけない>